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東寺と高野山の対立は、高野山二世のしんぜんだいとくが、東寺から空海の書物を借りて返さなかったところにあるということですが、これは結果、どう解決したのですか??

A 回答 (3件)

無空の時代には解決しませんでした。



事の経過は三十帖冊子事件といわれています。
結果的には無空の死後、東寺側が宇田法皇に直訴、宇田法皇からの叱責により高野山側が返却しました。

以下wikiから引用します。

-----以下引用---
三十帖冊子とは、空海が唐から請来した経籍で、朝廷に進上した分とは別に手元においておくため自ら書写した冊子本。長く東寺に所蔵されていたが、貞観18年(876年)6月、高野山の真然が東寺長者の真雅から借り受けて持ち帰り、その後、東寺側の度重なる返還要請を拒否しつつ、真然から弟子で初代金剛峰寺座主の寿長、第2代座主の無空へと伝えられた。寛平6年(894年)に金剛峰寺座主となった無空は、三十帖冊子を守るため、高野山と山城国を往還する際も常に携行していたという。

延喜16年(916年)6月26日に無空は山城国の円提寺で死去。東寺長者観賢は、なおも言を左右にして冊子を返還しない無空の弟子僧らに業を煮やし、宇多法皇に事の次第を奏上。法皇の譴責を受けた無空の弟子らは、ついに冊子を東寺に返還した。延喜18年(918年)3月、冊子は観賢によって天覧に供され、翌19年(919年)11月、冊子を永く東寺経蔵に安置し東寺一長者に守護させるよう勅命が下された。こうして三十帖冊子事件は解決したが、権威を失った高野山の荒廃を招いたと伝えられる。

無空(wiki)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%A9%BA
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この回答へのお礼

説明なるほどと感嘆しました。ありがとうございます。

お礼日時:2023/12/11 11:41

いまは修理されて公開されているのです。

持ち主は仁和寺です。
https://www.tnm.jp/modules/rblog/1/2018/01/19/%E …

https://wanderkokuho.com/201-00584/
冊子箱は延喜19年(919年)に醍醐天皇が《三十帖冊子》の散逸を憂いて「筥一合」を東寺に下賜し、その後文治2年(1186年)に仁和寺に移った

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/197 … P10/23~をみてください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。こういうのもあるのですね。勉強になりました。

お礼日時:2023/12/11 11:52

東寺側の所有という決着に高野山座主(無空)が離山して解決しました

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この回答へのお礼

勉強しました

お礼日時:2023/12/11 11:39

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