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松尾芭蕉や夏目漱石、志賀直哉など、旅をしながら、作品を残した歌人や文芸人はいると思いますが、彼らは旅費はどうしたのでしょうか。
現代のように、全国のATMで預金に支払いを受けたり、クレジットカードで支払い済ませたりできないだろうし、さらに大金を持ち歩いてたという話は聞かないです。


さらに、世界を船旅したコロンブスや、アメリコベスグッチ、バスコダガマや、宣教師のザビエルなども、どうやって旅したのかなと不思議に思います。


参考にしたいので、教えてください。

よろしくお願いいたします。

ありがとうございます。

A 回答 (4件)

> さらに大金を持ち歩いてたという話は聞かないです。



わざわざ書き残したり、伝えておくようなことではなかったのでしょう。
為替というものも利用はしたでしょうが、基本的には、現金を持ち歩いていて、支払をしているのでしょう。
もちろん 旅行先が知り合いであれば歓待され支払をせずにも済んだこともあったでしょうが、たいていの途上で、渡船の料金、中食茶店の料金、宿代まで払わずに済むということはないですから。

実話ではないものの、東海道中膝栗毛でも、財産をすっかり処分してカネに替えて出立します。
庶民も、伊勢参り、札所巡り・巡礼、そのような旅もします。 現金決済がキノンでしょう。 庶民の日常生活とは大きく異なる多額の現金を携行しないと出立もできないので、講などで集めたカネをもって出たのでしょう。 もちろん、充分なカネを用意できない人も大勢いて、遍路先で接待を受けてようやく遍路巡礼を続けた人々もおおいのでしょうが、接待した側にとって個別にには費用持ちだしの饗応になってしまうことが多々あっても全体としてはそこそこ収支は保てられた、遍路巡礼に回る側もトータルの出費を賄うカネは持って出たということでしょう。

松尾芭蕉や夏目漱石、志賀直哉などは、それなりの旅費相当の現金をもって出立したのでしょう。
元々金持ちだった志賀直哉は財産の一部を旅費にしたでしょうし、夏目漱石にしても生活費や旅費の捻出に困るとこなどないでしょう。松尾芭蕉は俳諧師として指導料・点取俳諧でかなりの収入があったでしょうから旅費に困りはしないでしょう。 


回国と称して全国を巡る僧・乞食坊主・六十六部などもたくさんいたのです。こうした人は、持参するカネはごく少なくて、先々で恵んでもらったり、念仏や祈祷して謝礼をもらったり、仏像を彫ったり、道路工事普請を手伝ったりしながらいくのです。木食や円空なども、多額の現金は持ってないでしょう。 旅回りの芸人、河原乞食と呼ばれる人も、次の興業旗揚げ予定地まで程度の現金があれば良いということだったでしょう。 基本的に流浪状態で生活するのと、一定の居住地・職業があって一時期旅をするのとは、事情が異なるでしょう。

結果として、無名の放浪詩人・俳諧・歌謡として一生を終えた人と、後世に名を知られ在世にあっても名を馳せた師匠格の人では、懐事情は大きく違うのでしょう。

とにかく、為替を故郷などとやりとりすることで旅費を賄うというのは、電信為替のようなシステムが確立し普及してなければできません。
不安があっても、盗難や強奪の危険があっても、カネを持ち歩くしか方法がないです。
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原稿料の前借り。


漱石のイギリス留学は、国から奨学金のような形で、かなりの補助。
芭蕉さん、名前が売れてますから、行く先々で句会などをして、一宿一飯+α。これ、テレビの地方ロケでもつかえる手で、仮面ライダーの地方ロケの時、撮影後に現地で仮面ライダーショーをやって、そのあがりを帰りの旅費にしたとか。
コロンブスあたりは、お金出してくれるよう国に交渉。この船で航海します。と、船の模型を見せて説明。この時の模型ブームが続いて、昭和のプラモデルに発展(笑)
宣教師は、商船にただ乗り。ただし、教会が航海の許可や、布教を大義名分にして船乗りの報酬を低く抑えるなど、ウィンウィンで。布教が軌道に乗れば、信者からの高価な貢物を本国に運び、そのお礼としてローマ方法の感謝状を届けるという一方通行に近い取引でぼろ儲けをあてにできる。ザビエルの日本到着後は、信者にした人たちの善意の寄付で。。
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コロンブスはスペイン王家の資金援助で複数の帆船の艦隊編成。


バスコダガマはポルトガル王の資金援助で複数の帆船の艦隊編成。
アメリコベスグッチはポルトガル王の資金援助で複数の帆船の艦隊編成
何れも、パトロンのスペインとポルトガルに莫大な富をもたらしました。

フランシスコ・ザビエルはポルトガル王の要請により、インドに行き
その後、日本に来ました。
カソリック教会の組織イエズス会の世界布教戦略の為です。

当時はオスマン・トルコが強大で、陸路で東洋に行く事は出来なかった
のです。
野菜不足で船員が壊血病で亡くなるので、野菜の確保が必須なので
補給の為に寄港する必要が有りました、寄港の際に現地人に襲撃
される恐れが有るので艦隊編成での航海でした。
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芭蕉さん


 江戸時代には各地に両替商がおりましたので為替(トラベラーズチケットのようなもの)を持参して必要に応じて換金します
 また、各地に門人や知人がおりますので滞在時の費用はそれらの方の奉仕ということもありましたのでいうほど高額な旅費負担はありません

夏目さん
 イギリスへの留学は国費留学生ですから贅沢な生活はできませんが、政府から定期的に資金を受け取ります
 実際に現金を運ぶわけではなく、こちらも銀行など金融機関へ送金依頼を行いその情報は電信にて送られて・・・・という流れですね

志賀さん
 申し訳ないですが、作家としては存じてますがどこをどういう旅をしたのかはよく分かりませんので割愛
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