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三国志の「蜀漢の滅亡」についてです。
魏による蜀漢総攻撃で、鐘会と鄧艾に対し、事実上、姜維1人が相手する破目になり、
鄧艾がスキをついて成都を急襲して、蜀漢を滅亡させました。
ここで質問ですが、たしかに魏の国力は蜀漢の10倍以上といわれていますが、
鐘会と鄧艾による蜀漢総攻撃を阻止する方法論はなかったのでしょうか?
また、鄧艾が成都を攻めたとき、蜀漢の後主(劉禅)は
あまりに降伏をはやまったのではないでしょうか?
三国志に詳しい方、よろしくご教示願います。

A 回答 (3件)

孔明亡き後、蔣琬や費禕が居た時代はまだ国を保てていたが、彼らが死去・暗殺されると急速に国が傾いている。

姜維の派手な作戦で孔明以来の熟練兵たちを次々と失ってしまったことに加え、悪しき宦官の黄皓の台頭で朝廷が腐ってしまった。

姜維は、結局のところ、拙い作戦で負けた戦いではもちろん、勝った戦いでも多くの熟練兵を失っただけでなく、孔明と魏延が漢中に築いた鉄壁の防御網も穴だらけにしてしまった。
そして無能だった劉禅は、腐れ宦官の黄皓を重用して国事を最悪な状態にし、国を崩壊させてしまった。

要するに、蜀漢は勝手に自滅したわけで、魏に負けたわけではない。
劉禅も早く降伏したかったのだろう。実際のところ、譙周から幸福を勧められて肩の荷をようやく下せると安堵したのだと思う。
そもそも劉禅が最後まで戦う意志を持つような人物だったら、腐れ宦官を重用すして国を腐らせることも無かっただろう。
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魏・呉・蜀のバランスの取れた三国の鼎立時代に時間を戻すしかないんじゃないですか。



蜀としては、魏と呉が対立する緊張状態を作り出し、両国と敵対せず、両国の争いで不利になった側に少し手を貸して恩を売るのと同時に、どちらかが勝利するのを防ぐ。

劉備が関羽の敵を取ってやらぁぁぁぁって、呉に攻め込む辺りから、どんどん蜀の衰退が始まったんじゃないでしょうか。

もちろん、三国の鼎立では、漢王朝の再興というのは無理ですけどね
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孔明亡き後、蜀は終わってましたね。



姜維が魏の攻撃を察知し援軍を要請。劉禅は取巻きに惑わされ無視、初動の失敗はその後の勝敗を決した。

タラレバで言うなら初動で国を固めて居たら、呉と連携出来て居たら、劉禅が佞臣を退け諫臣を傍に置いたら、勝てないまでも負けなかったかも。
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