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先に、<格助詞「に」が場所を表わすという誤り。>
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11491422.html

で、丁寧に現在の格助詞理解と教育の誤りを指摘しておきましたが、十分な理解が得られず、「着点を表わす」などという誤りが実しやかに述べられたりしていますが、このような誤った解釈では当然混乱が起きます。

最近も同様な疑問が出され、誤った回答をされる事例が見られますので、今一度問題点を指摘、整理しておきましょう。

取り上げるのは、

「バラが咲いた」と助詞「に」と「で」について(2020-07-06 10:10:32)
https://ameblo.jp/stravaganza-no2

です。質問は、

「淋しかった僕の庭にバラが咲いた」という部分で、場所を示す助詞として「に」が使われていますが、「咲いた」という動詞は“存在”ではなく“動作”を表す動詞なのに、なぜ「で」ではなく、「に」を使っているのか、という質問です。また、1番の歌詞では「いつまでもそこに咲いてておくれ」と「に」が使われているのに、2番の歌詞では「いつまでもここで咲いてておくれ」と「で」が使われています。これまで“存在の場所”は「に」、“動作の場所”は「で」を使うと教えてきましたが、こういう場合はどう説明すればいいのでしょうか。//

というものです。これに対する回答者の内容を検討してみましょう。まず、

初級レベルの文法では、“存在の場所”は「に」を付け、“動作の場所”は「で」を付けると教えますし、そうした基本的な使い方以外の用法については、中上級レベルになってもあまり説明されていないようです。私も今回のボラQ211さんの質問で、「に」の用法についていろいろ調べてみて、初めてわかったことがかなりありました。//

というもので、<“存在の場所”は「に」、“動作の場所”は「で」を使う>という≪場所≫という具体的な対象自体の在り方を表わすという発想に疑問をもっていません。「に」が着点を表わすという発想と同じです。そして、

『日本語類意表現』(森田良行、創拓社、1988)の第八章49にある『「廊下に待っている」か「廊下で待っている」か』(pp.380-6)という記事を読んでみたところ、「に」と「で」の使い分けは、それほど簡単なものではないことがわかりました。//

といまさらながら【に】反省はしていますがその内容は次のようなものです。

➀「に」と「で」のどちらを使ってもほとんど同じ状況を表す場合:
➁「に」が行為の目指す場所を表し、「で」が行為の行われる場所を表す場合:
➂「に」がものの存在する場所を表し、「で」が行為の行われる場所を表す場合:

のどれに該当するかというもので、「に」「で」自体の意義とは何かには思い至っていません。あくまでも対象と直結し、「同じ状況を表す」「行為の目指す場所」「ものの存在する場所」を表わすというワンパターンの発想です。

少し考えてみれば分かるように、場所を表わすのは「僕の庭」であり、「そこ」であるのは明らかです。では、「に」「で」は何を表わすのかと問うても回答できないところに根本的な欠陥があります。学校文法では付属語という形式的な区分が為されるだけで内容は場所や時間、到着点というのは矛盾していることに無頓着です。場所や時間、到着点であれば具体的な対象であり、自立語とされるべきことになります。

さて、回答者は③の次の例を挙げます。

③A)その本は図書館にある
➂B)説明会は図書館である
➂C)テストは隣の教室にある。
➂D)テストは隣の教室である。

そして、

「バラが咲いた」という歌の中に出てくる➃のような「に」と「で」は上記の➀~➂のどのタイプに当たるのでしょうか。

➃A)淋しかった僕の庭にバラが咲いた
➃B)そこに咲いてておくれ(1番の歌詞)
➃C)ここで咲いてておくれ(2番の歌詞)//

と論を進めます。さらにこれを、

⑥A)廊下に待っている
⑥B)廊下で待っている

の二例に纏め、

ここでのポイントは、下の文⑥B)「~で待っている」がふつうによく使う文であり、「待つ」という“動作”を表す動詞なので、「~(主語)が~(場所)で~(対象)を待つ」という文型になりますが、上の文⑥A)「~に待っている」という表現は少し特殊な文で、「誰かを待つ」という“動作”よりも、「待つ」という動作をしている“場所”に重点を置いた表現なので、目的語を表す「~を」という表現は取ることができない、ということです。

こうしたことから、➃A)の「僕の庭にバラが咲いた」の「に」も「咲く」“場所”に重点を置いた表現ではないかと考えられますが、それでは、どんな動詞でも➂のタイプになることができるのか、という疑問が生じてきます。//

と「ふつうによく使う文」と「少し特殊な文」で、動作をしている“場所”に重点を置いた表現とあくまでも対象自体である場所に基づく解釈を繰り返しています。そして、最後に、

➃A)淋しかった僕の庭にバラが咲いた
➃B)そこに咲いてておくれ(1番の歌詞)
➃C)ここで咲いてておくれ(2番の歌詞)

➃B)と➃C)の表面上の違いは「そこ」と「ここ」だけですが、「そこ」が意味する場所は「僕の庭」ですが、「ここ」の意味する場所は「僕の庭」から「僕の心」に変化しています。そして、「に」は“発生の場所”、つまり、静的な状態を強調するのに対して、「で」は“動作の場所”、つまり、生命の動的な躍動感が出てくるのを微妙に感じ取った作詞家(浜口庫之助)が、未来に対する希望というニュアンスを出すために、「に」を「で」に変えたのだろう、というのが私の推測です。//

と表現結果に対する作詞家の感性に言及し、「に」を「で」に変えたのだろうと奇妙な後付けの推測をしています。

これでは、残念ながら質問者はとても「に」と「で」の使い分けを理解することはできないとしか言えません。

この解釈の基本的な誤り、欠陥はどこにあるのでしょうか。

まず、言語は話者の認識の表現ですが、この認識の相違を捉えることなく、表現された結果との関係を解釈し、おまけに作詞家の躍動感による書き変えを指摘しています。

言語表現は、【対象→認識→表現】という過程的構造を持っていますが、この回答者〔だけではなく、参考にした『日本語類意表現』(森田良行)の著者たち〕はこの過程を捉えることができずに、表現結果としての対象のありかたの解釈にしか視点が当てられていません。

したがって、何故に「に」や「で」を選択したかという話者の認識に全く触れることが出来ていません。これを明らかにしない限り、質問者の回答に応えたことにはなりません。

つまり、格助詞「に」と「で」の意義を明らかにする必要があります。これは、次の通りです。

格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を表わし、「で」は手段・方法の認識を表わす。

➃A)淋しかった僕の庭にバラが咲いた
➃B)そこに咲いてておくれ(1番の歌詞)

では、「僕の庭」「そこ」を空間的に位置付けています。結果的に、場所を位置付けていますが、格助詞自体が場所を表わしているのでないのは明らかでしょう。

➃C)ここで咲いてておくれ(2番の歌詞)

は、「ここ」を咲く手段・方法として捉え表現しています。ここでも、結果的に場所を手段・方法として捉えていますが、格助詞「で」自体が場所を表わしているのでないのは明らかでしょう。

このように語は意義を表わすもので、それを正しく理解しない限り対象の廻りをうろつくだけで対象自体の理解には到達できないというもどかしい事態が続くしかありません。

この現実を諸賢はいかが理解、判断されるのでしょうか。■

質問者からの補足コメント

  • なお、補足させていただくと、

    「に」が空間的・時間的な位置付けの認識を表わすのは、

    先生【に】本を貰いました。
    父【に】会いました。
    5時【に】会議は終わります。
    来週【に】試合があります。

    など、位置付けられるのは場所だけでないことでも明らかです。

    また、「で」は、

    ペン【で】紙に書く。
    これ【で】失敗しました。
    飛行機【で】行きます。

    のように使用します。■

      補足日時:2020/07/25 11:04
  • なお、

    『非常識の日本語 ―三浦つとむ認識論による日本語解明―』 今井幹夫 著 ㈱社会評論社 2015.3.25 

    は日本語教育についても論じています。■

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/26 09:27

A 回答 (9件)

賢人ではないけれど、こう説明されると、分かる気がします。

この部分についてだけですが。「に」は時間・空間を位置づける働きをしている。「広辞苑」が「に」について説明しているのと同じことです。
場所を表すのは、「庭」や「ここ」という、名詞・代名詞であって「に」ではない。それに比べると、「で」が「手段・方法」と言われると、にわかには賛成しがたいが、(庭を利用して)バラが咲く、も分からなくもない。
 「言語過程説」も難しい物だと思い込んでいたが、ほんの端くれだけど理解出来た。「は」が特殊性や普遍性の認識だというのは、まだよく分からない。年取ってから、言語過程説にのめり込む気はないが、この文法が理解されるためには、まず辞書を作る必要がありますね。おそらくもっとも売れない辞書になるでしょうね。
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この回答へのお礼

深いご理解をいただきありがとうございます。

辞書以前に体系的な展開を纏めた言語論、文法書が必要かと考えております。

辞書はその次かと。

まずは、多くの人に現在の形式主義/機能主義的な言語論、文法論の誤りを理解してもらう段階で、自ずからなる改革の機運の醸成が重要と判断しております。

移民受け入れによる日本語教育の改革も視野に入れながらのストラテジー構築、教宣を展開せねばなりません。■

お礼日時:2020/07/25 00:08

#8です。



>※「鶏がいる」場所としての「庭」という【対象】を、
区間的に位置付けたいと【認識】したからこそ、
格助詞「に」を使って「庭に二羽鶏がいる」と【表現】したのではないのですか?※

この解釈は正しいですね。

この解釈と

※「庭に二羽鶏がいる」
このように言う場合、話者によって使われた「に」は、話者が場所「庭」を「(鶏が)いる」空間的な位置として認識し表したいと思ったために使った格助詞なわけです。※

との間にどれほどの違いがありますかね???
我々はいちいち文法を考えながらしゃべっているわけではありません。
『空間的な位置として認識し表したいと思った』というのは、あくまで、
『空間的な位置として無意識的に認識し、無意識的に表したいと思った』という意味に他ならない。
当たり前のことだと思うのですが、こんなことをいちいち説明しなくちゃならないのですかね?
ほんと読解力が無い、としか言いようがない。
ま、いずれにせよ、この件については一件落着を見たようでヤレヤレですな。(笑)

因みに、
《格助詞「に」は空間的・時間的な位置付けの認識を表わし、》
というのは大辞林のパクリだと思いますが、これに関しては以前から同意していることはご存じのはず。
ただ、「どのように位置づけるのか??」という点にまで踏み込み、
《格助詞「に」は空間的・時間的な [ 着点としての ] 位置付けの認識を表わし、》
のように解釈するのが、より本質に迫る簡潔明快な定義である、ということです。
『着点を表わす』という定義を、あだやおろそかにしてはいけませんぞ。(笑)

《「で」は手段・方法の認識を表わす。》
は惜しいけど適切ではありません。
『状況(環境)や成立条件を表わす』を意義とするのが適切です。
「適切」とは、つまり、各意味に対する汎用性が高く、納得が得られやすい切り口だということ。
これに関する私見は何かと錯綜している別質問で展開させていただくこととしましょう。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11792683.html
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この回答へのお礼

>>『着点を表わす』という定義を、あだやおろそかにしてはいけませんぞ。

ははは!
そんなことを言っているようでは言語過程説は理解できません。

>>これに関する私見は何かと錯綜している別質問で展開させていただくこととしましょう。

言語過程説をきちんと理解してからにしましょう。

時間を無駄にしないように。■

お礼日時:2020/07/29 16:35

#7です。



>「空間的な位置として認識し表したい」のではありません。

格助詞「に」は「鶏がいる」場所としての「庭」を区間的に位置付け表現するものということです。

命令の話しと同じで、表現過程が捉えられないために、どうしてもピントがずれた表現になっています。

まあ、アスナロウさんのほうが詳しそうですから、ピントがずれていると感じられてもやむをえないのかもしれません。
しかしですね、アスナロウさんは妙なところで意固地になることが多々ありませんか?
しかも、どうでも良いところでです。
そのために肝心の点まで否定してしまう習性?をお持ちですか?
ひょっとして。(笑)
そのために、論議全体のプロセスが無茶苦茶になってしまうことが往々にしてあるのですよ。

今回にしても、
「空間的な位置として認識し表したい」という意図が話者に無いのに、「庭に二羽鶏がいる」という表現が可能になるのですか?
《「空間的な位置として認識し表したい」のではありません。》
と断言する根拠に、どれほどの意味を込めておられるのでしょうか?

話者が、
「鶏がいる」場所としての「庭」という【対象】を、
区間的に位置付けたいと【認識】したからこそ、
格助詞「に」を使って「庭に二羽鶏がいる」と【表現】したのではないのですか?

これは言語過程説とはかけ離れた解釈だと言うなら、そうおっしゃってください。
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この回答へのお礼

>>「鶏がいる」場所としての「庭」という【対象】を、
区間的に位置付けたいと【認識】したからこそ、
格助詞「に」を使って「庭に二羽鶏がいる」と【表現】したのではないのですか?

この解釈は正しいですね。

>>どうでも良いところでです。

どうでも良くないクリティカルなポイントで、誤った思い込みに繋がりそうと感じるためですので御理解の程を。■

お礼日時:2020/07/29 07:44

#6です。



>>>表しているために採用された格助詞

なんとも、答えがたい文です。

※「庭に二羽鶏がいる」
・「に」は、話者が場所「庭」を「(鶏が)いる」空間的な位置として認識し表しているために採用された格助詞なわけです。※
この文における、「採用」がどういう意味で使われているのかわからない、ということですね?
それはどうも失礼しました。
以下のような意味と捉えていただければ幸いです。

※「庭に二羽鶏がいる」
このように言う場合、話者によって使われた「に」は、話者が場所「庭」を「(鶏が)いる」空間的な位置として認識し表したいと思ったために使った格助詞なわけです。※

今度はおわかりいただけたでしょうか?
おわかりいただけた場合、

このような考え方は、言語過程説的説明ではない、ということですか?

という質問に改めてお答えいただければ幸いです。
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この回答へのお礼

「空間的な位置として認識し表したい」のではありません。

格助詞「に」は「鶏がいる」場所としての「庭」を区間的に位置付け表現するものということです。

命令の話しと同じで、表現過程が捉えられないために、どうしてもピントがずれた表現になっています。

「(鶏が)いる」空間的な位置として認識しても、手段として表現すれば、

「庭で二羽鶏が遊んでいる」

のようになります。この違いをきちんと理解する必要があります。言葉遊びの問題ではありません。

これがイメージできるためには、表現としての言語という過程的構造を捉えない限り議論にならないので、一度『日本語はどういう言語か』を、この立場を意識し読み通して下さい。

やり取りを始めてから2年近く経過していますが、殆ど変っていません。■

お礼日時:2020/07/28 23:37

#5です。



>否定以前に、言語過程説とは何かが全く理解できていません。

「庭に二羽鶏がいる」
・「に」は、話者が場所「庭」を「(鶏が)いる」空間的な位置として認識し表しているために採用された格助詞なわけです。

というのは言語過程説的説明ではない、ということですか?
批判するのは結構ですが、根拠ぐらい述べましょうよ。
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この回答へのお礼

>>表しているために採用された格助詞

なんとも、答えがたい文です。■

お礼日時:2020/07/26 18:09

#4です。



>これまで何度も指摘の通り、まず助詞とは何を表わす【の】か、という主体的表現の語の言語表現の本質が理解できていないため種々の機能的な解釈を並べ立てるしかないということです。

読解力が無いから、そういう理解しかできないのです。
私は言語過程説を否定したことは一度もありませんよ?

「庭に二羽鶏がいる」
・「に」は、話者が場所「庭」を「(鶏が)いる」空間的な位置として認識し表しているために採用された格助詞なわけです。

どこが『機能的な解釈』なのですか?
『言語表現の本質が理解できていない』だけではなく、この程度の文の読解力もないようで、今後が思いやられますな。(笑)
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この回答へのお礼

ははは!

>>私は言語過程説を否定したことは一度もありませんよ?

否定以前に、言語過程説とは何かが全く理解できていません。

肯定、否定以前の問題です。■

お礼日時:2020/07/26 16:42

#1さんのご回答への感想です。



>場所を表すのは、「庭」や「ここ」という、名詞・代名詞であって「に」ではない。

これは、勘違いをなさっていると思います。
「庭」や「ここ」は、『場所を表わす』語ではありません。
単に「場所、そのもの」です。
「鯨って何?」と聞かれて「海にいる哺乳類を表わす語だよ」と答えるでしょうか?
「海にいる哺乳類」と答えると思うのですけどね。

アスナロウさんがリンク先の質問で引用している柴谷 方良論文。
以前の遣り取りから、もう少し詳しい内容を下記に抜粋しておきますので、何かのご参考にしていただければと思います。

[ 以下、柴谷論文の該当箇所]
※ 「名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。このことについて山田孝雄『日本文法論』は次のように言う。「そのあらわせる観念の上より観察すれば助詞は単独にては何らの観念をもあらはし得ず、他の観念語に付属して其の義を認むるを得るのみ」そして、「その機能によりて観察すれば、助詞は観念語たる体言用言副詞に付属して其の意義を明にし、又それらの間の関係を示すに用いられる。」山田は、助詞の分類(記述)として、意義を中心としたものと、それらが示す関係すわち職能に根拠を求めるものとがあり得るが、上の引用でも明らかなように、「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」(549頁)ことから、助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならないと説く。/※

この論文について、アスナロウさんは以下のように批判している。
《ここに指摘されているように、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】というのが日本語の真実です。つまり、助詞「に」や「で」が【ある事物や動作・状態】である【モノの存在場所を表わす】のではないということです。》(アスナロウ)

しかし、そもそも論ですが、この解釈自体が誤り、つまり曲解であることを以前から指摘しているのですが、まったく反省の色が見えません。(笑)
最初からボタンを掛け違えたまま、あれこれ論ずるので、論議が噛み合わなくなるのです。
どのように曲解しているかを、かいつまんで以下にお示ししておきましょう。

柴谷がここで言っているのは、たとえば

「庭に二羽鶏がいる」

という文において、「庭」や「美しい」という名詞や形容詞は、【それ自体がある事物や動作・状態を指しているが】、「に」という【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】ということ。
助詞というものは、あくまで「庭に」のように他の語とセットになってはじめてその意味を発揮できる、つまり、「に」という語自体が「何らかの事物や動作・状態そのもの」ではない、と言っているにすぎない。
つまり、「に=庭」などとは、誰も言っていないのです。

>「に」は時間・空間を位置づける働きをしている。

ともおっしゃってます。
正確には、

「に」は(動作・作用の成立する)時間・空間を位置づける働きをしている。

だと思いますが、これを、

「庭に二羽鶏がいる」に当てはめて考えてみてください。

「に」は、「(鶏が)いる」という動作の成立する空間を(「それは庭である」と)位置づける働きをしている。

ということが言えるのではありませんか?
つまり、これを以って、

「に」は場所を表わす。

と表現することに何の齟齬も生じないと思うのですけどね。

「に」は場所を表わす。

という用法があり、

「庭に二羽鶏がいる」という文においては、

「に」は、「鶏がいる」という動作の場所が「庭」であること、を表わす。

ということです。
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この回答へのお礼

相変わらずの状態ですね。

これまで何度も指摘の通り、まず助詞とは何を表わす【の】か、という主体的表現の語の言語表現の本質が理解できていないため種々の機能的な解釈を並べ立てるしかないということです。

(なお【の】としたのは、他の質問でこれが<形式(抽象)名詞>であることが理解できずに助詞などという珍解釈にうつつを抜かされているので、ご参考までにです。)■

お礼日時:2020/07/26 08:48

先生や父など、人間も空間的位置づけの対象になりますか。

過去の議論の中で、人間を場所的に捉えた人がありました。その時は不思議に思ったのですが、それと同じ捉え方ですね。
 言語過程説は、【対象→認識→表現】を「過程」として捉えるからですか。あの「入れ子式」構造の意味が分からず、その辺から先に進めませんでした。言語学者、国語学者がこの説について行けず、(または、ついて行かず)結局、哲学者の三浦つとむ氏しか後を継ぐ人がいなかったのは、それなりの理由があるのでしょう。世代がそれほど違わなかった大野晋氏や、少し世代の離れた金田一春彦氏らが、東大にもどることが出来ず、最後に迎えられた松村明氏も、古典文法の世界に入り込んでしまいました。言語過程説は、三浦氏以後アスナロウさん(本当のお名前は存じ上げません。)の外にどのような人が受け継いでおられるのか教えてください。
 なお、三浦氏の著書の後書きを書いたのは、文芸評論家、吉本隆明ですが、この吉本氏の「言語にとって美とは何か」は難しい文体で、結局、自己表出の文章が文学の本質だと、言う結論です。「自己表出」でない文章を書く小説家などいるのかと、逆質問したい
くらいです。しかし、娘の「吉本ばなな」の文章力は本物ですが。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>>先生や父など、人間も空間的位置づけの対象になりますか。

先生【に】本をもらいました。
父【に】めぐりあう。
私は立派な人間【に】なりたい。

など、ごく普通のことです。

>>あの「入れ子式」構造の意味が分からず、

時枝は「入れ子式」を詞が辞を包むという機能として理解するしかなかった所に限界があります。こうした機能的な発想は分かり易いのですが、結局そこで行き詰ることになります。

三浦つとむはこの誤りを唯物弁証法の論理により、認識を反映として理解する立場から、対象と話し手との現実の統一の反映によって生まれたものという理解により時枝の限界を克服し、認識と言語の理論を展開しています。

言語過程説を支持し、受け継いだ鈴木一彦、山崎良幸、和田明美らは、この時枝の機能主義的な側面、限界を克服することなく、ベタな継承を図り理論を発展、展開できていない所に行き詰まりの根本原因があります。

松村明を引き継いだ尾上圭介なども、金田一の「不変化助動詞の本質」の誤りを理解できず、陳述論、モダリティー論を正すことができていません。現在の野村剛史なども「助動詞とは何か―その批判的再検討ー」で、三浦に触れながら、認知言語学的な発想に囚われた誤った解釈を提示し結局、助動詞とは何かを提示できていないのが現状です。
https://bibdb.ninjal.ac.jp/SJL/view.php?h_id=165 …

このため、言語過程説を本質的に受け継いでいるのは英語学やフランス文法の方面で、さらに機械翻訳などの工学の基礎言語論として注目されています。

英語学では今は亡き宮下眞二、フランス語の時称論、関係詞論を鈴木覺が展開しています。(『時枝学説の継承と三浦理論の展開 (言語過程説の探求)』『自然言語処理への展開 (言語過程説の探求 第三巻)』)

又、
http://transhistoy.jugem.jp/
の三浦陽一などにも影響を与えています。

吉本隆明は『言語にとって美とは何か』で、言語表現を自己表出と指示表出の統一として捉え言語芸術論を展開しています。また、『心的現象論』としてその理論的基礎を展開し、三木成夫の解剖学的な生物史的考察による植物性器官と動物性器官の関係にその類比を見ています。『ヒトのからだ ― 生物史的考察』(うぶすな書院)に解説を書いています。■

お礼日時:2020/07/26 08:39

1.【いつまでもそこに咲いてておくれ】



「に」の語釈は、以下にお示しする学研国語大辞典の語釈が最も優れています。

※㊀《格助詞》{体言または体言あつかいのものにつく}動作・作用が存在し、成立し、由来し、おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定し、連用修飾句を作るのに用いる。(学研国語大辞典)

この語釈に則って、
「いつまでもそこに咲いてておくれ」
を解釈すれば、次のようになる。

話者はバラに対して「咲いてておくれ」と願望を述べているわけだが、その「咲く」という君の動作が成立するために(君が)赴くであろう空間上の静止点は「そこ」であるような状態で「咲いてておくれ」と言っているのである。

「咲いてておくれ」だけでは、赴くべき空間上の静止点が指定されていないため、

私は一体、どこに向かって移動し、どこに落ち着いて咲いたら良いの?
リンダ困っちゃう。

とバラは嘆くはずだから、その悩みをあらかじめ解消しておくために「に」を使おう、と話者は考えたのである。
大事なのは、「バラは落ち着き先を探すことになるはずだ」と話者は考えた、という点である。
「そこに」と表現することで、格助詞「に」は、それ(=落ち着き先)は「そこ」ですよ、と(バラが)赴くべき空間上の静止点を指定する役割を果たしているのである。
探していた落ち着き先が「そこ」という「空間上の静止点」に落着することでバラは安心でき、文全体としての体裁も定まることになる。

広辞苑も良いところを突いている。
※(格助詞)時間的・空間的・心理的なある点を指定するのが原義で、多くは動作・作用・存在を表す語に続いて使われる。(広辞苑)

これらのことを以って、

格助詞「に」の本質的意義を、

『着点を表わす』

と簡潔明快に定義するのは、極めて自然なことと言える。

2.【いつまでもここで咲いてておくれ】

ついでと言っては何だが、格助詞「で」の語釈に関しても学研国語大辞典を参照して構わないだろう。
曰く、

「で」
{格助詞「にて」がつづまったもの。体言または体言あつかいのものにつく}動作・作用が成立する客観的条件(環境)をそれと指定する。(学研国語大辞典)

となっている。

話者はバラに対して「咲いてておくれ」と願望を述べているわけだが、その「咲く」という君の動作が成立する環境は「ここ」だよ、と言っているのである。
 1.のように、バラは落ち着き先を探しているわけではない。
(単に)「咲く」という動作をする環境(場所)、それ自体を探している。

と話者は考えたのである。

「ここで」と表現することで、格助詞「で」は、それ(=動作する環境)は「ここ」ですよ、と指定する役割を果たしているのである。

格助詞「で」の本質的意義は、

『状況(環境)や成立条件を表わす』

として良いだろう。
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この回答へのお礼

相変わらずの早速の応答をありがとうございます。

当方の指摘の主旨が全く理解されていないようで残念です。

バラが移動したり、バラが何かを探すというのは単なる妄想、白昼夢ですね!

浜口庫之助もあの世でひっくり返っているのではと推量されます。

No.1 さんのお応えを拳々服膺いただきたいものです。■

お礼日時:2020/07/26 07:17

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