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鎌倉幕府では、守護と地頭が分かれています。ですが、室町幕府では、なぜ守護と地頭が同じになったのでしょうか。

A 回答 (4件)

https://www.school-turnup.com/p-11900/
鎌倉幕府から任命されるものですが、「担当する範囲」が違います。

守護  :鎌倉幕府の軍事・警察権掌握のための地方機関。1185年,義経追
討を理由として国ごとに設置を公認された。 初め惣追捕使と呼ばれ、やがて守護の語に固まり,有力御家人が任命された。
大犯三カ条:守護の基本的権限で、頼朝以来の慣習として定まっていたが、御成敗式目で成文化された。
 謀叛人の逮捕
 殺害人の逮捕
 大番催促 :守護が各国の御家人に対し,京都を警備する大番役への勤仕を催促・指揮する権限。

1185年,頼朝の要請で後白河法皇は諸国の公領・荘園に地頭を設置するこ
とを認めた。当初は1国単位に荘園公領を支配する国地頭を配置したが, まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀叛人跡地に限定した荘郷地頭になった。
地頭職補任状 :幕府が地頭を任命する文言。将軍からの下文の形をとるが,袖判下文と政所下文の2形式がある。将軍直筆の花押(サイン)が文書の右端(袖)にある袖判下文が最も重要視された。鎌倉初期には頼朝の花押のある頼朝下文が尊重された。
新恩給与 : 御家人に対し その功によって新たな領地ないしは守護職・地
頭職などの所職を与えること。
:東国御家人 :鎌倉幕府を支えたのは初期には東国武士からなる東国御家人で,地頭職も東国御家人に与えられる場合が多かった。
:西国御家人 :西国御家人は守護を通じて御家人として登録され,東国御家人と違って地頭職を与えられることが少なく,下司職など荘園制下の職権を保護されることが多かった。
承久の乱 1221(承久3)年,後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒のために起こした兵
乱。義時は,泰時・時房を将として京都を攻撃し上皇方を破った。乱後.後鳥羽上皇ら3上皇の配流,仲恭:認天皇の退位と後堀河天皇の擁立,上皇方に加担した者の所領の没収など, 幕府の朝廷に対する優位が確立した。また今まで地頭が置かれなかった西国の公領・荘園lにも幕府の御家人が地頭として派過され,幕府の西国支配が強化された。
新補地頭 :承久の乱後今まで幕府の御家人が派遣されていなかった公領.荘園に新たに任命され.得分として新補率法が適用された地頭。ほとんど西国に分布し,東国の御家人が選ばれた。

竹崎季長 1246~ 肥後国の武士。文永の役で戦功を挙げ、翌年鎌倉に赴き、
御恩奉行安達泰盛に直訴して、肥後国海東郷の地頭職を受けた。

守護 : 「国ごと(地方ごと)」に設置された役職。
      国内の軍事・警察、御家人の統率にあたった。
地頭 : 「荘園や公領ごと」に設置した役職。
      荘園や公領の管理や年貢の取り立てにあたった。

悪党  : 党とは東国の武蔵七党や九州松浦党のように中世の武士集団を指す言葉である。このうち社会秩序を乱すものは悪党の名で嫌われたが、荘園を侵して領主や幕府に反抗する地頭や名主なども悪党と称された。幕府はしばしば守護に悪党鎮圧を指令した。

阿氏河荘百姓等言上状(訴状)  :和歌山県阿氏河荘の上村の百姓が, 1275年に地頭湯浅宗親の非道を13カ条にわたって訴えたもの。言上状・申状とも呼ぶ。地頭が「耳ヲ切リ、鼻ヲ削ギ、 髪をヲ切リ」といった手段で百姓を責めた有様が原文ではカタカナで書かれている。

国司・守護の併置 : 建武の新政で後醍醐天皇は公家・武士を新しく国司に任命したが.守護は鎌倉幕府側に従って滅ぼされた武士以外はそのまま任務を続けたので. 国司・守護併置となった。

守護大名 :鎌倉時代の守護は大犯三カ条にある軍事警察権を持つだけであった。 足利尊氏は守護に刈田狼薪の取締りや使節遵行という幕府命令の執行権を与え,守護は半済令や守護諭で地頭・武士の家臣化や土地の一円支配を進めた。国衙機能も吸収して領主となり.大名田堵の名に由来する守護大名の名で呼ばれた。

国人   :その地に住み着いていた有力武士。荘官・地頭などが地方に土着して領主層に成長したものが多い。守護の被官(家臣)になるものもあった。

島津氏  :摂関家近衛家領島津荘という薩摩・大隅・日向3カ国にまたがる大荘園の惣地頭職に任じられ,鎌倉幕府の御家人として3カ国の守護を務めた。蒙古襲来の際,九州に下り(西遷御家人),南北朝・室町時代に武家方として活躍して, 3カ国の守護大名の地位を守った。貴久が薩摩・大隅の戦国大名の地位を確立。子義久が豊臣秀吉に服属して領国を安堵された。
薩摩藩(鹿児島藩):薩摩・大隅2国を領有する大藩。藩主の島津氏は鎌倉時代から摂関家領島津荘の地頭、職薩摩国の守護職などに補任された家で、義久の代に秀吉に服した。

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> 室町幕府では、なぜ守護と地頭が同じになったのでしょうか。

公家貴族が地方長官になる時代が平安末には実質なくなり、平氏・源氏などの武力勢力、御家人などの武人、悪党などの自分の率いる一団の武力を背景にする勢力が、広域を支配する現実が強くなって、もはや、幕府の独断で地方の徴税担当官を任命したり、派遣することは出来なくなっていたのです。
専制君主の任命する役人が地方で力を振るえる時代は終わっていて、各地の勢力が各地を実質支配し、中央の朝廷や幕府は、各地の勢力に「守護」「総地頭」の名称を身分のような感じで"任命する形式"で、朝廷や幕府の威厳・権威を守ったのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2021/09/01 06:18

守護と地頭が一緒になれば、多大な利権を確保できます。


それが、戦国大名です。
鎌倉幕府は、そうならぬ様に目を光らせていましたが、足利幕府は、
足利義満の頃から朝廷化して、金閣寺などを建立し始めました、
足利義満は応仁の乱の最中でも銀閣寺の建立の事ばかり考えていました。
全国に戦国大名が生まれるのは自然の成り行きでしょう。
ボケーっと、している守護は守護代と地頭に追い出されました。
守護代が戦国大名になった代表が尾張・織田家です。
尾張の守護代は織田が三家に分かれていて支配してました、
弾正忠・織田家は分家でも最下位でした、本家と分家を打ち払い誕生
したのが、戦国大名の織田弾正忠信長です。
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同じじゃない。

室町時代は、守護が経済力をつけて地頭を配下に組み込んだ時代で地頭が国人に変わっていく時代なのです。
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同じになったのだろうか・・・・・

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