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徳川家康が征夷大将軍になった当時、家康はまだ秀頼の(直属の家臣ではないにしても)部下という立場で、関ヶ原の戦いも豊臣家臣の主導権争いという名目だったはずです。それにも関わらず、家康が秀頼を差し置いて征夷大将軍という称号を得ることに豊臣側から反対は起きなかったのでしょうか?
また、徳川幕府成立時において豊臣と徳川の石高はどちらが上だったのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 回答ありがとうございます。
    ちなみに豊臣全盛期の豊臣家の領域と江戸幕府成立時の徳川家の領域では前者の方が大きかったんですかね?
    ご存知でしたら教えてください。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/04/17 11:57
  • 平氏である織田信長にも征夷大将軍の称号はに朝廷から提案されたので、源氏しか征夷大将軍になれないというのは真っ赤なデマです。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/04/20 00:47

A 回答 (3件)

豊臣は藤原・平・木下など様々の姓を名乗るが、源氏は名乗れず。


征夷大将軍は頼朝が将軍になって以来、源氏に専用となる。
藤原や皇族が名乗ることもあったが、やがて足利・徳川と源氏を称したものが専有。

そこでやむなく関白となる。

将軍は天皇の任命するもので豊臣は秀吉が死に、関ヶ原で負ければ、もはや家康の方が優位ですね。

秀頼は薩摩に逃げたといううわさもあるが、再起できずね。
この回答への補足あり
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秀吉が関白になったのは、征夷大将軍になれなかったためだと云われる。


それが真実かどうかは疑問がないわけではないが、いずれにしても、秀吉は無理やり摂関家の養子という形を取って、豊臣姓を賜り、関白となった。
つまり、豊臣政権は「天皇の代理人」としての関白の権威で、諸大名に朝廷の官位を与え、結果的に関白として武家の頂点に立つスタイルをとった。征夷大将軍はそのまま武家の頂点を意味するが、回りくどい方法を採用したわけだ。
この方法は、形式的には武家だけでなく公家も含めた日本全体の、天皇を除く頂点に立つことを意味するので、秀吉の名誉欲を満たすには征夷大将軍より遥かに格上の関白は、これ以上望むことができない満足感を与えただろう。

問題は、秀頼を後継者にするために、関白を譲った秀次を殺してしまい、秀頼が成長して関白になる前に、秀吉が死んでしまったことだ。
そしてまだ子供だった秀頼の朝廷の序列は、家康よりも低かったのだ。つまり、この時すでに、必ずしも家康が、秀頼の下風に立たなければならない大きな要素のひとつが失われていたのだ。
そして、関ケ原を制して名実ともに第一人者となった徳川家康は、その後も豊臣秀頼より上の朝廷ランクでありつづけた。ただしその差はわずかで事実上対等ではあった。

朝廷は、いずれ秀頼を関白にする方向であったようだ。朝廷は、朝廷を抑えこもうとする徳川の力を抑える意味で、豊臣を利用しようと思っていたのかもしれない。
家康としては、秀頼を関白にさせたくない。加藤清正・福島正則などの秀吉恩顧大名の中には、秀頼擁護の動きを隠そうともしない連中が現れ始める始末だ。
だから家康は、自分が死ぬ前に片付けねばならないと、方広寺鐘銘事件を引き起こして豊臣家を滅亡に追いやったのだろう。

ちなみに幕府成立時の石高は幕府の方が上だが、秀吉は金山銀山を抑えたほか、重要港湾都市など利権を伴う拠点を握っていたので、財政的には豊臣の方が遥かに上だっただろう。家康も関ケ原以降は、豊臣の財を少しでも削ろうと随分苦心している。それでも、大坂の陣では10万の兵を城に集めて長い籠城戦を軽々と演じてみせたのだから大変な資金がまだまだあったことがわかる。
この回答への補足あり
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徳川家康のウィキを読めばわかります。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D …

簡単に言えば、秀吉の遺言で「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」とあったために五大老筆頭になったこと。
関ヶ原の戦いで石田三成を破ったこと
天皇に征夷大将軍に任命されたこと

先に書いたようにウィキを読めば数分でその当時の情勢がわかりますよ。
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