初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

是により、日本は歴史的に損をしましたね?

何故なら、太平洋戦争が始まる前、日本は中国の蒋介石と戦っていました。そしてドイツもアメリカも蒋介石を支援しました。

その理由は、中国が、ドイツの事を「徳の有る国」と呼び、アメリカの事を「美しい国」と呼んでいたからです。

日本は、ドイツの事を「独」つまり「けものへん」に「虫」

「米国」は、「コメの国」、つまり「シラミの国」です。
これではドイツ人も、アメリカ人も、中国の方に好意を持つのは当たり前ですね?
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中独合作
軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから1930年代の終わりにかけて、両国の蜜月関係は最高潮に達した。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)がドイツを支配するとさらに関係が強化された。

ヴェルサイユ条約では、ドイツ軍は10万人に制限され、軍需産業は大幅に縮小されたため、ドイツの工業生産は大きく減少した。しかしドイツは軍事先進国として多くの製造会社が一流の軍用品生産技術を持っていたため、「外国に売るため」という条約制限の抜け穴をついて合法的な理由で、海外に合弁会社を設立し、そこで兵器を生産し、ソ連やアルゼンチンなどに売却した。

このような海外移転案を出したのが、ワイマール共和国国軍(Reichswehr)兵務局長に就任していたハンス・フォン・ゼークトである。ソ連とは1922年にラパッロ条約を締結し、翌1923年には秘密軍事協定を結び、ドイツはソ連の重工業や軍事教育を支援し、ソ連は武器製造などを分担する。なお、ドイツ軍はほかにも、歩兵監リッター・フォン・ミッテルベルガー中将がトルコで軍事指導を、ハンス・クントがボリビア軍を指導し、パラグアイとのチャコ戦争において指揮をとるなどしていた。

袁世凱の死後、中国を支配していた北京政府は崩壊し、政権を狙う軍閥同士で内戦が始まった。そのため、ドイツの兵器メーカーは、中国に武器と軍事支援を提供する商権の拡大を画策した。

広州の国民党政府もドイツの支援を求め、ドイツで教育を受けた朱家驊が1926年から1944年までのドイツとの交渉をほとんど一手に引き受けた。中国が外交相手にドイツを望んだのは、ドイツが技術力を持っていたという以外にもいくつかの理由があった。

イギリスなどの国々は未だ帝国主義的であり、中国国内の反帝国主義運動の主対象となっていたが、これに対してドイツは第一次世界大戦で世界各地の植民地を失い最早帝国主義的政策の推進を諦めていたため、中国人に対する受けがよかった。また、ソ連のように政治に介入し、共産主義者の勢力の伸張を図ろうとしなかったことも理由に挙げられる。

また、国民党の蔣介石は、ドイツが近年になって国内統一を果たしたことが、中国再統一の上で大いに参考になると考えていた。このようなことから、中国はドイツが中国の国際的地位の向上を遂げる上で重要な役割を果たすと見なしていた。

1933年にナチスが政権を取ると、ドイツの対中政策はより具体性を増した。ワイマール政府は中国を含む極東に表立って干渉しないことを原則としていた。しかし、ドイツ国防軍、産業界・商社は、政府の政策が中国貿易の利益を損なうことがないよう希望していた。その後ナチス・ドイツは、挙国一致での戦争経済推進を政策に掲げ、軍需資源の確保、特に中国で産出されるタングステンとアンチモンを重視したため、これ以降、ドイツの対中国政策が促進された。

1933年5月、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェル中将の招きで上海に赴き、経済・軍事に関して蔣介石の上級顧問となった。ゼークトは早くも翌6月、経済・軍事推進計画の概説を蔣介石に提出した。

ゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蔣介石に進言し、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵愾心を養うことだ」とも提案した。これをうけて蔣介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになる。

ファルケンハウゼンの対日戦術
1935年1月、ファルケンハウゼンは、中国国防基本方針と題する対日戦略案を蔣介石に提出する。そのなかで、日本が攻撃してきたとしても、日本はソ連対策をとらざるをえず、また中国に利害をもつ英米とも対立すること、そして日本はそのような全面的な国際戦争には耐えられないこと、従って、中国は長期戦に持ち込み、できるだけ多くの外国を介入させることをファルケンハウゼンは提案した。

ファルケンハウゼンは蔣介石に対し、消耗戦に持ち込んで日本軍を疲弊させることを提案した。それは、黄河の防衛線を守ること、ただし当面の間は黄河北部を攻撃しないこと、そのために山東省を含む中国北部を放棄すること、撤退を急がないことなどから成っていた。さらに、鉱業地帯、海岸、河川に陣地を構築し、ゲリラ作戦を取ることを勧めた。そうすれば、日本が徐々に消耗していくだろうと説明した。ゲリラ戦は、第二次国共合作で提携した共産党の得意技であった。

ファルケンハウゼンは、中国の国民革命軍が日本軍に抵抗できるだけの装備を確保するのは当面は難しいだろうと予想していた。中国の産業は近代化を始めたばかりであり、ドイツ国防軍並の装備をするには時間がかかると考えていた。そのためファルケンハウゼンは、浸透戦術を取り、小型兵器を装備した機動部隊の設立が必要だと論じた。

ドイツの軍事援助は、人材育成と組織整備だけでなく、軍需物資提供に及んでいた。ゼークトの分析によると、中国式兵器の8割は近代戦で使えない代物だった。中独合作の一環として、揚子江沿いにある既存の兵器廠を発展させていく方針が盛り込まれていた。例えば、漢陽兵工廠(en) は、1935年から1936年にかけて最新設備に作りかえられた。この工廠で、二四式機関銃、8cm迫撃砲の他、マウザー製Kar98k小銃をモデルとして、蔣介石の名前を取った中正式歩兵銃が作られた。

これらの近代化は直後の日中戦争で効果を発揮し、殊にドイツの支援で上海一帯に構築された陣地の攻略などで日本軍は予想以上の犠牲を払うこととなった。国民政府は多くの主要都市の占領を許したものの、国民革命軍自体の士気の維持を保つことには成功した。一方で、日本軍は国民政府が遷都した重慶を無差別爆撃はしたものの、地上部隊による攻撃は終戦に至るまで出来なかった。

質問者からの補足コメント

  • 中独合作

    「中国語では、徳国、美国です」の補足画像1
      補足日時:2024/09/30 13:32
  • 「徳国」「美国」は、日本語のパクリではないです。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/09/30 13:47

A 回答 (4件)

昔、とある政治家がアメリカからの来賓を迎える場で、


日本は米の国(米を日常的に食べるの意味)、アメリカも米の国
(アメリカは米国)、お互い米の国同士仲良くやりましょう、ははは。
と言ったのだけど、困ったのは通訳さん。
で、ちゃんとそれを訳したけれど、漢字を知らないアメリカ人に
通じるわけがない。ただ、通訳さんは一人だけ笑っている場に
するわけにはいかないので最後に、
He said a funny joke. Please laugh.
と言ったところ、アメリカ人がそれを察して笑ってくれたとさ。

そんなわけで、来賓として来るくらいに日本のことと関係が
ある人ですら漢字を知らない。
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その後(1936~)のドイツは、日本と同盟関係。



あるいは、その理屈だと、英国や仏国とは、特に問題はなさそう。
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アメリカを美しい国と表現したのではなくて、中国語では漢字の美はmeiと発音するのです。

(eは第一声です)
America の発音のmeのところにアクセントがあるので、そこから取っただけです。
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中華人民共和国の人民と共和国、また共産党全て日本語のパクリ中国語ですよね。

他にも和製漢語はたくさんありますよね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

「徳国」「美国」は、日本語のパクリではないです。

お礼日時:2024/09/30 13:46

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