準・究極の選択

日中戦争で日本は最終的には中国全土を制圧して植民地にすることを目指していたんですか?

A 回答 (6件)

そんな効率の悪いことはやりたくても出来ませんでした。



「中国全土」とお書きですが、中国は余りにも広く、地域によって気候風土も地形も埋蔵されている天然資源も違うので、本気で植民地経営を考えた場合には、全土を同じように扱うことにはそもそも無理があります。

農業生産に適した地域と、天然資源に恵まれた地域と、工業生産に於いて原材料の搬入や製品の輸出に適した水運や鉄道輸送が可能な地域を押さえることが重要なのであって、植民地経営にメリットが無いその他の広大な地域(辺境に行けば広大な荒れ地がどこまでも広がっているだけです)をわざわざ制圧する意味はありませんし、当時の大日本帝国及び日本軍にそんな能力はありませんでした。

ドイツやアメリカの軍隊では兵士をトラックに乗せて迅速に遠い作戦地域まで輸送する体制が実用化されていましたが、皇軍ではトラックの数も少なく、歩兵はひたすら歩いて移動していましたから、広大な中国の全土を制圧するなど夢のまた夢にすぎませんでした。

しかし、軍部や日本政府がプロパガンダとして「中国全土を制圧するのだ」と華々しくブチ上げたことはあったようですが、これは厭戦気分を一掃して聖戦完遂を国民に呼びかけるスローガンですから、本気にしてまともに評価などすべきではありません。
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これはね、明治維新まで遡ります。



上海に出かけた高杉晋作等は、欧米列強の奴隷
となっている中国を目にして、
このままでは日本がヤバい、ということで
明治維新になりました。

後は、列強の植民地にされまい、とする
涙ぐましいほどの努力でした。

日清日ロ戦争は、朝鮮半島に列強、特に
ロシアが来ないようにするための戦争でした。

日中戦争もその延長です。

日本としては、列強の侵略さえストップ
出来ればよいのです。

それは日本だけでは無理です。
だから、中国を仲間にしたかったのですが
中国があのていたらくで、頼りになりません。
それで、中国を占拠してしまえ、ということに
なったのです。

この戦略は、薩摩の島津斉彬から西郷隆盛に
そして、日本政府に受け継がれたモノでした。




日中戦争で日本は最終的には中国全土を制圧して
植民地にすることを目指していたんですか?
 ↑
植民地ではありません。
欧米列強の植民地政策は、現地人を奴隷化し
資源などを強奪するものでしたが、
日本は、台湾、朝鮮の例でも判るように
インフラを整え、識字率を上げ、
アジアの力をステップアップして、列強に
対抗しようとしたのです。

これが、大東亜共栄圏というものです。

植民地なら、欧米のように地球の裏側でも
やっていたはずです。
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カテ違いとそれを甘やかすとBA乞食。


より場に迷惑なのはどちらだろう。

あなたがどこで質問しているつもりなのか知りませんが、
ここは「映画>戦争・歴史」です。
史実を扱う場は他にあります。
カテ違いは他の質問を流す上に、質問するべき場を寂れさせます。

【カテゴリ一覧】
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>日中戦争で日本は最終的には中国全土を制圧して植民地にすることを目指していたんですか?

回答:違います。
(ここではこれ以上はお話ししません)

確かに「当時の日本人」なら、中国どころか世界征服も可能だったかもしれません。

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満州事変後に、ラストエンペラーを満州国執政として間接的に統治したのと同じように



誰かを立てて(実際には汪兆銘)間接的に統治しょうとした
が、上海・南京を落としても、蒋介石は粘り通したからね
思い通りにはならなかった
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中国全土を制圧して植民地というのではなく、かいらい政権をつくろうということでしょう。


実際に植民地をつくって直接的に支配するよりも、かいらい政権をつくった方が手間がすくなくてすみます。

満州国も実質的には植民地でしたが、形の上では清国の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀をかつぎだして独立国としての体裁をととのえます。(実質的には関東軍が支配していましたが)

また対日戦争を中華民国の蒋介石が南京を脱出し重慶に首都を移転した際も、汪兆銘をかついで南京に汪兆銘政権を樹立します。もちろん、まったくのかいらい政権で、終戦時には求心力を失い瓦解しますけれどね。
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その通りです。

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