「平成」を感じるもの

乳母車揺るる林檎を持ちつづけ  中村草田男


この句の意味を知りたいのですがウェブ上で検索しても見つからず、ひとりで考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。
どうかお力を貸してください。お願いします。

A 回答 (4件)

何も参考になるものを見てませんので、一般的な解釈と同じかどうかわかりませんが、ご参考まで。



・乳母車といえば赤ちゃんか幼児。リンゴを持ち続けているのはそういう小さい子でしょう。小さい手だから、もしかしたらリンゴを両手で持ってるかも。

・揺れるリンゴ、ですが、小さい子がリンゴを振っているというよりは、乳母車が揺れるのにしたがって、リンゴが揺れるのを想像します。お母さんか誰かかが赤ちゃんの乳母車を押しているのでしょう。乳母車が揺れるのにあわせてリンゴが動いているだけなら、その子は、いまは少なくとも泣き喚いていたり、興奮していたりはしないかも。また眠ってもいないでしょう。リンゴをしっかり持ってるわけですから。

・小さい子はリンゴを自分で持ってくることはできないでしょうから、お母さんか誰かに、「はい、持っててねえ、帰ったら食べようね」とか何とかいわれて、渡されたのかもしれません。もしかしたら、お母さんの八百屋さんの買い物かもしれませんね。この情景のちょっと前に、大泣きなどして、もうおさまった後とかなのかもしれません。あるいは、この親子は、いつもよりも遠くに出かけるんで、お母さんがおやつ用にもってきたリンゴを子供が騒ぐから、渡したのかもしれませんね。

・小さい子が乳母車に乗ってる間は、手持ち無沙汰でぼうっとしているしかないでしょうから、「揺れる乳母車で、リンゴをしっかり両手でかかえて持っている」というと、ちょっとけなげで、かわいい雰囲気が伝わってきます。また、持ち「つづけ」というのが、持っている時間が子供にとって長いことを想像させます。うちに帰るまで実際に距離が長いのか、子供が目的地に着くのが待ちどおしい様子、けなげにしっかり持っている様子を強調しているのか…

そんな親子の一場面を切り取った句ではないでしょうか?想像は膨らむばかりで、想像して考えるのが楽しくなる句ですね。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ご意見お聞かせくださりありがとうございます!
あまり有名な俳句ではないのか、資料が手に入らない状態でひとりでから回っていたので大変ありがたいです。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2005/01/13 06:59

  この句を読んだ時の最初のイメージを書いてみますが、参考になるかどうかもわかりませんし、また本来の意味からおおきく外れているかもしれません。



 まず最初に受けた印象は、この句は、将来に対する不安とやすらぎの間でゆれている心を詠んだ句かなあ、という感じですね。

冒頭の「乳母車」なのですが、何回読んでも、乳母車の中に人影らしきものが見えてこないのですね。これが「乳母車」の前に形容詞などがあれば、(たとえば、ちいさい乳母車とか、かわいい乳母車とかですね)乳母車が生きているように感じるのですが、何か、静的で暗喩のように思えてきます。

 そしてその言葉の直後に「揺るる林檎」と動的な状態の言葉に繋がっていくことで、読むものの心に一種の不安感が募ってくるように思えるのです。しかしそうした不安感も最後の「持ちつづけ」の言葉によって、ようやく耐えているし、これからも耐えていくだろうことがうかがえるような気がします。

 林檎は秋の季語ですから、それを手がかりに想像していきますと、秋風の吹く夕方でしょうか、誰かが乳母車を押している。お父さんかお母さんか、誰かが。そしてその人の手に持っている林檎の入った袋が、秋風にゆらゆらしていた。これから後の人生、乳母車の中の人も、乳母車を押している人も、つらい事もあるだろうし、またときめく時もあるだろう。じっとそれをにぎりしめていこう。
 わたしには、この句がこんな感じにうけとれました。

 この句の場合作者の主観は、描かれているものの後ろにあるのでしょうし、言い換えれば、すべて作者の主観で成り立っているような句なので、その人その人が、この句を読んだ時の感想がこの句の意味じゃないかと、勝手に解釈しました。(^_^;)
 
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

大変深いお話をありがとうございます。

不安と安らぎに揺れているという解釈に
秋の物寂しくどこか不安定な雰囲気と重なるのを感じました。
(この秋のイメージを持っているのは私だけかもしれませんが…)

一人ひとりの感想がこの句の意味との言葉、
まさにその通りだと思いました。

お礼日時:2005/01/13 20:10

#2gagamboです。



ちなみに絵的には、
子供の視線で、上を見上げていて、
手を通して向こう側に林檎があり、
「視覚的には林檎を"持っている"のだけど、
 乳母車が揺れる(林檎が揺れてると思っているが)ので、
 林檎は手を離れたりまた手の中に入ったりする」
ような状態です。
・・・妄想しすぎでしょうか?(苦笑)
    • good
    • 0

こんにちは。


以下、まったくの素人の解釈です。

林檎が木になっていて、
その木の下で乳母車を揺らす親がいます。
乳母車の中からは、子供が林檎を見上げ、
林檎に向けて手をのばしています。
子供は「揺れているのは自分」だと気づかず、
「揺れている林檎の実が、もうすぐ落ちてきそう♪」と待っているのです。
ゆらゆらと林檎が揺れて、もうすぐ「ぷつん」と枝を離れ、
自分の所に落ちてくるんだ・・・と。
でも揺れているのは乳母車に乗った自分なので、
いつまでたっても林檎は落ちてこないのでした。

・・・というのはどうでしょう?
中村草田男さんはお名前は存じ上げておりますが、
過去に読んだ詩歌は忘れてしまいました(^_^;)
できれば、質問者様の解釈(感じる雰囲気だけでも)教えてくださいませんか。

この回答への補足

こんにちは、御回答ありがとうございます!


私がこの句を見たときにまず思い浮かべた情景は

作者が、真っ赤な林檎を持つ子どもを乗せた
乳母車を押しながら落葉する並木道を散歩していて、
乳母車が揺れているなか
子どもが頑張って林檎を持つ姿が愛らしい

という雰囲気だったのですが、何回か読んでいると
「揺るる」が連体形なので
揺れているのは林檎なのだろうか?と思いだしまして、
その後は思考が空回り状態でした…
お恥ずかしい限りです;;

(ちなみに先ほど予備校に行って質問したところ、
俳句なので動詞の活用形など細かい事は
考えなくてよいのでは、と言われました。
しかしこの句は先生もご存じなかったらしく、
解釈ははっきりとわからないとのことでした。)

補足日時:2005/01/13 19:16
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


おすすめ情報