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徳川に謀反を起こした薩長土肥と、織田に謀反起こした明智光秀、謀反という点では同じですが、
どちらかというと、「日本を開かないと世界から乗り遅れる」と鎖国に反対して開国を求めた人達。
織田信長の発想と同じですね。

A 回答 (7件)

歴史にIFはありませんが…



薩長は「日本を開かないと世界から乗り遅れる」なんて思っていなかったんですよ。
彼らの主張は「尊皇攘夷」です。
天皇を尊び、夷狄を打ち破れというものなんですよ。
むしろ幕府が、外国とは戦力で対抗できないから開国せざるを得ないと判断していたのです。

ところが薩長は「尊皇攘夷」を天皇の勅諭を背景に幕府に圧力をかけました。
それ以外にも、開国派の貴族、幕府の役人に凄惨なテロを行いました。
薩英戦争、下関戦争を通じて、やっと「攘夷」が不可能であることを理解したのです。

織田信長が海外に対してどうしようとしていたのか、これはわかりません。
天下統一を果たした秀吉がおこした文禄・慶長の役でも朝鮮半島で勝利することはできませんでした。
ですから、信長であっても軍事的な占領はできず、貿易大国になったでしょう。

ただ、徳川家康が健在でしたので、いずれは徳川幕府が成立した可能性はあります。
そうなると、明治維新はやはり、あったことになりますね。
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織田政権だったとしても、明治維新は起きましたよ。

間違いないです。

明治維新の重要な点は「近代民主主義と資本主義」です。この2つは君主制や封建制と非常に相性が悪いです。元々封建制というのは経済的には農本制を必要としていて「人間を土地に結び付け、その土地を領主が保障すること(封土を分けて諸侯を建てる)で成り立っていたからです。

織田信長が開国的な制度を作ったとしても、国内制度は封建制だったでしょうから、産業革命以後の資本主義経済を動かすための民主制度にどこかの時点で転換する必要がありました。

それは、もしかしたら明治維新のが起きた1868年より早い時期だったかもしれませんが、開国は信長時代に行ったとしても、立憲民主制への移行と封建領主を解体して、資本主義社会にすることは絶対に必要だったと言えます。

もしかしたらイギリスの18世紀のほうの囲い込み運動と同じぐらいの時期に、日本の封建制が崩壊したかもしれません。
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「日本を開かないと世界から乗り遅れる」


  ↑
上海を訪れた高杉晋作等が、奴隷化
している中国人を眼にして倒幕を決意
しました。

このままでは日本もこうなる。

それで天皇を中心とした、中央集権体制
の国にして、列強と対抗しよう。

その為には徳川幕府ではダメだ。

そうやって倒幕に向かったのです。




織田信長の発想と同じですね。
 ↑
信長は、外国からの侵略など念頭に
無かったと思いますヨ。
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歴史に「もし」はないですが、空想することは楽しいと思います。


確実に言えることは織田政権であれば「鎖国政策」は絶対なかったと思われること、
欧米と植民地戦争をしたことくらいだと思います。
そう考えると明治維新は起きた可能性がありますが、天皇制が続いた可能性は低いと思います
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信長は日本統一後に海外遠征を計画という説ありますね。



秀吉の朝鮮征伐は信長の遺志を継いで明からヨーロッパまで行こうともくろんでいたという話ですが、死亡で挫折しましたね。
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起きなかったと思います。

恐らく大航海時代に突入していたでしょう。徳川三代まで日本版大航海時代があって今のASEAN地域に貿易拠点があり日本町がありましたから。信長は鉄船作ったりしてたので恐らくスペインやポルトガルと同じように世界に進出していたと思います。
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発想は同じですが、時代背景がまったく違います。

どちらもキリスト教国が、世界の国を奪取し、植民地として、住民を奴隷とする狙いです。
織田信長は、開国して強国を作ろうとしたのではありません。彼の発想は、日本統一で、間違いなく平和な日本を作ろうとしていたでしょう。しかしその思想は当時の人々から大きく乖離していました。
だから日本中が敵でした。その敵の中で、重要な働きをしていたので、旧来からある、寺、という宗教団体です。寺自身も若干の僧兵を持って、少しは戦えました。しかしその思想的影響力が大きかったのです。日本人は誰もが仏教徒だったといっていいでしょう。大名も、豪族も、百姓も。誰もがどこかの寺に従属し、僧侶から命令があれば戦う準備は整えていました。本願寺を中心とする、一向一揆はその最たる見本でしょう。信長も伊勢長嶋、越前、石山本願寺と苦労しています。家康も人質から逃れても、国の半分は一向一揆でした。そのため三河統一には苦労しています。上杉謙信も、越後には一向宗がはびこっていました。そして都に向かう時の第1ぽが越中です。越中の一向一揆も激しく、謙信の父が討ち死にするほどでした。その隣の加賀では、一向宗が国を持つまでの勢力でした。他にも多くの大名が一向宗と戦っています。その他、比叡山延暦寺や紀州根来寺なども強大な宗教勢力でした。このように旧来の宗教勢力は侮れません。そして信長の台頭を快く思わない大名も多かったです。馬鹿にならない勢力を持った宗教教団と、実践派の大名たちがともに信長を狙います。一向宗などでは、南無阿弥陀仏、と唱えながら死ねば、極楽往生できると信じさせられていました。死ぬために打ちかかってくる敵ほど厄介なものはありません。死ぬのを願っているのですから。たとえ百姓でも恐ろしい戦力でしょう。信長はこれらの旧勢力を抑えるために、キリスト教の布教を認めました。大勢が寺を離れて教会に付属すれば、旧勢力は衰えて戦いやすくなる。改革的な頭脳の信長も、その先は考えられなかったようです。宣教師が布教に成功すれば、大砲を持った軍隊が乗り込んで来る。その武力はすさまじく、戦国大名が団結しても勝てないでしょう。しかも日本では硝酸が採れない。火薬を作れないのです。そうなれば勝敗は明らかで、日本は確実に植民地となっていたでしょう。信長自身は、自分は死後神となって日本を守る、そのような考えだったようです。だから安土城内に寺も作りました。信長は実現できませんでしたが、秀吉は神となりました。幼い秀頼を支えるためには、自分が神として補佐する必要があったのです。日本人で初めて神となった人です。天皇は現人神で、神とは違います。そして家康が引き継いで、日光東照宮に収まりました。このように信長は旧勢力との戦いにキリスト教を利用したのです。決して開国強国を目指していたわけではありません。恐らくは秀吉が宣教師の危険度を発見して、最終的に追放したように、信長も追放していたと思います。まあ宣教師からヨーロッパの話を聞いていたので、科学的、論理的に進まねば、くらいは考えていたでしょう。しかし当時の日本にはそのような指導者はいなかったと思います。種子島が入ってきただけで、蘭学は入っていないでしょう。明治維新のように、外国から碩学を招こうとの考えには至らなかったと思います。
幕末には、アヘン戦争をはじめとして、中国が散々な目にあわされていたのを日本は知っています。だから富国強兵は必須だったので、信長当時とは思想が違います。
最下層民(とも言われている)からスタートして、天下人となり、年齢的にも落ち着きたかっただろう秀吉が、中国制服を目指して朝鮮に攻め込んだ理由がわかりません。想像できるのは、信長の考えだったのではなかったか、ということです。蒙古襲来も経験していますし、宣教師からモンゴル帝国の話も聞いていたでしょう。古くはローマ帝国の話も聞いていたかもしれません。モンゴルの1酋長が世界帝国を作った。信長にとっても血沸き肉躍る話だったでしょう。大至急日本を統一し、自分の代で中国を攻め取りたい。それ以後の帝国建造は子孫に任せてもよい。可能ならば欧州も占領したい。その夢が秀吉に伝わっていたのでしょう。秀吉としては子飼い、譜代の大名たちに巨大な領土も与えたい。それが藩屏となって秀頼を守ってくれる。豊臣は永遠に続く。
朝鮮出兵が命取りになるとは思っていなかったでしょう。あそこで無理をしなければ、家康もそれほど発言力がなかったはずです。
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