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弁慶はどのような人物なのか、教えていただけませんか。ネットでも調べてみましたが、日本の歴史や歴史人物に疎いもので、いま一つです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (4件)

弁慶を知るには、まず「牛若丸」と当時の時代背景を知る必要があります。

以後は史実です。

牛若丸というのは、後の源義経(みなもとのよしつね)で「源」とはつまり「源氏」ですから源氏物語に出てくるぐらい、天皇家から臣籍降下)かした古く由緒ある家系になります。

牛若丸は源氏の一族なのですが、当時の日本は天皇を篭絡した平家が政府を掌握していました。中国風に言えば宦官と同じような「政治を実際に動かす権力者」なのですが、平家(平氏)も源氏と同じように臣籍降下した家系でこのほかに2家あって「源平藤橘」と呼ばれます。

 平家は源氏とおなじぐらい由緒ある家系で、その点中国の宦官とはかなり異なる部分もあるのですが、平家と源氏は宮廷内で権力闘争をしており、この闘争が牛若丸つまり源義経と弁慶の運命に大きく関わります。

当時は「平家にあらずんば人にあらず(平家の人間じゃなければ、まともな地位につけない)」と言われいたぐらいで、源氏は同じように天皇家の一族であったのに活躍の場を与えられず、それに怒った源義朝(みなもとのよしとも)が兵をあげて内乱を起こすのですが、平家に鎮圧されてしまいます。

この源義朝は牛若丸のお父さんで、後に鎌倉幕府を開く源頼朝は牛若丸=源義経のお兄さんに当たる人なのです。

で、牛若丸も成長し源義経と名前を変え若武者になったころ源頼朝が挙兵し、平家に勝って鎌倉幕府を開くことになります。この源平の戦いが「平家物語」と呼ばれる物語になります。(蛇足ですが、日本の運動会などが紅白に分かれるのは、平家が赤・源氏が白で戦った故事に由来すると言われています)

源義経は兄である頼朝の軍勢に参加するのですが、もともと軍事的な才能があった義経は壇ノ浦の戦いなど平家滅亡の立役者になり、頼朝は疎ましく思うようになります。
そして頼朝は義経を自分から遠ざける決断を行い、義経は謀反を起こすのですが失敗、その後奥州(今の岩手県)に逃げ込んだのですが、結局そこまで追手が迫ったたため家族と共に自害して生涯を終えたのです。

で、弁慶はどこにでてくるんだ?と思うでしょ。実は弁慶は史実には出てこない(実在の人物だとはされていて、義経に関係していることは平家物語などにも出てくるが、実態はほぼ不明)のです。

じゃあ弁慶はなに?となるわけですが、これは後の時代の軍記物と呼ばれる小説や能・歌舞伎などの物語の中に登場する人物なのです。

で、以下は物語の中の弁慶の説明になります。

弁慶は粗暴で、いろいろなところを転々としていたのですが、結局悪行が治らず、京都の五条大橋のたもとで腕自慢の武者たちと戦って勝ち、彼らの武器を取り上げてしまう、ということをしていました。
なので、弁慶といえば子供の頃に預けられていた僧侶の恰好(僧兵という僧侶だけど兵士と言う格好、少林寺と同じですね)で、背負った籠に奪ったたくさんの武器を持っている姿が一般的です。
https://mag.japaaan.com/wp-content/uploads/2019/ …


 それを懲らしめようと現れたのがこの写真の右にいる牛若丸で、少年の身のこなしでヒラリと弁慶の太刀筋を交わした牛若丸に勝つことができず、根負けした弁慶は牛若丸に降参し、以後牛若丸の家来になります。(少年なのは当時の女性のように前髪があることで分かります。元服して大人になると男は前に髪を垂らさなくなるのです)
あ、そうそう日本語で脛(すね)を「弁慶の泣き所」というのは、牛若丸がここを攻撃して弁慶が降参したからです。

若武者になった牛若丸→源義経がたどった経緯は史実通りなのですが、物語の中では弁慶が何度も義経の窮地を救うのです。

その中で有名なのは主に二つ「勧進帳」と「仁王立ち」です。
勧進帳は今では歌舞伎の主な演目になっていますが、これは追っ手を避けるため、弁慶を頭に山伏の一団に変装した一行が関所(検問所)を通ったときの話です。
 
通過するためには「勧進帳」という書類が必要なのですが、全く関係ない巻物を読み上げて何とか通ることに成功し、しかし怪しんだ部下が「オマエは義経だろう!」というので、義経を殴ってどやしつけ「あんな手荒いことを部下の弁慶がするはずがない」と思わせて、間一髪脱出できたことを言います。
つまりそれぐらい弁慶は義経のことを守る義務感・忠誠心があったわけです。

仁王立ちは、いよいよ追手が迫り、義経が自害するしかない、と言うときに時間を稼ぎ、追っ手に首を取られないようにするために建物の前で弁慶が立ちふさがったことに由来します。この時、弁慶は仁王像のように厳しい顔で立ちふさがり、矢を何本受けても動じることなく立っていました。ただ、後で敵が調べてみると、弁慶は立ったまま死んでいて、これを「弁慶の立ち往生」ともいうのです。(蛇足ですが、車などが故障してどうしようもないことを「立往生」といいますが、弁慶のこの内容に由来しています)

このため「弁慶は忠義を尽くした家来の鏡」であるとされ、赤穂浪士と同様に「主君に忠義を尽くす偉い人」として日本では人気があるわけです。
以上は架空の話ですが、平家物語や義経の悲劇の史実などもあり、日本人は歴史と共に弁慶を知るのですが、以上の事を知っておけば普通の日本人よりもちょっと知っているぐらいにはなれるはずです。

なお、義経は天皇から「判官」という官名をもらっており、元々これが兄・頼朝と不和になる原因になっています。日本では今でも天皇がおられるように、当時も「天皇が官名=役職を与えること」が社会秩序の基本で、征夷大将軍というのも官名のひとつ、これは軍政を敷ける官名なのです。つまり鎌倉幕府というのは、頼朝が天皇から征夷大将軍という役職をもらったから作れたわけで、頼朝よりも先に義経が官名をもらったこと、平家討伐に一番の活躍をしたことなどから、兄・頼朝はライバル視して蹴落とすことになったわけです。

日本人は「強い者と戦う弱い者」が好きなので、この義経を応援する気持ちが弁慶を生み、歌舞伎などでいまでも上演されるわけです。で、こういう「弱い側を対応援してしまう」ことを「判官びいき」と呼びます。
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この回答へのお礼

わかるようになりました。私のために、貴重なお時間を割いていただき誠にありがとうございました。大変助かりました。

他のみなさんもありがとうございました。

お礼日時:2020/09/07 01:25

生まれ不明


お寺にいれて貰えました。坊さんになつもりだったが
武術にはまりかなり上達したが、バカでしたので
こんなの出ていけぼけ~と追い出された

不良になり
当時は刀に価値が有ったので脅迫、強奪をしてました。
その頃に 自分で名前を決め武蔵坊弁慶と名乗った

偶々、義経さんのを強奪に失敗。
義経さん金もあるし人脈の塊ですから
~失業してるならうちで雇ってあげるよと

余りにも良い思い出来るし
自分の大好きな暴力が自由に出来るので
最後まで部下でいました。



お墓は 平泉にあります。
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それは平安時代末期に、若き日の源義経(源頼朝の異母弟)である牛若丸と京都の


五条大橋で戦うが、牛若丸に敗れその後家来として義経とともに幾度の平家との
戦いにおいて勝利を勝ち取るが、最終的に強すぎる義経を頼朝が嫌い、奥州平泉
に追いつめられて、義経と共に自害する。

正式名称は、武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)。

※YouTubeでNHK大河ドラマ『義経』を見れば有る程度詳しく理解できると思うが。
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歌舞伎などには出てきますが


そもそも弁慶という人物が
本当にいたのかが問題です

平家物語には出てきません

私が知っているのは
弁慶の母親が
身篭ったとき
母親はやたらと鉄を口にするようになった
(妊娠した時
普段口にしないものを食べることがあります)

しかし
生まれる十月十日よりも早く生まれてきたので
本当は全身鉄でできた丈夫な体で生まれてくるはずだったが
一部鉄でできていない箇所があった
これが世間でいう「弁慶の泣き所」と言って
あの弁慶も足の膝だけは弱かった
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