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江戸から明治にかけて、ヘボンやハーン、モースなど多くの外国人が日本に来ていましたが、通貨の為替相場など今のようなシステムはなかったと思います。
上記の彼らは長期で日本に滞在し、最終的には日本で仕事をして給料をもらっていますが、来たばかりの頃は、また彼ら以外にもおそらくいたであろう短期滞在者は、自国の通貨を日本のお金に換えることができていたのでしょうか?どのようなシステムがあったのかご存知の方いますか?

A 回答 (5件)

日米修好通商条約で交換レートが設定されました。


米国側は「1ドル銀貨」(メキシコドル)を、日本側は「天保一分銀」を基準とし、重さが同じなら等価としました。
1ドル銀貨の重さは26.7g、天保一分銀は8.6gなので、ほぼ1ドル銀貨1枚と天保一分銀3枚が等価になります。つまり ほぼ1ドル=三分 です。(実際の交換では端数の部分まで細かく計算をしたようです)
これが日米修好通商条約が発効した安政6年(1859)6月当時の交換レートです。当時は横浜税関でのみ両替されました。

ところが、金と銀の交換率の違いから金が流出するという問題が発生。
米国では10ドル金貨の金の含有量が15gなので 1ドル=金1.5g です。
日本では 一分銀3枚は金三分であり小判に両替すると 3/4両 になります。
当時の小判は天保小判で、金の含有量は6.4gですから、3/4両では4.8gですね。つまり日本で2度両替することで 1ドル=金4.8g となり、米国での交換の3倍の量になるのです。日米修好通商条約では貨幣の輸出も認めていました。持ち出した後で潰して金を取り出すのです。
下田のハリスなどこの方法でずい分小遣いを増やしたとか。

日本側も対策として、万延元年(1860)2月に小判の分増し通用を始めています。小判の額面は一両ですが天保小判の額面を三両一分二朱にしました。これで米国での両替とほぼ同じになり金の流出は止まります。だが小判を持っていた人たちは一夜のうちに3倍の金持ちになったわけで経済が大混乱したことは想像に難くないでしょう。その混乱が攘夷論を激化させたと思います。
また幕府は万延小判を発行しています。非常に小型の小判で、金の含有量は1.9gほどしかありません。これなら誰も日本の小判を持ち出さないでしょう。

明治以降のことは不勉強でよく知りませんが、しばらくはこれに近い状態だったと思います。以上、御参考になれば
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私の持ってた漫画日本の歴史での描写では、日本人の小判と銀貨数枚を引き換えていました。

「騙されるな、外国人と取引するようになってから貧乏になった」と嘆いている商人も書かれていました。
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>通貨の為替相場など今のようなシステムはなかったと思います。


商人は取引に損する事はしません、通貨が無い時代は物々交換で、
品物の価値観を決めて取引します、その後は金と銀が支払いに使いました
通貨が出来てからは、交換ルートの取り決めを行ってから取引をします。

幕末は金と銀の価値が欧州と東アジアで違っていたので、日本から
大量の小判が流出しました。
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日本で原初的な為替制度が出来たのは平安時代。


江戸時代には大規模かつ全国的な両替商が出現し、世界で最も為替が発達した国となっている。金と銀に銭の交換レートも当然とっくに確立していた。

ただ、江戸期については、鎖国時代で海外での商取引はなかったので、金と銀と銭の交換レートは日本国内専用だった。

当時の国際通貨としては銀が最も利用されていたが、鎖国していた日本では金が豊富であったことから国内通貨としても金貨が主流だった。

江戸時代に関しては外国人は銀を持ってきて、日本の交換レートに従って、両替商で金貨や銭、又は手形と交換していた。維新前後からは金と銀の交換レートも国際基準に合わせている。
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金貨、銀貨の交換は、早めにルールができました。

交換比率が不公平だったため、水夫たちが小遣い稼ぎのため積極的に交換して小判を持ち帰ってました。
ペリーまでは、上陸許可がなかなか出ず、商取引も禁止。
ということで、食料その他は、日本側が無料進呈。上陸許可が出てからも費用はすべて日本側持ち。その後、お互いにプレゼントしあう物々交換から、通商条約を経て、ほぼ普通の商取引へ移行。
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