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麒麟がくるを観てるんですが、天皇、足利将軍、信長らの武士という構図だと、天皇から見たら有力武士というのはどんな存在なんですか?自分に利を与える営業マンみたいな存在でしょうか?

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A 回答 (8件)

神武天皇の即位を紀元前660年と考えるのは、辛酉革命思想というのがあって、元々中国ではこの年に革命が起こりやすいから気をつけろって感じだったのが、日本では革命が起こるならばこの年!的な思想になったものです。

で、換算して紀元前660年が辛酉の年なので、日本書紀(の神武天皇の即位)はこれに合わせて年数を引き延ばされていると考えられています。
ちなみに日本書紀は干支ではなく太歳で書かれているので、何回かに1度は59年周期になるはずなので、紀元前660年というのは計算間違いしているはずですw

年代が分かるのは、神功天皇(神功皇后)の三韓征伐が韓国の広開土王碑などによって裏付けされるわけですが、この辺りは丁度2倍の年数に引き延ばされていたりします。そのせいで昔は年に2歳分年齢を数えていたなどという説が出てきてたりするのですが、もっと昔はもっと引き延ばされているので、2倍年齢の根拠としては弱いです。

なんだかんだ言ったもの勝ちで、昔の人は凄かったんだみたいな感じがあります。こういう事って意外にみんなコロっと騙されたりするので、大昔のブッダやイエスが言ったことが絶対的に正しいだなんて、そんなことは全くないのですが、多くの人は騙され続けていたりしますw
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天皇から観た将軍・有力大名クラスの武士は、朝廷の役人です。


そもそも、武士の別称を「侍(さむらい)」と呼びますが、そもそも「寺」は仏教寺院のことではなく、「役所」のことでした。
「役所に勤務する役人」を「寺」に「人偏」を付けて「侍(さむらい)」と呼んでいたのですが、平安末期以降になると源平の武士たちが下級から中級の役人の大半を占めるようになり、鎌倉時代半ばには役所の官吏は」武士だらけになってしまいました。
だから武士の別称が「侍(さむらい)」になったわけです。
天皇から観ても、武士=侍の構図は同じことだったでしょう。
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>天皇から見たら有力武士というのはどんな存在なんですか?



一言でいえば「ヤバい存在」です。
鎌倉幕府ができたことで平安時代が終わりました。つまり「天皇を頂点とする朝廷による日本支配が終わった」ということです。

しかし、この時期の朝廷や天皇(上皇を含む)はまだ「朝廷の権威・権力」を信じていて、だから後鳥羽上皇は源頼朝に政権を預けずに「頼朝よりは操縦しやすそう」と思った木曾義仲(源義仲)を征夷大将軍に任命します。

天皇や朝廷は《頼朝よりも基盤が弱く、鎌倉のような政治的・軍事的中心地(要塞)を持たない義仲なら、京都の近くに幕府を開かせ、操縦できる》と考えたわけです。

しかしその目論見は失敗し、頼朝追放令まで出したのに、結局頼朝を征夷大将軍に任命して鎌倉幕府を開闢することを許すことになります。
ここには非常に大きな権力闘争がありました。

次の室町幕府が「室町」つまり京都御所のすぐ近くに開いたのは、天皇(朝廷)だけでなく幕府側も「朝廷側の武士軍勢(西国)と鎌倉幕府に近い武家勢力(東国)の権力闘争の調整が大変だったから」で、室町幕府が勘合貿易に力を入れたのは「武士たちにも頼らず、朝廷にも頼らない、第三の権力」が欲しかったからです。

つまり鎌倉幕府の滅亡と室町幕府の権力構造は「西国武士たちが朝廷側を支持していることにより《武家の政治を行いたい》と思っている東国武士たちとの政治的軍事的バランスをどうとるか?」だったわけで、天皇にはまだそれなりの権力がありました。

結局この「西国(朝廷側)VS東国(武家側)の政治闘争」が応仁の乱や戦国時代の原因になっていきます。

これを踏まえて初めて、なぜ「天下統一」が重要だったのか、が分かるはずです。つまり天下統一とは「日本国内全部の軍事勢力が従う武力的勝者が天皇から国の支配権をもらえる」ということなのです。

この事実があるからこそ「信長は天皇を廃止して、自分が頂点に立つつもりだったのではないか?」という疑問が成り立つのです。(最新研究では信長は天皇の地位は温存し、権威を利用するつもりだったと解釈しています)

これを天皇の側から見れば「武士はヤバい」です。一歩間違えれば「俺は殺される」からです。

ここでもう一つ重要なことは「天皇という権威・権力を温存すること」と「今の天皇と仲良くすること」は同じではない、と言う点です。

実際平家が支配していた平安末期の安徳天皇は平清盛の孫であり、数え3歳(実際には1歳半)で即位しています。つまりすべての政治権力は清盛の所にあったわけです。
 
戦国時代末期、信長が台頭してきて「ほぼ確実に信長が天下を取る」という情勢になったとき、天皇側は「めっちゃヤバい奴やん。どうないしょ、せや、とにかく信長に官職を与えて仲良くしとこ」となったのは間違いないわけです。
 
なにせ朝廷自身にはすでに軍事力がなく、頼りにしていた西国の武士たちはすでに信長の配下になっている時期だったからで、その結果、信長が朝廷の右大臣兼右近衛大将の官職を得ることになります。

しかし、信長は後にこれを辞任したことで、天皇や朝廷は「官職を辞するということは、朝廷を滅ぼすつもりか?」と任疑心暗鬼になったことでしょう。このような信長の行動によって、朝廷と信長は相当な対立状態だったとされています。

結局、信長は本能寺の変で時代の舞台から去ります。その結果、秀吉が頭一つ出て、結果的に関白に就任します。

秀吉が関白に就任した理由(将軍にならなかなった理由)は様々研究されていますが、ここで重要なのは「将軍よりも朝廷内部に入り込んだ官職」ということです。

これを朝廷の側からみれば「秀吉が関白さんになってほっとした。関白さんは朝廷の内部の人やから、朝廷や天皇を潰し事はせーへんやろ」となるからです。

最新の研究では、南蛮人が植民地化を進めていたので、先に明に出兵するために「日本国の施政権を代表できる地位に就きたかった」という説もあります。
 日本国を代表するためには、朝廷の権力者として条約などを結べる能力が必要だったわけで、実際、関白就任後の秀吉はスペイン国王やポルトガル国王に対して降伏勧告文書を送っていて「関白」だから日本国を代表することができたわけです。

で、秀吉が死去した後は家康が残りました。
家康の側から見れば「朝廷は自分達の生き残りのために武家を操る能力があるし、日本国における権威は非常に大きい」と見えました。なので家康が幕府を作ってすぐにやったのは諸大名に対して「幕府の許可を得ずに勝手に官位をもらうな」という命令です。

これを朝廷側からみれば「なんや家康がいちばんヤバい奴やん」となるわけです。

また家康は京都所司代を作って朝廷の動きを監視するようになります。鎌倉幕府の六波羅探題と同じです。

後に家康やその後の徳川将軍は「朝廷の権威を認めつつ、朝廷が独自の動きをしないように抑えつける」方針を取ります。

その結果が250年の江戸時代を作ったわけですが、西洋列強がまた日本にやってきて開国を迫る時代になると、朝廷側も「権威と権力を取り戻すチャーーンス」とばかりに「尊王攘夷」のプロパガンダを広め、結果的に平安時代以降久しぶりの「天皇親政政府」である明治維新に至るわけです。

日本の歴史、武家の歴史を天皇の側からみれば「武力を使わずに、いかに武家に対抗して朝廷や天皇の権威を守り続けるか」という政治闘争の歴史だった、といえます。
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自分を護ってくれる守護神ですが、誰を選任するかでヒヤヒヤします。


大河ドラマファンならば鎌倉殿の13人も観てみると良いです。
後鳥羽上皇の命を受けた錦の御旗軍が鎌倉幕府に敗れて島流になっています。
結局のところ権威よりも実力でしたから、自分を護ってくれる一番強い(かもしれない)軍閥ということです。
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大河ドラマの再放送ですか。


かなり脚本家や小説家・プロデューサーなどの
思惑で造っています。
だから、史実と物語のよりわけが必要。
なぜなら、似たようなテーマで、何回か
形を変えて物語の再編していませんか。
比べてみれば、毎回ストーリにずれが見える。
所詮、娯楽時代劇です。

明智光秀・織田信長・足利将軍、みな天皇の臣下
天皇は権威の象徴。
政治を武士に任せて象徴化したのです。
織田信長は右大臣ですが、あれは天皇が任命。
織田信長が天皇を飛び越えて取って代わろうとしたという説があり居ましたが、最近の研究では多くが誤りだったと分かってきた。
実は宮中再建・権威復活保護のため上京したことが分かってきた。
まあ、明智光秀の謀反は史実ですが、織田信長が能媛と本能寺で
一緒に死んだという話は嘘ですね。彼女は本能寺にはいなかった。

将軍も天皇の臣下。幕府指名で天皇が任命です。

武士で、源氏がいくら頑張っても天皇にとって代わることは出来ません。

その意味でかなり誤った歴史が伝えられて学者が誤解してきたと感じます。
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天皇は知らす存在であり、権威の象徴なのです、公家、武家、庶民は


全て臣民なのです。
武家の棟梁の征夷大将軍の官職は天皇が任命します。

織田信長は織田弾正信長と名乗って居ました、弾正は朝廷の官職で、
武家の不正を監視して正す役目です。
信長の父 信秀は弾正の役目として、御所の修理をしたり、室町幕府下
では途絶えていた伊勢神宮の式年遷宮の資金を提供して天皇家の大事
な行事を復活させました。
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只の領地を守るガードマン


その社長が武士の大将
京都の町には入ることも出来ない低い身分
が武士
平家と源氏
平家は自分の娘を公家の養女にして 入内させて側室にして子供を産ませて
その父親という事で入ることが出来た立場
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用心棒です。

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