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私は、江戸時代の武士が許せません。農民は一生懸命作った米のほとんどを国に奪われ、民は1日米のお粥50グラム。これでは足りない為猫じゃらしや野草をなんとか食べて、家に来るミミズやネズミを食べてなんとか飢え をしのいでい流状態。それも見つかれば全て没収。大名行列で一瞬でも動いたら切られる。江戸時代の武士は悪です。200年の江戸時代の農民が可愛そうです。くろぶねは正義だったのですか?

A 回答 (28件中11~20件)

このサイトは、どう使おうが自由に許されているのに近いと思いますが、それはそれとして、ある程度は事実らしきことを教科書やネットで調べてから、感想をもつようにした方が良いと思います。



たぶん、次のようなことは、江戸時代の一般的な状況にはないです。
① 農民は一生懸命作った米のほとんどを国に奪われ、
② 民は1日米のお粥50グラム。
③ 大名行列で一瞬でも動いたら切られる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8D …
江戸時代も元禄(1688年~1703年)頃には農民の生活水準も向上し、非自給商品の購入も盛んになって、その結果商品流通が盛んになり、商人・町人文化も繁栄したのです。元禄から享保(1716~1736年)には、観光・慰安を兼ねて各地からお伊勢参りに人がたくさん旅行しましたし、観光業者である御師がツアーの広告や勧誘で各地を回りました。 1718年の正月から4月までだけでも、42万人が伊勢参りをしたとの報告もあります。 時代が下がって1800年を過ぎれば、弥次喜多の東海道中膝栗毛の物語が出版されるほど、観光旅行や伊勢参り、遍路巡礼が盛んになります。
もちろん、最貧民もいるし、農民に隷属している下男下女作男もいます。
凶作、冷害、干害、虫害、洪水などで、飢え死に多数というときもあります。 たぶん、中学の教科書にも簡単には書かれていると思います。


なんのことを言っているのか、ご自分では分かっていますか。
③ それも見つかれば全て没収

なにを思い描いているのか、現実的なことなのか、ただの想像で具体的なイメージも湧かないことなのか、そうしたことは、自分自身でも考えた方がイイです。

④ 私は、江戸時代の武士が許せません。

いつの時代の、なにに関してでも、「私は許せない」という発想はしない方が、事実を知ろうとする妨げにならないで済みます。 
許す、許さないを先に想ってしまうと、事実を無視するとことなるのが多いです。 できるだけ、淡々と調べたり、学習したりしましょう。
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民は1日米のお粥50グラム。

これでは足りない為猫じゃらしや野草をなんとか食べて、家に来るミミズやネズミを食べてなんとか飢え をしのいで

>>嘘をつくな!
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一般的な武士の年俸(米換算)・・・一人一日五合。


一人扶持=一年=360日=一石八斗(米俵5俵)

農民は、一年間に一人あたり米俵5俵以上食べていましたよね?
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米が通貨の役割をしていた江戸期。


農民は米で税を払い(実際の税率30%程度)、武士は家禄に応じて小普請金(税率2%)を納めていました。
主な納税者は、米をたくさん所有している農民です。
農民が米を独占してしまうと、国中に食糧が回らず農民以外は飢えてしまいます。
国に食糧を生産している農民が食うに困る筈がありません。
大飢饉の時は国中が飢えます。農民は生産者なので、もし農民が飢えで死ぬとしたら、その時は他の民にまで食糧が回らず皆死んでいたでしょう。そうならないためにも大飢饉に備えた食糧備蓄(食糧庫)は藩や村にあったと思いますよ。
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>私のイメージでは民百姓はみんな鎖で繋がれ、食事も禁止で、民はこっそり土とかを食べていて何とか飢えを凌いでいたのではなかったのですか?



 北朝鮮でもそこまでは。百姓は生かさず殺さずって言葉もあります。労働力や労働意欲をそぐようなことをやっては国家経済が破綻します。

 ってマジで答えてみました。
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この回答へのお礼

う、食事禁止したら死ぬやんってツッコミ欲しかった・・・

お礼日時:2021/06/18 12:28

四公六民とか五公五民って言葉があるように、少なくとも半分近くは民のものだったはず。

この基礎にあるものは検地などで把握されている土地のものでいわば名目上の採れ高。例えば江戸期の東北のある藩は名目が20万石だが実際の収穫量は30万石を超えていたという。
 農民のところでも隠し田や検地後の新田なんかもあったはずだから、実際には民の取り分は常時半分以上あったんじゃなかろうか。だから「米のほとんどを国に奪われ」というのは一般的なことではなかったんだろうと思います。
 なお、大名行列で不敬を働いて切られたケースってあんまりなかったんじゃないですかね。
 黒船は正義じゃないでしょう。これが正義だったら砲艦外交礼賛ってことになっちゃいます。
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この回答へのお礼

え。そうなんですか?私のイメージでは民百姓はみんな鎖で繋がれ、食事も禁止で、民はこっそり土とかを食べていて何とか飢えを凌いでいたのではなかったのですか?

お礼日時:2021/06/18 11:54

先祖が貧しかったから自分は貧しいのだ、と、それを人のせいになすりつけていますね。


武士は家禄を貰っていたため、先祖を敬う心は強いですね。
ところで、あなたの家は先祖供養を何回忌までされていますか?先祖を尊敬し敬っていますか?残念ながらあなたの質問文からはそれが読み取れません。
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歴史ファンタジーの読みすぎだよ

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学校で、何を勉強してきたのですか?


百姓が貧しかったのは、庄屋が搾取していたせいなのです。それをアメリカが解放し、皆自由で平等の国にしてくれたのです。
武士は、第一次農地改革で貧しい民を解放しようと試みたのですが、庄屋達の抵抗に合い実行したくても出来ませんでした。
それまで貧しい百姓を搾取してたのは、武士ではなく、百姓をこき使い、財を築き、権力をふりかざしていた大庄屋です。
武士は貧しい民の事を一番に考えていたのです。

農地改革を、覚えていませんか?
アメリカが百姓を庄屋から解放してくれたのです。
学校で習ったでしょう?
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やれやれ・・・
「くろふね」が配者の軍隊ねぇ・・・
選挙による大統領制のアメリカ「くろふね」がそうなら、現在のあらゆる軍隊や行政組織も「支配者の犬」でしかないと思いますが。
そんな事を叫んでいるご立派な人間を気取っている方の理想の社会とはどのようなものなのでしょうか。


別の時間線の方も紛れているようですね。
黒船来航は1853年(発案、出向は更に前)
南北戦争は1861年から。

当時のアメリカには日本を侵略する意図はありませんでした。
というか、できませんでした。
植民地の獲得競争については、アメリカは南北戦争以前から遅れを取っていました。
というか、国内の開発や対立でそれどころではありませんでした。
当時のアメリカの海軍力は、主に国内の河川での戦闘の為や近海用のものです。
なので、日本を賭けて英仏露と戦っても勝てません。
そもそも日本に来ることすらやっとのことでした。
よく誤解されていますがペリーは太平洋を越えて来たのではありません。
(当時はハワイまでですら無補給で行ける船などありません)
なので、東海岸からインド洋を港(他国の支配地)伝いに来ています。
そんな状況で、抜け駆けで日本を侵略しようとしても、他国が許しません。

以上から、他国を侵略するだけの艦隊や占領の為の人員など動員できません。
(そもそも、南北戦争直前の状態で外国と戦争とか)
幕府もそれを見抜いていた為に、まずアメリカと他国より緩い条件で国交を開き、他の国もそれに倣わせようとしました。





質問については、(黒船=侵略以外は)No7様に同意。

>ミミズやネズミを食べてなんとか飢え をしのいで

どんな教師に言われたのやら。何を読み齧ったのやら・・・
農民を酷使して一揆や逃散でも起こされたら、その地の大名や代官が幕府から責任を問われていました。
その仕事も非常にハードで、代官職は苦労や責任と収入が見合わないと嫌われていました。
「私は、江戸時代の武士が許せません。農民は」の回答画像9
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