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下記について、ご教授のほど、よろしくお願い申し上げます。

①室町時代だけ、何故南北朝時代(1336〜1392)、戦国時代(1467〜1568)の2つの時代が混在するようになったのでしょうか

②何故、下記の時代だけは、2つの文化を持つように至ったのでしょうか(他の時代は、1つの文化のみです)

飛鳥時代(飛鳥文化、白鳳文化)
平安時代(弘仁•貞観文化、国風文化)
室町時代(北山文化、東山文化)
江戸時代(元禄文化、化政文化)

質問者からの補足コメント

  • ご回答ありがとうございます
    ①室町時代の中に、南北朝時代、戦国時代、安土桃山時代が含まれるという意味でしょうか

    ②奈良時代は、「天平文化」のみではないでしょうか、他の文化も栄えたのでしょうか

    勉強不足で申し訳ございません。
    ご教授のほど、よろしくお願い申し上げます。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/01/13 16:31

A 回答 (10件)

①ですが、結論から言えば「たまたま」と言うだけです。

そもそも「室町時代」「南北朝時代」「戦国時代」は時代区分の観点が全く異なります。なので理屈から言えば、鎌倉時代に南北朝時代があっても構わないし、鎌倉時代と室町時代を跨ぐ形で存在しても構いません。極端な話、室町時代全体が丸々南北朝時代であったとしても一向に構わない事になります。

②は単純に「名前の付いた文化がそれだけだった」と言うだけであって、例えば「飛鳥時代には2つの文化があった」と言うわけではありません。早い話、現在は「○○文化」と言う名前の付いた文化はありませんが、現在に文化がないわけではありません。とにかく「歴史の教科書に書いてある事しか歴史上何も起きていない」と言うわけではない事を再認識しておくべきだと思います。
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この回答へのお礼

丁寧且つ詳細なご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2022/01/13 16:45

補足の②についてですが、後世の学者がネーミングした文化が天平文化しかないと言うだけであって「天平文化が栄えた時代外の奈良時代には文化がなかった」と言うのはあり得ません。

早い話、江戸時代には元禄文化と化政文化と言う二つの文化があるわけですが「江戸時代の他の期間には文化がなかった」などと言うのはおかしな話でしょう。
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この回答へのお礼

丁寧且つ詳細なご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。沢山のご回答誠にありがとうございます。

お礼日時:2022/01/15 00:11

補足の①の質問ですが、安土桃山時代は鎌倉時代や室町時代等と同等の意味での時代区分です。

鎌倉時代から江戸時代までの時代区分は私が学校に行っていた頃には「鎌倉時代→室町時代→安土桃山時代→江戸時代」となっていました。これらは概ね「どんな人が政権を持っていたのか」と言う観点からの区分です。

そして南北朝時代と言うのは「朝廷が南朝と北朝に分かれていた時代」と言う時代の事です。実際には南北朝時代は丸々室町時代に入っているはずですが、前述のように基本的には「たまたまそうだった」と言うだけであって、例えば江戸時代に南朝と北朝に分裂するような時期があればそれもまた「南北朝時代」と呼んで差し支えないはずです。

そして戦国時代と言うのは概ね「下剋上」の時代になってから豊臣秀吉が天下を統一して戦乱が収まるまでを指します。私が学校に行っていた頃には前述のように戦国時代は丸々室町時代に含まれていましたが、ウィキペディア情報によれば現在では足利義昭が織田信長によって京を追放された時点で「室町時代の終わり」とされているようです。
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この回答へのお礼

丁寧且つ詳細なご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2022/01/15 00:05

登場人物で歴史を見るのが好きなので、文化面で区切る事は、


良く解りませんのです。
近年、色々な遺物が発見され細かい事が解って来ましたが、
奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、現代の括りで宜しいのです、
これ以上、増えると年表が長くなって、覚えられないのです。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。勉強になりました。

お礼日時:2022/01/14 17:50

文化を考えるときに、その時代の文化的な有名人を思い出したり政治体制の中で考えようとすると、混乱します。

文化はそれを支えた人達、特に経済的な意味で支えた人たちがいるわけです。そこに視点を合わせて考えると、わかりやすくなります。当然、教科書や学者が勝手に解釈しているわけでもなく、文化の区分にはそれなりの理由があります。特に最近では「経済的に誰がその文化を支えたのか、どのように拡がったのかという視点、わかりやすく言えば文化を創る側でなく、受け入れる側の視点から考えられるようになったからだと思います。質問者の方もそうした視点で文化を考えられると歴史がさらに面白味を増します
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この回答へのお礼

丁寧且つ詳細なご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2022/01/13 16:40

①安土桃山時代の表記も有りますよ。


②奈良時代を忘れてませんか?
歴史学者が勝手に自説を元に、区分けして付けた物です。
歴学者の勢力が強い方が付けた方が採用される事が多いのです。
歴史は勝者が造るが、ここにも表れます。
不採用側は本を出版するので、色々な表記の時代区分の名が氾濫
するのです。
昭和生まれの者が現在の教科書を元にした歴史のテストを受けると、
軒並み赤点以下です、腹立しい事極まりないです。
新しい資料が発見されて、名称が変わるのは居たしか無いですが、
学者の都合に因るのは勘弁願いたいですね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

丁寧且つ詳細なご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2022/01/15 04:05

為政者や首都が変更になったからと言って、それまでの文化が急に変わるわけではないから。

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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2022/01/12 17:58

昔の人は、現代人の都合の良いようには活動していないのです。

その時代の人の都合で活動しているだけであって、現代人の都合など知ったことではないのです。なんとか時代だのなんとか文化だのは現代の歴史学者が勝手に命名しただけであって昔の人が命名した訳ではない。混在するようになったのでなく歴史学者がそう命名しただけです。鎌倉幕府-室町幕府-江戸幕府を中心に見れば鎌倉時代・室町時代・江戸時代ともなる。しかし朝廷が2つ存在したという日本史上特異な時代を埋もれさせて良いものでしょうか。そういう訳で南北朝時代も教科書で教えている訳です。このように歴史学者が子どもたちに、こう教えたほうがよかろうと考えて命名しているのです。
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>①室町時代だけ、何故南北朝時代(1336〜1392)、戦国時代(1467〜1568)の2つの時代が混在するようになったのでしょうか



どんな時代にだって、都には都の、地方にはそれぞれの地方独自の「時代」がありましたよ。
時の権力者だけではなく、その時代に生きた一人一人の人生や生活や歴史がありました。
その中で、教科書には「代表的なごく一部」が載っているだけです。

>②何故、下記の時代だけは、2つの文化を持つように至ったのでしょうか(他の時代は、1つの文化のみです)

いつの時代にも、多種多様な文化がありましたよ。都には都の、田舎には田舎の、祭や歌や踊りや風習がありましたよ。
北海道にはアイヌ文化が、延々と続いていたし。
これまた、教科書にはその中の「代表的なごく一部」が載っているだけです。
たまたまその時代に「代表的なものが複数載っている」というだけです。

教科書が「歴史のすべて」などと考えてはいけませんよ。
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この回答へのお礼

丁寧且つ詳細なご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2022/01/12 16:35

室町時代は室町時代です。

その後、戦国時代があります。
文化が二つあるのはその文化が栄えた証拠です。今ならIT時代、インターネット時代と出来ます。



社会科の歴史科目が大きく変わります。

従来は「日本史A」「世界史A」と「日本史B」「世界史B」の合計4教科構成でしたが、日本史Aと世界史Aが統合される形で「歴史総合」が誕生、必修科目になります。

また日本史Bは「日本史探究」、世界史Bは「世界史探究」と名称が変わり、生徒がより主体的に学ぶことを目指しています。

30年以上にわたりA・B体制が続いていた
このように一大転機を迎えようとしている高校の歴史科目ですが、現行のAとBは大まかに以下のような違いがあります。

 ・Aは2単位でBは4単位
 ・大学受験を考えている場合はBの履修が不可欠
 ・Aに比べてBの方が学ぶ量が多い
単位の違いもさることながら、学びの量も異なります。そのため、日本史Aや世界史Aのみで受験可能な大学はないに等しい状況で、問題集でも「B」を前提としたものばかりが書店に並んでいます。

ちなみに、社会科の歴史教科でAとBという名称は1960(昭和35)年に改訂された「高等学校学習指導要領」の世界史A、世界史Bが初。現在のような歴史科目が4つある構成の形となったのは1989(平成元)年からです。

また、その時から「世界史A」「世界史B」から1科目、「地理A」「地理B」「日本史A」「日本史B」から1科目が必修となり、世界史は必ず学ぶことになっていました。

しかし、来年度から始まる学習指導要領では「歴史総合」が必修科目となることに伴い、世界史単独の必修には終止符が打たれることになります。


来年から日本史と世界史がまとまって社会科全体としては、1年次から2年次にかけて歴史総合および同じく必修となった地理総合を履修し、その後「地理探究」「日本史探究」「世界史探究」から1科目選択します。

単位数も、これまでのAが2単位、Bが4単位という形から、「歴史総合」「地理総合」がそれぞれ2単位、「地理探究」「日本史探究」「世界史探究」は各3単位に変更。高校3年間での社会科の単位は合計7単位になります。

必修とされる歴史総合は日本史と世界史が融合した形になり、日本と世界の歴史の流れを分けることなく俯瞰して学びます。また、近現代史に特化しており、江戸末期の開国から現在に至るまでの日本と世界との関りや国際情勢の移り変わりを学習していくことになります。

さらに、今までの板書スタイルの授業から転換し、資料活用や生徒への問いを介して主体的に歴史を学ぶことを目指すとされています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2022/01/12 15:52

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