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動詞「行く」の命令形は「行け」である。
辞書の命令形の説明を見ると、

めいれい‐けい【命令形】

動詞・助動詞の活用形の一つ。命令の意を表すもの。語尾変化の第6段またはその下に助詞「よ」「ろ」「い」を付けて表す。「読め」「起きよ」「起きろ」「来い」の類。
【広辞苑】

となっている。これは、動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。しかし、ここには根本的な誤りがある。

まず、「行け」は仮定形でもあり、仮定と命令は全く異なる。
そもそも活用とは、次に続く語による形の変化であり意義は変化しないのであるから、「行く」が「行け」に形が変化しても意義は変わらないのである。

しかし、子供に「明日は学校に行け!」の文は明らかに命令を表わしている。

つまり、語の意義と文での意味は異なるのである。

こうした、語の意義と意味の相違をこれまで何度も指摘してきたが全く理解できずに反論したり、開き直ったりされている方々がある。

たとえば、
「洗濯に」と「洗濯しに」と「洗濯をしに」の違い
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11718446.html

No.17
私は、「意義」という言葉を、meaning あるいは sense などの言語学の用語として使ったことはありません。(「~することには意義(価値)がある」というような使い方は別です。)
「意味と意義の相違と関連」などというものは、理解どころか考えたこともありません。
その必要を認めないからです。
(「意味」と「意義」を別の術語として使う考え方があるのは読んだことはありますが、それによって、「意義(価値)のある」議論になっていると思ったことがないので、それ以上勉強したことはありません。)

意味と意義の相違と関連」などというものは、理解どころか考えたこともありません。
その必要を認めないからです。

No.20 のお礼に応えて
「この文、意味が辞書に入っているというのはナンセンスでしょう」は意味がつかめません。//

などがその顕著な事例である。

こうした方々は、このような事実をいかに説明するのであろうか。

実際の所は、「意味と意義の相違と関連」などというものは、理解どころか考えたこともありません。」ということであろうが、「その必要を認めないからです。」では、この事実は説明不能であろう。

諸賢はどのようにお考えになるのであろうか。■

質問者からの補足コメント

  • なお、科学的とはどういうことかが理解いただければ幸いです。■

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/21 23:36
  • へこむわー

    >>だからといってなぜに、「行け」という命令形が命令の意味を表わすと言ってはダメなのか?

    直接的に応えておきましょう。

    それは、事実に相違するからです。何度も指摘している通り、

    「行け」という命令形が命令の意味を表してはいないからです。

    それでは、『<活用>は他の語が連結される場合に起こる形式の変化でしかない』という命題、事実に反するからです。理解できますか?■

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/23 14:30
  • つらい・・・

    こんな初歩的な誤った解釈をされているのでは、さっぱり話がかみ合わない訳です。

    >>ご自身がわかっているならば、他人に問う前に、まずご自分の解釈を述べるのが礼儀というものではありませんか?

    とは笑わせますね。何度、『<活用>は他の語が連結される場合に起こる形式の変化でしかない』と言ってもこの意味が理解できない理由が判明しました。

    初歩的な用語の意味から説明が必要だということが良く分かりました。

    これでは助詞について色々言っても当然、平行線を辿るのも已むを得ませんね。
    当方の主張を深く理解戴ける方もお見えのようなので、

    格助詞「に」と「で」の意義の相違について
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11786373.html

    を参照下さい。■

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/24 20:19
  • もう少し補足しておきます。

    >>《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》
    というのは、「行け」はゼロ記号を暗黙の裡に従えているからこそ命令形足り得るのだ、という意味の批判を込めたつもりなのだと思います。

    そうではなく、辞書が示しているのは単なる形であり、辞書では「ゼロ記号を暗黙の裡に従えて」などいません。この理解が根本的な誤りです。

    言語は話者の認識の表現で、話者なしには文は存在しません。話者の認識として命令が実体として存在するために、その認識を媒介的に表現するため「行く」が「行け」と表現され、命令の認識が零記号として示されるということです。この、規範による媒介という過程的構造を正しく捉えることが重要です。

    なお、辞書については「辞書というものの性格」(『日本語はどういう言語か』58P~)をきちんと理解して下さい。■

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/25 11:49
  • そもそも、「行け」は仮定形も命令形も同じです。

    文となって、「ば」が続いたり、言い切りになったりして具体的な意味が生まれるのであり、単語としては規範としての意義しかないということです。■

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/25 20:21
  • 断定の助動詞「なり」の連用形「に」という誤り

    https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …

    などの応答も参考になるかと思います。■

    No.34の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/29 08:11

A 回答 (36件中11~20件)

#25です。



>違います。



>何度も言うように命令形とは動詞の形でしかなく、動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすのではありませんということです。
>この表の、仮定形が「書け」で、命令形も「書け」で同じ形ですよね。
だから、「書け」という形が仮定や命令を表わしているのではないということです。

#17でお示したように、それはわかったつもりですが?
そんなに難しいことは聞いていませんよ?

えっとですね、もっとわかりやすくしましょうか。

《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》とアスナロウさんはおっしゃいましたよね?
これは、

《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》から、辞書は間違っている。

と批判しているのですよね?
という、極めて簡単な質問です。
なぜ、こういう質問をするかと言うと、
#20補足で、

>>《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》
というのは、「行け」はゼロ記号を暗黙の裡に従えているからこそ命令形足り得るのだ、という意味の批判を込めたつもりなのだと思います。

そうではなく、辞書が示しているのは単なる形であり、辞書では「ゼロ記号を暗黙の裡に従えて」などいません。この理解が根本的な誤りです。

とおっしゃっています。
しかし、私は、
『辞書では「ゼロ記号を暗黙の裡に従えて」など』いないから、それを批判しているのですよね?
という意味のことを申し上げたので、アスナロウさんに誤解を与えたと思い、その点を修正しようとしているだけなのです。
つまり、

《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》
とアスナロウさんがおっしゃったのは、「行け」はゼロ記号を暗黙の裡に従えているからこそ命令形足り得るのに、それに触れていないのは誤りだ、という意味の【辞書に対する】批判を アスナロウさんは込めたつもりなのですよね?

と申し上げたわけで、『そうではなく』と反論していただく箇所ではない、ということを理解していただきたかっただけです。
ま、こんなことをいつまでも言い合っていても仕方ありませんから、この件についてはこれまでとしましょう。
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この回答へのお礼

>>《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》から、辞書は間違っている。
と批判しているのですよね?という、極めて簡単な質問です。

おっしゃる通りです。

>>「行け」はゼロ記号を暗黙の裡に従えているからこそ命令形足り得るのに、それに触れていないのは誤りだ、という意味の【辞書に対する】批判

そうではありません。
<「行け」はゼロ記号を暗黙の裡に従えているからこそ命令形足り得る>という理解自体が誤りだという意味です。

お礼日時:2020/07/26 18:48

#23です。



>形は単に形でしかありません。インクの描線であり、DSP上のドットの集まり、または音声の形です。
命令【形】とは形のことですよ。
手で書くか、声に出すかです。

意味は文に表現されて初めて生まれます。

質問の意味が伝わらなかったでしょうか。

《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》
というのは、「行け」はゼロ記号を暗黙の裡に従えているからこそ命令形足り得るのだ、という意味の批判を アスナロウさんは 込めたつもりなのだと思います。

というのは、

《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》
とアスナロウさんがおっしゃったのは、「行け」はゼロ記号を暗黙の裡に従えているからこそ命令形足り得るのに、それに触れていないのは誤りだ、という意味の批判を アスナロウさんは込めたつもりなのですよね?

という意味です。
この解釈で合ってますか?
それとも違っていますか?
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この回答へのお礼

違います。

何度も言うように命令形とは動詞の形でしかなく、動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすのではありませんということです。

次に、用言の活用の例を見てみましょう。
【書く(動詞)】
→書 か ナイ
→書 き マス
→書 い タ
→書 く 。
→書 く トキ
→書 け バ
→書 け 。
→書 こ ウ
https://www.kokugobunpou.com/%E7%94%A8%E8%A8%80/ …

この表の、仮定形が「書け」で、命令形も「書け」で同じ形ですよね。

だから、「書け」という形が仮定や命令を表わしているのではないということです。

「書か」~「書こ」の各語が表す意義は、

か・く【書く】
〔他五〕
(「掻く」と同源。先のとがったもので物の面をひっかく意が原義)
①(「描く」「画く」とも書く)筆などで、線をひく。また、絵や図をえがく。古事記中「眉まよがき、此こに―・き垂れ」。古今和歌集序「絵に―・ける女おうなを見て」。「設計図を―・く」
②文字をしるす。宇津保物語国譲上「青き色紙に―・きて松に付けたるは、草そうにて夏の字」。「筆で―・く」
③文に作る。著作する。源氏物語帚木「文を―・けど、おほどかにことえりをし」。「小説を―・く」「本を―・く」
【広辞苑】

だということです。これが、『<活用>は他の語が連結される場合に起こる形式の変化でしかない』ということです。

まず、これをしっかり理解しないと話が混乱します。■

お礼日時:2020/07/26 16:58

#22です。



>>>「形の名前」が変われば

というのがそもそも変ですね。

名前が変わるのではなく、形が変わるのでそれに名前を付けただけです。

意義とは辞書に示された規範で、意味は文に表わされたものです。
辞書に意味がある、文があると言う発想が自体が誤りです。

そうですか。
ということは、

形が変わることによって名前が変われば意義は変わらなくても、意味は変わる、ということですね?
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この回答へのお礼

異なる形を区別できないために、ただ、呼び名を付けただけです。

『<活用>は他の語が連結される場合に起こる形式の変化でしかない』ので、次にどんな語が来るかの予測はできることになります。■

お礼日時:2020/07/26 18:43

#20です。



>>>《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》
というのは、「行け」はゼロ記号を暗黙の裡に従えているからこそ命令形足り得るのだ、という意味の批判を込めたつもりなのだと思います。

そうではなく、辞書が示しているのは単なる形であり、辞書では「ゼロ記号を暗黙の裡に従えて」などいません。この理解が根本的な誤りです。

誤解があったようですので、修正します。

《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》
というのは、「行け」はゼロ記号を暗黙の裡に従えているからこそ命令形足り得るのだ、という意味の批判を アスナロウさんは 込めたつもりなのだと思います。
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この回答へのお礼

>>「行け」はゼロ記号を暗黙の裡に従えているからこそ命令【形】足り得るのだ

形は単に形でしかありません。インクの描線であり、DSP上のドットの集まり、または音声の形です。
命令【形】とは形のことですよ。
手で書くか、声に出すかです。

意味は文に表現されて初めて生まれます。

話者、作者なしには文、意味はありえないのが理解できていますか。■

お礼日時:2020/07/26 09:43

#21です。



>意味とは文で使用された時の内容で、辞書で示されているのが規範としての意義です。

形が変わるので、形の名前を変えているだけで、意義は辞書に記されている内容です。

この意義と意味の相違と関連を理解することが重要です。

わかりました。
ところで、

「形の名前」が変われば意義は変わらなくても、意味は変わる、ということで、よろしいのですね?
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この回答へのお礼

>>「形の名前」が変われば

というのがそもそも変ですね。

名前が変わるのではなく、形が変わるのでそれに名前を付けただけです。

意義とは辞書に示された規範で、意味は文に表わされたものです。
辞書に意味がある、文があると言う発想が自体が誤りです。

意味を支える実体は話者の認識であるという点をまずきちんと理解しましょう。■

お礼日時:2020/07/26 09:36

#19です。



>行かーない(未然形)
行っーて(連用形)
行く  (終止形)
行くー人(連体形)
行けーば(仮定形)
行け  (命令形)

で、それぞれ形が異なるので、それぞれの形に未然形/連用形/~という名前を付けたもので、形は変わっても意義は変化しませんということです。

「形の名前」が変われば意義は変わらなくても、意味は変わる、ということですね?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

意味とは文で使用された時の内容で、辞書で示されているのが規範としての意義です。

形が変わるので、形の名前を変えているだけで、意義は辞書に記されている内容です。

この意義と意味の相違と関連を理解することが重要です。

『日本語はどういう言語か』の、「第二章 1.言語の「意味」とは何か」を熟読、吟味下さい。それで不明な点を質問下さい。■

お礼日時:2020/07/25 17:14

さて、#18に引き続き2つめの「重要な課題」について申し上げます。


具体的には、下記に再掲したタイトル冒頭部。


動詞「行く」の命令形は「行け」である。
辞書の命令形の説明を見ると、

めいれい‐けい【命令形】

動詞・助動詞の活用形の一つ。命令の意を表すもの。語尾変化の第6段またはその下に助詞「よ」「ろ」「い」を付けて表す。「読め」「起きよ」「起きろ」「来い」の類。
【広辞苑】

となっている。これは、動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。しかし、ここには根本的な誤りがある。※


検討課題は、

上記、広辞苑の記述は、

《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》のか?

です。
仮にそう言っているのだとすれば、確かに『ここには根本的な誤りがある』ことになると私も思います。
ただ、そうは言っていないと思うので、その根拠について以下に述べていくことにしましょう。

まずですが、「動詞・助動詞の活用形の一つ。」という点は見解が分かれそうですから、別問題としましょう。
つまり、活用形のひとつであってもなくても、

「命令形というものは命令の意を表すものだ」

と広辞苑は言っているにすぎません。

《動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っていることになる。》

というのは、「行け」はゼロ記号を暗黙の裡に従えているからこそ命令形足り得るのだ、という意味の批判を込めたつもりなのだと思います。
しかし、広辞苑は、

「命令の意を表すもの」のひとつとして「読め」とか「行け」がある。

と言っているだけでしょう。
実際問題として、おっしゃるように、

「明日は学校に行け!」

と言う場合の「行け」は命令の意味を表わすことができるわけですし。
つまり、動詞の命令形「行け」自体が命令を表わしている(ことがある)のも確かなのだから、それに対して《ここには根本的な誤りがある》と言うのはお門違いと言わざるを得ません。

しかし、アスナロウさんの言いたいことも良くわかります。
下記のように表現すると、正しく疑問を提示した良い質問に生まれ変わるでしょう。

【添削例】

動詞「行く」の命令形は「行け」である。
辞書の命令形の説明を見ると、

めいれい‐けい【命令形】

動詞・助動詞の活用形の一つ。命令の意を表すもの。語尾変化の第6段またはその下に助詞「よ」「ろ」「い」を付けて表す。「読め」「起きよ」「起きろ」「来い」の類。
【広辞苑】

となっている。
しかし、このような記述では、動詞の命令形「行け」自体が命令を表わすと言っているように受け止められてしまう惧れがある。
たしかに「行け」自体が命令を表わす場合もあるにはあるが、しかし、「行け(ば)」のような仮定形もまたある。
仮定形の場合は、助詞「ば」が連結することによって動詞「行く」に生じる形式の変化「行け」という構図である。
では、命令形の場合はどうか?
「行け」が命令形として機能できるための条件とは何か?
それは「行け」の後につづくゼロ記号の存在である。
命令の意を表すことができるのは、あくまで「行け」の後に暗黙のゼロ記号が存在しているような認識を話者が持っている場合である。

日本の辞書がこの点について何も触れていないのは、日本語の辞書としては極めて不十分な対応と言える。
辞書編纂者は、心して、この点を明記すべく検討すべきであると、私は思うのですが、みなさんはどう思われますか?

※なお、三浦つとむによれば、命令形におけるゼロ記号とは、話者が持つところの、およそ以下のような特殊な主体的認識のことです。

《命令の場合は、本来の世界のありかたをイメージすることで世界が二重化されているけれども、表現主体は未来の世界へ移動してしまいはしない。本来のありかた、たとえば「行く」は、現在の【まだ行かないありかたの把握の上にダブルイメージ】したままであって、聞き手の行動で現在のありかたが消失しダブルイメージを解消してくれなければ、何度でも「行く」「行け」とくりかえす。表現主体は現在と未来二つの世界に股かけ、立場ないし判断もこれまたダブっている》
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>>「動詞・助動詞の活用形の一つ。」という点は見解が分かれそうですから、別問題としましょう。

この点は別に問題ないと思いますが?
形と言う意味を正しく理解できるか否かです。

>>「命令形というものは命令の意を表すものだ」

だから、これが根本的に誤っていますよということです。「命令形というものは」活用による単なる形の変化で「命令の意を表す」ものではないということです。意義(意味)は辞書に記された終止形と全く変わらないということです。それが、

『<活用>は他の語が連結される場合に起こる形式の変化でしかない』

ということです。

>>広辞苑は、
「命令の意を表すもの」のひとつとして「読め」とか「行け」がある。
と言っているだけでしょう。

そうですが、上に述べたように<「読め」とか「行け」>は「命令の意を表すもの」ではないということで、誤った辞書の記述であるということです。

>>「行け」が命令形として機能できるための条件とは何か?

機能は結果でしかありません。
以前から指摘しているように、ソシュールパラダイム下の発想ではラング(言語規範)を言語の本質と捉え、道具としての語が文で機能するという発想をしています。回答者もその発想で文で機能すると捉えています。しかし、機能は宙に浮いているものではありません。機能を発揮するのはその本質の運動として生じるもので、それを明らかにしなければ正しく対象を理解することはできません。文、文章はパロールですが、これを単に私的なものとして切り捨てるしかないソシュールパラダイム下の発想では表現としての言語を正しく捉えることはできません。

まず、何故「行く」という単語が選ばれ、辞書に示された「行く」ではなく「行け」という形が使用されたのかを単なる現象、結果としてではなくその過程、論理を言語本質に基づき解明、説明できなければ言語の科学ではありえないということです。

現在の辞書はソシュールパラダイム下の発想に基づき編纂されており、単に個別の解釈を手直しすれば良いというレベルではありません。これは、既に格助詞の問題で説明したところです。

>>※なお、三浦つとむによれば、~およそ以下のような特殊な主体的認識のことです。

これは、先に他の方の質問の回答でも記したところです。この意味を表現過程の中で正しく位置付け、理解することが重要です。■

お礼日時:2020/07/25 09:59

#13の応答に関連してお伺いします。



hakobulu:「形の名前」が変われば意義は変わらなくても、意味は変わりますよね?

に対して、

アスナロウ:意義の変化なくして、どうして意味が変化するのですか。

と応じていましたが、よくわかりません。

たとえば、下記の例で言うと、
行かーない(未然形)
行っーて(連用形)
行くー人(連体形)
行けーば(仮定形)
のように「形の名前」は変わりますが、ーの後項の語の存在によって形式の変化が生じた動詞「行く」の意義は変わっていないということになりませんか?
つまり、

「形の名前」が変われば意義は変わらなくても、意味は変わりますよね?

という認識のどこが間違っているのか、少し詳しく教えてください。
「そもそも~」とか言わずに、【端的に】答えていただけると助かります。
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この回答へのお礼

行かーない(未然形)
行っーて(連用形)
行く  (終止形)
行くー人(連体形)
行けーば(仮定形)
行け  (命令形)

で、それぞれ形が異なるので、それぞれの形に未然形/連用形/~という名前を付けたもので、形は変わっても意義は変化しませんということです。辞書に記す場合は終止形を表示し、その意義を説明しているということです。

それが、『<活用>は他の語が連結される場合に起こる形式の変化でしかない』ということです。

意義というのは、先にも示したように辞書に記された、

い・く【行く】
〔自五〕
(奈良・平安時代から「ゆく」と併存。平安・鎌倉時代の漢文訓読では、ほとんど「ゆく」を使い、「いく」の例は極めて稀。助詞「て」の下では「いく」が多い)「ゆく」に同じ。万葉集14「いで吾あれは―・かな」。伊勢物語「伊勢の国にゐて―・きてあらむ」。土佐日記「幣ぬさには御心の―・かねば、み船もゆかぬなり」。世間胸算用1「すこしづつ徳の―・くやうにして返す物ぢや」。「納得が―・く」
【広辞苑】

です。

この語が、実際に文に用いられたときに話者の認識に対応する意味を持つということです。■

お礼日時:2020/07/25 09:05

『<活用>は他の語が連結される場合に起こる形式の変化でしかない』が、


「早く山へ芝刈りに行け。」
には、「連結される」べき「他の語」が存在しないゆえ、「行け」を命令形という活用形ととらえるのは間違いだ。

と三浦が言っているという前提での検討課題です。
この前提が違っている場合は質問をし直すので指摘してください。

「早く山へ芝刈りに行け(よ)。」

などのゼロ記号の存在を認めているのであれば、「ゼロ記号=他の語」と捉えることに、論理的齟齬が生じるとは到底思えないのですが、納得のいく答えをお持ちでしたら教えてください。
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この回答へのお礼

>>この前提が違っている場合は質問をし直すので指摘してください。

No.17 のお礼で指摘の通り誤りです。

「ゼロ記号=他の語」と捉えることにより論理的に事実を捉えることができるということです。

他の語というより話者の認識は存在するが形には示されていないということです。■

お礼日時:2020/07/25 08:54

なるほど。


三浦は活用形というもの自体を否定しているわけじゃないのか。
やっと理解できました。
しかし、こんな簡単なことすら理解させられないようでは、日本語の表現力に相当の問題がありそうですね。
私がアスナロウさんの立場なら、もっと簡単に説明できますが。(笑)
負け惜しみはこのぐらいにして、まとめておきますかね。

つまり、
行かーない
行っーて
行く。
行くー人
行けーば
などの活用形は、
ーの後項の語の存在によって、ーの前項である動詞「行く」に生じる形式の変化である。
「行け」という命令形にはこの後項が存在していないのであり、よって、これは活用形ではない。
それは「行け」に続くべき話者の心理としてのゼロ記号によってはじめて命令形足り得るのである。

ということですね?
ま、違ってたら「これは完全に理解を誤っています。」とでも嬉々として添えながらで結構ですから訂正してください。

これでやっと重要な課題へとつなぐことができますね。
これからが本番ですので、頼みますぞ?(笑)

適確に応答してもらうため、課題ごとに欄を2つに分けます。
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この回答へのお礼

大分理解が進んだようですが、まだ活用形ということが良く理解できていないようです。

活用とは、何度も言っているように『<活用>は他の語が連結される場合に起こる形式の変化でしかない』ということです。
したがって、

行かーない
行っーて
行く。
行くー人
行けーば
行け
などの活用形は、
ーの後項の語の存在によって、ーの前項である動詞「行く」に生じる形式の変化である。

ということです。但し、「行け■」の場合は、命令の認識が零記号として存在し、これに接続するための活用だということです。■

お礼日時:2020/07/25 08:49

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