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1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎて
いるのに 神から――あたかもお告げがあるかのように―― 

  故郷の地を去って 行きなさい。

と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。

2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき 

  《わたしはある》 それが わたしである。
  (エフィエー アシェル エフィエー.)

という答えを得たと言います。
 

3. 伝えによると ダヰデという人は 

   きょう わたしは おまえを生んだ。

という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんです
けれどね。
 

4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴
史に発展しました。

   これは主がわたしに油を注いで 
   貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね 
   わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
   捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。
               (『イザヤ書』61:1-3)

5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。


6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 
聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
   
   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
   る箇所が目に留まった。

     主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。
     主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え 
     捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。
               (つまり『イザヤ書』61:1-2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 

     ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。

   と話し始めた。
       (ルカ福音4:17-21)

7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表
現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。

8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題
である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。




9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。

10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して その
とおりになったことにおいてだと言います。

11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟
子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっ
さいイエスは 自分が神だと言っていた。

12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのよう
な存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると
思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあ
とに続くだろうとうわさして おしまいである。

13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモー
セらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さ
らに 別の人によって実現するのを待つということになります。

14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのま
まそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こし
たということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関
係ねえよで おしまいとなります。


15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に キリストと呼ばれ
る神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件
としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさ
されているのかも分かりません。

16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つという
かたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからには
この《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。

17. われらが《存在》の成就である。千年・二千年を経て 政教分離にして民
主制にまで到った。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題
が残った。

18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支
配欲によって支配され なおキリスト史観で世界を人びとを覆い尽くそうというヤ
カラがいつづけているということだ。イエスを十字架じょうからもう一度引きずり
降ろそうという魂胆なのか。

19. つまり 《哲学の貧困》に原因がある。

20. 《わたし》論の具体的な現実における互いに個性ゆたかな自由で多様な展
開に俟つ でよいか? 人びとは もっと自由に! もっともっと自由に。もっと
もっともっと自由に! と。



☆ ご批判・ご見解をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • №3

    ★ 人間が神という存在を信じるか信じないかから始めなくては
    いけないと思います。
    ☆ ん? 分かんない。

    ★ 現代人の結論で言えば「いようがいまいがどーでもいい」で
    しょう。
    ☆ ん? だから?

    ★ なのでここで問いても意味はなく、強いて言うなら宗教団体
    に問うべきです。
    ☆ あなたに問うています。

    ★ それすらも新約派か旧約派かによって分かれますが。
    ☆ ん? どうでもよいとしか・・・。

    ★ 自分が好きな考えで、好きな宗教でいいと思います。
    ☆ 宗教は ただのオシへ。

    ★ 仏教信仰派からすればこんなもの根本的に否定したいことで
    あるはずですしね。
    ☆ ん? 意味がある指摘には思えないんで。・・・

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/06/07 14:11

A 回答 (55件中21~30件)

いません。

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この回答へのお礼

☆☆ イエスの哲学は 《存在》論である。《わたし》論である。《自由》論
である。
☆☆ 1~7 ・・・(説明文)
8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論
の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。

☆ こういった問いになっています。



ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2020/06/08 12:31

質問者君は客観的かつ論理的に正しいと言える根拠無しに主観のみで質問者君の持論を正当性を主張しているが質問者君のしていることは質問者君個人の持論の正当性を主張する為に都合がいい言葉を並べているに過ぎません。


加えて質問者君の主張に客観的かつ論理的に正しいと言える根拠がないのだから質問者君の主張と異なる主張に対して質問者君にはそれを否定しうる根拠が無いにも関わらず質問者君の主観のみそれを否定しているです
質問者君がそうしているのは質問者君の精神性が未熟であるからです
端的に言えば質問者君は幼稚なのです
質問者君は幼稚だからこそ質問者君の持論が矛盾に満ちている事に質問者は一切気付いていないのです
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この回答へのお礼

神は 無根拠ですよ。

人間の知性としての経験合理性に照らして妥当であるというのが
根拠です。その根拠を出して検証する知力の世界を超えているか
らには その神は 無根拠なのです。

お礼日時:2020/06/08 11:46

質問者君は「客観的かつ論理的に正しいと証明する事の重要性」を全く理解していません


上記は他人と理解し合い為に必要なことなのです
質問者君の主張が他人に理解されないのは当然の事です
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この回答へのお礼

無意味です。

お礼日時:2020/06/08 11:43

いかなる座標によっても捉えられないとは想定しているに過ぎず加えてその想定が客観的かつ論理的に正しいと証明すらしていません


それではその質問者は質問者君の独りよがりに過ぎないのです
よってその先の質問者君の主張もまた質問者君の独りよがりに過ぎません
そもそも客観的かつ論理的な根拠の無い想定をいくら積み重ねても結局は質問者君の独りよがりに過ぎません
それでは質問者君が理解できたとしても他人には到底理解しえませんしそれで良しとすなら公の場で他人を巻き込むべきではありません
ひとりで勝手やるべきです
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この回答へのお礼

独り善がりを検証するのです。

お礼日時:2020/06/08 11:42

検証するもしないもありません


そもそも質問者君の主張を客観的かつ論理的に正しいと証明してはいません
それでは検証しようがありません
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この回答へのお礼

無理がとおれば道理がひっこむ。

お礼日時:2020/06/08 11:42

検証する為に自己表現するのはいいとしてもそれを公の場で表現するのなら第三者による検証を受け入れるべき


第三者による検証を受け入れないのなら公の場で表現する意味はありません
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この回答へのお礼

無理筋です。

お礼日時:2020/06/08 11:41

科学による経験事象についての認識と政策?これとは別の手法として神に関する仮説法と言う問の求め方を認めるとしてもその問の求め方やそれによって得られたその答えに客観性や論理性が無いならそれは只の独りよがりに過ぎません


その点については私だけでは無く他の方々からも指摘されている事です
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この回答へのお礼

いつ検証したのか?

能書きのみ。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2020/06/07 23:52

わかっていないのは質問者君の方です


いくら質問者君が正しいと主張してもその主張が客観的かつ論理的に正しいと証明しない限り質問者君の主張は質問者君個人の見解に過ぎません
それは至極当然の事です
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この回答へのお礼

★ いくら質問者君が正しいと主張してもその主張が客観的かつ
論理的に正しいと証明しない限り
☆ ここが 検証の場です。

お礼日時:2020/06/08 11:40

質問者君が構築した理論の妥当性については第三者による検証を必要としないならそもそも論として質問者君が構築した理論を公の場で問う必然性はありませんし


第三者による検証なくして妥当だとするならそれは只の独りよがりに過ぎません
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この回答へのお礼

検証のために だれもがみな 自己表現するのです。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2020/06/07 23:50

いかなる座標を持ってしても捉えられないと想定することそれ自体が人知によるものです


よって「普遍神」なる存在はそのように想定しうる存在即ち人知をで計れる存在だと言うことです
ついでに言えば
いかなる座標を持ってしても捉える事が出来ないと論理的に証明しない限りその想定はあくまで質問者君個人の想定に過ぎません
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この回答へのお礼

想定だってんぢゃん。

いかなる座標によっても捉えられない何かは 知り得るか知り
得ないかが知り得ないナゾです。

人知を超えているものを 人知で――想定をとおして――知る
とするのです。

人知ないし言葉をとおして――それを 神本体を仮りに示すシ
ルシとして―― 想定じょう捉えたと見做すことになります。

月を 指で差してしめすようなものです。指は あくまでシル
シです。本体ではありません。

シルシをとおして 月を捉えたと見做します。


そのあと 月を知ったということではなく・必ずしもそういう
目的を持つのではなく すでに触れたように そのあと総合的
にながめて 現実に存在するわれをめぐって その自己了解を
得るということ。これが 得られれば よしとします。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2020/06/07 23:49

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