人生のプチ美学を教えてください!!

まず、漢文は古代中国の文章であり、違う国のはずの日本がそれを経典として見ていることに違和感を覚えます。
文法や語順もSOVの日本語と全然違うし、訓読するときにわざわざ文字の順番を変更したり、現代では全く使わない読み方のルビを振ったりしてまで、そうやってせっかく作った書き下し文だって現代日本人にとってすぐ読み取れるわけでもありません。
漢詩なども、書き下し文にしたら形式美も無くなるし、もったいないと思います。
だから、漢文訓読とかじゃなくって、中国語を学んで、それを駆使して直接に読み取るほうが早いのではありませんか?

世界中の国を見ても、日本ほど他国の古文を自分の物のように訓読する例が見つかりません。
想像してみてください。英語の文章を英語で読むのではなく、日本語で訓読するといったらおかしいと思いません?
例えば、「He can't speak English」をわざわざ「Heはイングリッシュをスピークするにcanず」に書き換えるみたいなもんですよ?漢文訓読というのは。
古代には国と国との分界がはっきりしていなかったから、そうやっていたかもしれませんが、今でも漢文訓読をやるという意味がわかりません。
どなたかこれについて思うことはありますか?

A 回答 (6件)

>漢文は古代中国の文章であり、



日本の明治時代初期まで朝廷の文書は漢文でしたし、私的にも漢文で書かれることがあったように「日本の文章」でもありました。

明治になってからも戦前までは、法令なども漢文の書き下し文調で書かれています。
現在有効な法令としても残っているものがあります。
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本来はそうかもしれませんが、中国語をマスターするのと漢文をマスターするのとどちらが楽かを考えれば結論は分かり切っています。

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日本文化は中国文化を多く取り入れているから、日本のアイデンティティを本当に探求しようと思えば、中国の探求は避けて通れない。



しかし素読などはよほどの素養がなければ無理であり、教育の場に取り入れることはできない。
やってもよいが、落第者の山となる。

質問者が言うことは、英語で言えば「直読直解主義」である。
これは、あの俊才が集う海軍兵学校でもできなかったことである。
校長はやろうとしたが、現場教師が反対した。
規定の修業年限では到底こなせなかったのである。

ヨーロッパ諸国ではラテン語が共通の教養になっている。
フランスだろうがスペインだろうがイギリスだろうがドイツ(の一部)だろうが、かつてローマに支配されローマの影響を受けたからである。

世の中、理想通りに進むことは全くといってよいほどない。
現実世界は、試験管の中の理想世界のような純粋なものではないからである。
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漢字圏では公文書や正史は漢文が原則です。

漢文訓読の技術があれば、多くの漢文で書かれた膨大な古典籍や経文を読み下すことができます。一次資料を調べることが出来るわけです。
ベトナムや韓国も同様に公文書や正史が漢文で残されていますが、どちらも漢字を廃止してアルファベットやハングル一本にしてしまったため、残された資料が読めなくなってしまいました、
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>まず、漢文は古代中国の文章であり、違う国のはずの日本がそれを経典として見ていることに違和感を覚えます。



キリスト教の聖書なんて最初の言語はヘブライ語だし、ローマ・カソリックが成立し、聖典を整理したニカイア公会議以後で見てもラテン語で書かれるものでした。

なので「違う国・違う言語のものを経典としている」のは別に違和感はないでしょう。

>世界中の国を見ても、日本ほど他国の古文を自分の物のように訓読する例が見つかりません。

それは他の言語は訓読できないからです。漢字という世界的にみて特殊な言語だからこそ訓読(読み下し)ができるわけで、ある意味「日本が誇るべき文化」ともいえるでしょう。

>想像してみてください。英語の文章を英語で読むのではなく、日本語で訓読するといったらおかしいと思いません?

キリスト教の聖書は各国語に翻訳されていて、イスラム教はアラビア語でしか読み書きしちゃいけない(翻訳本はあるがコーランとは認められない)ものです。

表意文字である漢字じゃないので、どちらかの方法しかないわけで、キリスト教の神学校ではラテン語が必須だったりします。

日本では読み下しができれば、中国語を習得する必要はないので、どの方法が正しいのか?というのは意味がない問いだと思います。

その上で現代日本で漢文訓読を習うのは「日本の歴史や文化にはこういう部分もあるよ」と言う紹介と「本気で習ったり、研究するつもりなら、訓読はできないとダメだよ」という導入紹介だからです。

だから私立大なんて受験科目にしないですし、それほど重視はされません。

でも「だから習わなくていい」と言う考え方には反対です。
なぜなら普通の文章でも四書五経から引用された文章やことわざなどがありますし、日本人は漢字も使っているからです。

『使わないから・必要ないから学ぶ必要無い」なら、数学だって高校レベルの授業はほとんどの人に不要だし、理科の生物や化学だってほとんどの人に不要な知識です。歴史だって無くても生活できます。

でもいろいろなジャンルを学ぶからこそ「興味をもってその道に進む人が出てくる」わけで「実用的じゃないから不要」というのには賛成できません。
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漢字需要の歴史から言うと、そもそもが仏教の漢訳仏典と一緒に日本に伝来したので、日本が仏教を受け入れた以上、漢字の学習は宗教的にも文化的にも不可欠、という歴史を歩んできました。

そこはもう、宗教の歴史の話なので、仕方ない。

日本人は、漢文訓読という手段を編み出したことによって、漢文を日本語の文脈に落とし込んで、漢語や漢文の知識を日本文化の一部として吸収することができました。そのことは、明治期に欧米の文章が大量に流入してきたときに、漢語や漢文訓読の応用で、短期間のうちに欧米語を漢語訳したり翻訳したりすることにつながりました。
訓読の文化がなければ、漢文を理解し、漢語を受容する日本人は、中国語を学んだごく一部のエリートに限定されました。大陸と距離のある島国で、中国との行き来が容易ではなかった時代、「中国語が出来るごく一部のエリート」は、本当にごく一部です。常に中国語ネイティブの人が渡来して学び続けなければ、いずれは「日本化」する運命にあります。

>例えば、「He can't speak English」をわざわざ「Heはイングリッシュをスピークするにcanず」に書き換えるみたいなもんですよ?漢文訓読というのは。

欧文訓読、という考え方もありますよ。実際、幕末~明治時代に欧文を翻訳した日本人は、そうやって欧文を理解していったんです。
そうやって「短時間で」日本語に置き換えて理解する、という実用性を優先したのが、訓読という手法です。
訓読が発達しなかった漢字文化圏では、漢文は「一部のエリートしか使えない、上級言語」扱いです。日本語では、漢文を訓読して日本語に取り込んだことで、漢字文化圏において「中国語=上位、現地語=日本語=下位」というような対立構造が生まれるのを避けた、とも言えると思います。
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