江戸時代の中央官庁街というのが、江戸城だったかと思いますが、
マニアックなところで、大老とか老中とか、すごくえらい人が働いていた(会議などをした)部屋は、
どこなんでしょう?

たとえば、ペリーが開国を求めて来日したとき、「開国するしない」を
協議した場所は、どこなんでしょう?

「松の廊下」は有名ですが、ほかは、大広間くらいしか知らない私に、
どうか、お助けください。

A 回答 (1件)

会議を開いた場所は覚えていませんが、下のサイトに江戸城のことが


色々出ています。参考になれば幸いです。

参考URL:http://www.basara.to/
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この回答へのお礼

参考URL、ほんとおもしろいサイトですねぇ。
あとで、ゆっくり見て回ってきます。

どうも、ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/02 06:32

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Q江戸城の秘密

家康は江戸城を作った時に、江戸城を作った労働者、技術者を江戸城の秘密が漏れるということで、全員殺したそうですが、本当にそうなのですか?また、そうであれば、そのようにして守った江戸城の秘密とは何だったのでしょうか。

Aベストアンサー

江戸城に限らず城の一番重要な部分を作るのは武士の仕事で、江戸城は初期は家康の譜代の家臣が、征夷大将軍になってからは主として外様大名にお手伝いで築城させています。
天下人になったあとの外様大名ならともかく、天下人になる前に譜代の家臣を殺してしまえば自分の首をしめるだけですからそんなバカなことはしていませんし、他の大名でもそんなことをするものはいません。

Q「必殺」シリーズの悪役と言えば、老中・江戸町奉行・江戸町奉行所与力と内

「必殺」シリーズの悪役と言えば、老中・江戸町奉行・江戸町奉行所与力と内与力と同心・勘定奉行・代官・大奥女中・火付盗賊改・乱行大名・悪徳商人などが定番ですが、長崎奉行・京都所司代・京都町奉行・京都六角牢屋敷の雑色・禁裏附・大坂城代・駿府城代・大坂町奉行・日光例幣使・御数寄屋坊主・大目付・御目付・高家(今川氏・織田氏・六角氏など)・参勤交代した旗本=交代寄合(本堂氏・生駒氏・山名氏など)・関東取締出役・御三家・御三卿・五摂家・勅使・武家伝奏・議奏・御三家付家老五家・対馬藩倭館館守・薩摩藩琉球在番奉行・松前藩主・大藩の万石級の大名家臣(徳島藩の稲田氏・薩摩藩の種子島氏・仙台藩の片倉氏・加賀藩の長氏・奥村氏・佐賀藩の諌早氏・高知藩の伊賀氏・広島藩の上田氏・彦根藩の木俣氏など)・寺社奉行・勘定吟味役・甲府勤番支配・山田奉行・飛騨郡代・西国郡代(九州日田)・美濃郡代・奈良奉行・佐渡奉行・御鉄砲百人組頭・大番頭・書院番頭・小姓組番頭・中川番・天文方・阿蘭陀商館長・商館員・清国人商人(唐人)・門跡寺院坊官・公家(土御門氏・日野氏・綾小路氏など)・公家侍・寺侍・大身旗本(横田氏・本多氏・安藤氏など)など、他にも悪役で登場すると面白そうな素材がたくさんあると思うのですが、何故同じ様な悪者ばかり出るのでしょうか?ご回答よろしくお願い致します。

「必殺」シリーズの悪役と言えば、老中・江戸町奉行・江戸町奉行所与力と内与力と同心・勘定奉行・代官・大奥女中・火付盗賊改・乱行大名・悪徳商人などが定番ですが、長崎奉行・京都所司代・京都町奉行・京都六角牢屋敷の雑色・禁裏附・大坂城代・駿府城代・大坂町奉行・日光例幣使・御数寄屋坊主・大目付・御目付・高家(今川氏・織田氏・六角氏など)・参勤交代した旗本=交代寄合(本堂氏・生駒氏・山名氏など)・関東取締出役・御三家・御三卿・五摂家・勅使・武家伝奏・議奏・御三家付家老五家・対馬藩倭館...続きを読む

Aベストアンサー

>何故同じ様な悪者ばかり出るのでしょうか?

単純な理由ですね。
必殺シリーズは、TBS放送から始まりテレビ朝日で終了しました。
つまり、ローカル番組でなく全国放送番組なんです。
ですから、視聴者の誰もが理解できる江戸時代の役所といえば限られるのです。

もし、関西ローカルキー局(朝日・毎日・よみうり・関西・大阪)が関西地方向けに必殺を手がけていれば、京都所司代・大阪城代・京都奉行所・大坂奉行所などが主流になったでしようね。

Q江戸城と大阪城

大阪城は大阪の陣で実戦に使われましたが、江戸城はそうでありません。純軍事的に見た場合、江戸城と大阪城(秀吉が作成したもの)はどちらが優れているのですか?
また幕末で江戸城が無血開城されず戦争に用いられたら、落城したのでしょうか?

Aベストアンサー

まず、その攻防戦がいつの時代を想定しているかによります。
ご存知かもしれませんが、江戸城は天守閣がいわゆる振袖火事で焼失しており、その後再建されていません。たかが天守閣ひとつで勝敗が分かれるものでもないですが、違いはあるでしょう。

大阪城は一向門徒の本山兼基地として、信長と十年戦争をしながら遂に直接落城することはなく、さらにそれを基にして小田原城も参考にしつつ築城の天才秀吉が心血を注いで作ったものです。戦国時代の戦争なら、かなり優れていたと思います。
一方江戸城は元々が前線基地的な平城で、政治首都としての機能を優先させた街づくりとなっています。小田原城などの城塞都市は市街の周囲を掘などで囲ったのですが、江戸城はそれをしていません。東京って想像より起伏があるので案外に登ったり降りたりなんですけど(皇居の北側と南側じゃかなり高低差があります)、そうはいっても平地に建てられた城だし、大阪城のように淀川みたいな川を利用したものでもありません。

しかしいくら大阪城といっても大砲が発達した幕末の頃ではもう時代遅れのものになっていました。その頃は五稜郭みたいな星形の城が最もなうだったのです。でも大阪にしろ江戸にしろそんなものを作れる土地はもうありませんでした。

戊辰戦争での江戸無血開城ですが、あれは勝海舟の功績ですよ。戦ったところで幕府軍が勝つ可能性がゼロだったからこそ海舟は開城に応じたのです。
そのため残った(新政府軍が江戸に迫っていたころは幕府軍は事実上敗残兵の集まりでした)幕軍の中で最も過激派で手が付けられなかった新撰組の連中を甲府に派兵してまんまと片づけるのに成功しています。
元々江戸城では防御力が少ないことは江戸幕府は分かっていて、そのため有事の際は将軍は甲州街道を通って周囲が山に囲まれている甲州(甲府)へ逃れることとなっていました。ゆえに、甲州街道に近い大久保には鉄砲衆が住み、甲州街道と南北(神奈川と川越などの埼玉)の要になる八王子(現代でもトラック走行が多い国道16号と甲州街道(国道20号)が交差しています)に旗本(親衛隊)を千人住ませています。

元新撰組なきあと、幕府軍に残っていた士気の高い部隊は彰義隊くらいでしたが、その彰義隊も大村益次郎の名作戦があったとはいえたった一日で片づけられてしまいました。勝海舟は自分の手元にある駒はその程度のものであると見抜いていたのではないかと思いますよ。

まず、その攻防戦がいつの時代を想定しているかによります。
ご存知かもしれませんが、江戸城は天守閣がいわゆる振袖火事で焼失しており、その後再建されていません。たかが天守閣ひとつで勝敗が分かれるものでもないですが、違いはあるでしょう。

大阪城は一向門徒の本山兼基地として、信長と十年戦争をしながら遂に直接落城することはなく、さらにそれを基にして小田原城も参考にしつつ築城の天才秀吉が心血を注いで作ったものです。戦国時代の戦争なら、かなり優れていたと思います。
一方江戸城は元々が前線...続きを読む

Qペリーの開国要求。

ペリーが開国要求をしたことで、幕府の体制がゆるがされたのは、攘夷派が反乱(?)のようなことをしたからなのでしょうか?

また、攘夷派が討幕派に変わったのは、野蛮人から日本を守るために開国を受け入れようとする幕府に反乱していた攘夷派がどうせなら倒してしまえという考えで討幕派に変わったのでしょうか?

ご回答頂けると嬉しいです。

Aベストアンサー

ペリーによる日本開国要求は平和で暮らしていた日本を力ずくで開国させた。これを「ペリーの日本強姦」という(産経新聞2006.12.49)。
幕府の弱腰から欧米勢力の脅威に対処するための日本強化運動として維新運動がスタートした。当初は幕府、天皇の二元体制論と幕府を中心とする一元論に分かれいた。
その後以下の諸要因によって、維新運動は尊王攘夷から勤皇・倒幕へと変って行く。

1.徳川260年の間に朱子学の影響で武士、大町人、庄屋階級の百姓に天皇尊崇熱が浸透していた(尊王思想)。
2.平田国学の王政復古による国家改造論が尊王思想の拡大に拍車をかけた。
3.幕末の志士を魅了した一君万民思想(天皇の下では、将軍・大名といえども民の一人という思想)が抑圧されていた階級に広がった。
4.孝明天皇は非常な攘夷論者であった。

幕末期において、維新運動エネルギーは勤皇・倒幕エネルギーへと変貌して行った。

Q江戸城

江戸城っていつまであって、なぜなくなったのですか?(あほな質問ですみません)。幕末「江戸城開城」まではあるわけですが...。

Aベストアンサー

 江戸城は今でもあります。天皇が住んでいる皇居がもとの江戸城です。
 では間単に。
 江戸城は東京都千代田区皇居。
 平安時代の末期から鎌倉時代にかけて江戸氏の居城があったのです。(江戸氏とは秩父の平氏の一族江戸氏のこと。麹町に最初の城をつくったようです。鎌倉時代の御家人です。徳川氏に仕えて喜多見氏と名を替え、大名にもなったがすぐに領地を返還するよう命じられている)徳川家康が江戸湾の埋め立てと平行して江戸城を広げ、3代将軍家光の時の完成。1868年4月開城。10月の天皇の住む都、京都に対する東の都という意味で東京とし、お城も東京城と改名、翌年に皇居となりました。
ところで、
 室町時代の中期扇ガ谷上杉氏の家臣太田道灌が江戸城を造って城下町が発達したのは有名ですよね。
 今年は江戸開府400年ですね。記念行事も行われています。http://edo400.net/home/? このホームページを開いてみると、東京の江戸の頃のようすや、幕府のしくみ、幕末の混乱期の様子もわかると思います。
江戸について、東京についていろいろ興味を持つと結構おもしろそうですよ。私も調べてみようと思っています。

参考URL:http://edo400.net/home/?

 江戸城は今でもあります。天皇が住んでいる皇居がもとの江戸城です。
 では間単に。
 江戸城は東京都千代田区皇居。
 平安時代の末期から鎌倉時代にかけて江戸氏の居城があったのです。(江戸氏とは秩父の平氏の一族江戸氏のこと。麹町に最初の城をつくったようです。鎌倉時代の御家人です。徳川氏に仕えて喜多見氏と名を替え、大名にもなったがすぐに領地を返還するよう命じられている)徳川家康が江戸湾の埋め立てと平行して江戸城を広げ、3代将軍家光の時の完成。1868年4月開城。10月の天皇の...続きを読む

Q江戸幕府はなぜ開国したか。

中学校の授業での宿題です。
江戸幕府はなぜ開国したか
について教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

中学での宿題ということを考慮して回答します。
まず、ペリー来航以前の状況をしらべてください。イギリス船が長崎にはいってきたり、ロシアが着ていたりします。
 また、漂流民の帰還ということで外国の事情がわかり始めてきたのでしょう。そこで時代の趨勢として鎖国は難しいという判断があったのは当然でいつかは開国になったとおもいます。
 ここらあたりは誰でも回答してくるのでちょっと違った側面から調べてみてはどうでしょうか?それは航海技術の進歩です。鎖国が行われた当時太平洋、大西洋を安全に一気に渡るのは不可能でした。しかし、ペリーはやすやすと太平洋を横断しており、それぞれの国も補給をしながらでも日本に直行しています。このように高度な航海技術が発達するとそれまで日本を守っていた海というのが、今度はどこから外国船が来るかわからない状況になってしまいます。(日露戦争のころでもバルチック艦隊の位置を知ることが日本海海戦の重要なポイントになりました)
 以前なら東南アジアを拠点として九州ぐらいまで着ていたのが一気に日本の海岸どこでも来航できる状況になったのです。

Q大政奉還後の江戸城について

大政奉還の後、江戸城は無血開城されて、東京大空襲で消失するまでのあいだ江戸城は現存していたようですが、現在現存している城のように内部を一般公開していたのでしょうか?

また、現在の江戸城跡には松の廊下跡や大奥跡を示す石碑が建てられているようですが、これらは“だいたいこの辺りにあったと推測される場所”に建てられているのでしょうか?

Aベストアンサー

 江戸城の本丸御殿は幕末期焼失することが多かったようで、1844(弘化元年)、1859(安政6年)、1863(文久3年)に罹災し、この最後の火災から再建されることはなかったようです。後5年で幕府は無くなってしまいましたしね。
 その時にも残った西丸御殿の方は今の皇居が江戸城の西にありますので、そのまま利用し、後に建て替えた、と考えるのが自然ではないでしょうか。こちらは調べても判りませんでしたが。
 また、戦前には天皇は神に近い存在として神聖化されていましたので(政治的な理由から)、それを一般公開するということは考え難いと思います。御苑etc.の解放もすべて戦後、それも大分経ってからのことです。

 参考URLにもありますように、江戸城に関しては実に多量の図面が残されています。その最大のものは甲良家という棟梁家に残されていたもので今は東京都中央図書館が所蔵しており重要文化財に指定されています。毎年11月初旬に一部公開されています。それ以外にもあるようですし、建物の位置はかなり明確に判っている、と考えて間違いはないと思います。
 他の城跡のように県庁や大学などが建ってしまったりして大きく改変を受ける、ということもなくきていますし。

参考URL:http://www.ipn.ne.jp/kiso/sub2-3.htm

 江戸城の本丸御殿は幕末期焼失することが多かったようで、1844(弘化元年)、1859(安政6年)、1863(文久3年)に罹災し、この最後の火災から再建されることはなかったようです。後5年で幕府は無くなってしまいましたしね。
 その時にも残った西丸御殿の方は今の皇居が江戸城の西にありますので、そのまま利用し、後に建て替えた、と考えるのが自然ではないでしょうか。こちらは調べても判りませんでしたが。
 また、戦前には天皇は神に近い存在として神聖化されていましたので(政治的な理...続きを読む

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q将軍不在の江戸城での政事、儀式

14代将軍・家茂は慶応元年5月16日、長州再征のため江戸城を出発しています。
この日以後、江戸城は3年近く将軍不在となったまま、明治となります。
そこで疑問に思うのですが、この期間の江戸城における政事、儀式はどうなったのでしょうか。
例えば、「御目見え」や月次登城、礼式日の登城など将軍が出席する行事が多数あったと思いますが…。
また、老中は、将軍のお供で上洛した人もいれば、江戸に残る人もいたのですか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

将軍のいるところが幕府です。

なので、史料に残っているもので言うと、八朔に関しては

維新史料綱要
【編/冊/頁】7巻 201頁
【和暦年月日】慶応3年8月1日(18670080010)
【綱文内容】征夷大将軍徳川慶喜、八朔祝儀のため、高家京極高福「丹後守・侍従」を以て太刀及び馬を献ず。

とのこと。形式的には儀式は行われている。

Q老中就任

大名が老中に成りたがるのにはどういう理由があったと考えられるのでしょうか?

水野忠邦の様に表高は同じでも遥かに条件の悪い所領に国替えをしてまで猟官運動を行った大名もいますが、5万石前後の一介の大名が老中として幕政を動かすといった権力欲以外では、どんな理由はどんな事が考えられますか?

Aベストアンサー

老中は無役の者がある日突然就任するものではなく、大抵は大阪城代、京都所司代、側用人などの職にあった者が昇任するものなので、いわゆる出世階段の「上がり」として見られていたのではないでしょうか。「老中になりたい」というよりも「幕閣内で出世したい」という欲求の最終目標が「老中」だったわけです。
老中になると官位・官職が従四位下・侍従に昇任し朝見をゆるされる事が慣例で決まっていました。これは殿上人になる事を意味していて、武家の家格としては極めて高いものになるといっても良いものでした。
また幕府も他大名に老中と同じ名乗りを禁止するなど特別の礼遇を与えていたので、その権威は非常に高いものだったようです。


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