A 回答 (6件)
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No.2
- 回答日時:
学問というのは、時間や余裕があるからするというものでは無い、という事は、現代でも共通でしょう。
現代でも、忙しく働いている人でも、勉強好きな人もいれば、
時間的にも、経済的にも、余裕があっても、何もしない人もいます。
金沢文庫を作った、北条実時のように幕府官僚として、
多忙な生活を送りながら、学問の面でも高い成果を挙げた人もいます。
また、歴代の執権たちが建立した、鎌倉五山の寺院は、
学問所としての機能も果たしていたので、
高い教養を持った武士も、多かったと思いますよ。
No.3
- 回答日時:
まぁそうですよ
承久の乱において、後鳥羽上皇側から発せられた文書が京都に迫った鎌倉方に送られてきたが、その内容を誰も理解出来なかった
中の1人が辛うじて文意を理解する事が出来てギリギリで面目を立ったという逸話が有るそうです
日頃の簡単な挨拶状程度の理解力は、領主クラスの人なら持っていたでしょうけど
朝廷の文書や律令・法令で使われるような文書を理解したり作成したりする能力はほぼ無かった様だという事です
だからこそ、京都から下級の公家をヘッドハンティングして幕府の役職に就けたり、顧問のような立場で優遇していたのですね
武士・侍が、統治機構を構成する官僚として機能するのは江戸幕府以降の話です
室町期も、戦闘行動を担当する武官と幕府内の官僚とは役割が明確に分離されていました
No.4
- 回答日時:
別に不可能とは思いませんが、かなり苦労したでしょう。
天皇・朝廷を滅亡させて完全な新政権を創るのではなく、天皇・朝廷の権威を認めたうえで、形式的にはその傘下に置きながら、内政権だけを委託されたという形式が幕府の実態です。
ということは朝廷とも密接なコミュニケーションをとる必要があったわけで、ゆえに公家の知識がどうしても必要であったということになるでしょう。
明治維新も、国政経験のない薩長の田舎侍や公家達では何もできなかったがゆえに、結局、旧幕臣を大量に再雇用しています。
No.5
- 回答日時:
>武士には学問や教養が無いから、武士のみで統治機構を作るのは不可能だったと言うことなのでしょうか?
いつの時代でもどこの国でも「文官」とか「官僚」と呼ばれる国家行政の専門家はすぐには育成できないので、必ずと言っていいほど従来の行政担当者をそのまま温存します。
たとえば、明治維新で大政奉還された明治政府がいきなりポンと日本全体の行政を任されても動かせるわけがないのです。
なので、徳川幕府から大量に官僚を引き抜いて、そのまま仕事をしてもらいました。
フランス革命もなぜ成功したかというと、官僚的な仕事をしていた多くの貴族が国王に愛想をつかしていて、平民革命に協力的だったからです。
なので、武士に学問や教養があっても、行政の流れや情報が何処にあるかを知らないと国家の運営はできないわけで、鎌倉幕府は東日本の各領主が頼朝に忠誠を誓った東国政府が最初だったとしても、行政を動かすには経験のある文官を呼んでくる必要があったのです。
No.6
- 回答日時:
No.4の「朝廷とも密接なコミュニケーションをとる必要があったわけで、ゆえに公家の知識がどうしても必要であったということ」というのは、朝廷と幕府ということ、公家と武士団ということからも、重要なのでしょう。
変な言い方ですが、国際外交では、相手国や他国の事情、文化に詳しいものが政権に近い重要ポストで仕事をしてないとならないというのと似ているのかもしれません。
武士団同士、御家人との関係だけであれば、ちょっと違うのではなかったでしょうか。
問注所は領地問題の採決を将軍がする場合の補佐官のような事務職だからということもあるのかもしれません。
高2の方が、次のようにまとめています。
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakur …
https://rekijin.com/?p=36655
頼朝の側近として累進!
広元は朝廷で外記(公文書作成や公務記録をする書記)を務める官僚でしたが、広元の兄・中原親能は早くから頼朝に従っており、その縁で広元も鎌倉へ下って幕府公文所別当に就任しました。鎌倉に入ったのは、寿永2年(1183)7月の平家の都落ちのあとだと考えられます。公文所は公文書の管理や荘園の訴訟などを取り扱う幕府の行政機関で、別当は職務全体の統括を担当しました。兄・親能は広元の補佐役だったようです。
建久2年(1191)(文治元年(1185)の説もあり)に政所が開設すると、公文所は政所に統合され、広元は初代別当に就任します。ほかにも明法博士、左衛門大尉、検非違使に就くなど、当時では異例の人事だったようです。
朝廷との折衝を担当する
さまざまな役職を歴任した広元ですが、彼の重要な役目の1つに朝廷との交渉役がありました。広元は頼朝の使節として京都に滞在し朝幕関係の基礎作りに貢献したほか、平家追討の時期には頼朝の意思を伝える役目も担っています。もともと朝廷の官僚だった広元は適任だったのかもしれません。こうして広元は頼朝の側近として実力を発揮していきました。
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