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近衛文麿について不思議な事があります。ご存知の方、教えて下さい。
近衛は藤原氏である事を誇りにしていたそうです。それは、どうでも良いし、ご自由になんですが、心の中では天皇家と張り合っていたと言うのです。

藤原氏は天皇家に次ぐほどの古い家系だと思っていたと言う話なんです。
そんなバカな。藤原なんか最初が中臣鎌足じゃないですか。その前は、常陸の国でしょ。東国の野蛮人なのに、何故そんな風に思えたのでしょう?近衛って、やっぱり頭おかしかったんでしょうか?
単に教養が無いとか知能指数が低いだけではない何かなんでしょうか?

たかが東国発の家が立派だと思えた理由は何なのでしょう?

A 回答 (8件)

>皇族に産まれたら男は「親王」ですよ。


それは近代以降の話。前近代では「親王宣下」を受けないと親王を名乗れずに「王」です。天皇の子でも親王になれるのは摂関家などの上級貴族や上級皇族を生母とする皇子だけで、藤原南家とか古代豪族系統の下級貴族を生母にもつ皇子は王か臣籍降下しています。平安中期には、どの系統でかすらわからない「王」が国の介や掾はたまた目などとして史料に出てきています。
将軍家と摂関家同格の話のどこが間違えているのか意味不明。
書けば書くほど無知を晒して恥の上塗りですよ。
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えーと、源氏平氏は元皇族とはいえ、親王になる見込みすらない皇族が臣籍に降下したものです。

あなたが指していると思われる清和源氏、桓武平氏は摂関家に仕えることで貴族社会の底辺にしがみつくことができた下級貴族です。摂関家とは格が違いすぎます。もう少し歴史を勉強しましょうよ。
将軍家が摂関家と同格になったのは足利義満から。
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この回答へのお礼

過去に一人だけですが、臣籍降下してから皇籍復帰して即位した天皇がいます。
「親王になる見込みすらない」と言っていますが、皇族に産まれたら男は「親王」ですよ。それから臣籍降下したら別ですが。
もう少し歴史勉強しましょうよ。

>将軍家が摂関家と同格になったのは足利義満から。
それが正しいのなら、No6ののっぺり氏が間違っているんです。
私じゃない。

お礼日時:2023/05/09 16:35

源氏や平氏より藤原摂関家の方が家も古いし家格も上ですよ。

前近代において、摂関家と同格だったのは将軍家だけで、皇太子より格上でしたから。
近衛は、無責任な世論と軍に阿り、「蒋介石を相手にせず」と自ら戦争終結の可能性を摘み取りました。
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この回答へのお礼

源平は、天皇家に発しています。
たかが藤原摂関家如きが、源平に勝とうと思う事が間違っています。
将軍と言ったところで、源も足利も徳川も源氏です。
しかも、徳川あたりの源氏は眉に唾つける必要のある源氏です。
それと同格なら藤原摂関家など屁みたいなものです。

お礼日時:2023/05/09 10:52

>心の中では天皇家と張り合っていた


初めて聞きますね。
近衛家は五摂家の筆頭で、公家のトップとして常に天皇を補佐し続けて生きた家です。文麿も歴代先祖のように何かあれば天皇の相談役として補佐したいという気持ちはあったでしょう。
近衛文麿は血筋の良さは折り紙付き、教養もあり、まさに戦前日本では超エリート。本来であるならば反知性主義的な軍の暴走を押しとどめるべき立場であったのに、国民の人気取りを気にしすぎ、軍部の尻馬に乗るという自殺行為を行ってしまった。その愚行に気が付いた時にはもはや手遅れ。
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この回答へのお礼

いや、それは無いでしょう。
藤原家が両家の中に入ると言うのは反対しませんが、どこまで言っても最初は中臣鎌足です。
源氏や平家の子孫が沢山いるのに、血縁は誇れません。

それに、世間的には賢く超エリートであっても、それは、知らない人達から見ればです。
コミンテルンにオルグされていたような人間が本当にエリートとは思えない。
軍部の尻馬にも乗っていない。

お礼日時:2023/05/08 21:05

禅譲が目当てなのでしょう。

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この回答へのお礼

何を禅譲するのですか?
天皇の地位ですか?

お礼日時:2023/05/06 19:26

中臣氏の祖神は天児屋命とされ、天照大御神の孫で神武天皇の曽祖父に当たる邇邇芸命とともに日本国の日向高千穂峰に降臨した天孫族三十二神の一人とされている。


しかも日本書紀の一書には邇邇芸命の次に名が挙げられている存在だ。

ゆえに、近衛文麿が心の中では天皇家と張り合っていたとしても不思議はない。
藤原不比等の登場以来、平安時代の摂関体制確立後は常に天皇の側にあって朝廷を支え続けた一族ですしね。

とはいえ、記紀に関しては藤原不比等が中臣氏の祖神をかなり格上げして改竄したという疑惑が付きまとっていますけどね。
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この回答へのお礼

成る程、ある程度納得です。
でも近衛って、コミンテルンにオルグされていたかの様に愚かですよね。
今の我々からみると、近衛って凡庸を越えて愚かなんですね。
不思議で仕方ありません。

お礼日時:2023/05/06 05:07

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」


藤原道長が詠んだ、この和歌を御存知ない様ですね。
確かに古さからいえば、万葉集を編纂した大伴家に比べれば新興の公家
です。
娘の彰子を中宮にする為に、紫式部、和泉式部、赤染衛門などの文筆家?
を家庭教師に向かい入れて、道長の姉の詮子が生んだ、一条天皇に彰子を
中宮にして男子(天皇)を二人を生みました。
彰子の妹二人も彰子が生んだ天皇の中宮としました、近親結婚など、
何のそのです、その果てに詠んだ和歌が上記なのです。

近衛家と冷泉家は道長の末裔なのです。
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この回答へのお礼

残念ながら、そんな和歌など小学生の時には知っていました。
で、それが近衛に関する私の質問にどう関係があるのですか?

それ道長でしょ。
近衛が道長の末裔でも、それが誇りの元なのですか?
藤原家は道長で始まったんじゃないでしょ。

お礼日時:2023/05/06 05:05

近衛文麿が藤原氏を誇りにしていた背景には、藤原氏が日本の歴史において重要な役割を果たしてきたことがあります。

藤原氏は平安時代の貴族階級で、天皇家に仕えて政治的にも文化的にも発展させた功績があります。また、藤原氏は皇室との縁戚関係を築き、摂関政治を展開するなど、天皇家と密接な関係を持っていました。

一方で、東国の豪族である常陸氏や下野氏は、藤原氏と比べると地位や権威が劣っていたため、藤原氏の影響力を強く受け、藤原氏に帰属することで地位を向上させようとしたと考えられます。

近衛文麿が藤原氏に対して天皇家と張り合ったという話は、単なる噂や都市伝説のようなもので、根拠はありません。近衛文麿は歴史的な事実に基づく知識や教養を持ち、多彩な才能を持った人物であったとされています。
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この回答へのお礼

>藤原氏は平安時代の貴族階級で、天皇家に仕えて政治的にも文化的にも発展させた功績があります。また、藤原氏は皇室との縁戚関係を築き、摂関政治を展開するなど、天皇家と密接な関係を持っていました。

つまり、天皇家のお蔭で藤原が良くなった、ですよね。

>近衛文麿が藤原氏に対して天皇家と張り合ったという話は、根拠はありません。

そうなんですか、知りませんでした。ただ、それを言う人があまりに多いので知りたくなりました。
ただ、近衛が、コミンテルンにオルグされていたと言う説もありますね。
証拠はありませんが、そうだとすると理解出来る事があります。
良ければこれについても教えて下さい。

お礼日時:2023/05/05 19:52

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