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永遠の命は本当にあると思いますか?

キリスト教の教会に通っています。

僕たちは肉体は老いていきますが、死後 霊的な存在として 永遠に生きると教えられています。
僕の場合は天に迎えられるという 啓示を受けました。

これを信じるか信じないかということが まず あると思います。

信じて欲しいと思ってる人がいる。神様も信じてほしいと思っている。

このぐらいのことは 僕にも容易に想像がつきます。

幸せな暮らしの中で、幸せだなと思っていても気づかないうちに人間は体が衰えていきます。

老けていきます。

肉体は 有限の命です。

幸せあれば幸せであることを それが永遠に続いてほしいと願うのが人じゃないでしょうか。

ところが 肉体は有限。

それは悲しいことな気がします。

そこで教えられるのが 永遠の命です。

人は永遠に生きることができる。

こう 教えられるわけです。

これが真実であればとても幸せです。

今の幸せは永遠に続くからです。

心 ところが これが信じられないと、幸せにも終わりがあるわけで、それは悲しいことだと思うのです。

さてここで質問です。

永遠の命は本当にあると思いますか?

信じることはできますか?


僕は半信半疑です。

信じれるように色々の人が協力してくれます。

僕自身はまだ半信半疑 なのです。

人間の肉体が多いさらばえて朽ちていくことは分かります。

これは信じています。

色々な人の死を経験したからです。

しかしまだ 永遠の命を得た人を身近で経験したことがありません。

経験したことないことで 信じる事ってのはできますか?

なかなか難しいこと なんじゃないかと僕は思うから 半信半疑 なんでしょう。

さて 皆さんは永遠の命についてどう思いますか?

皆さんの信じるところ、感想、ご意見お願いします。

A 回答 (15件中1~10件)

人間は必ず死にます。

でも霊→魂→心→精神ともいうものは永遠で、肉体は滅んでもなくなりません。

天に召されるかどうかは、あなたがこの世でどんな生き方をしたか、どんな心だったかどうかで決まります。この世ではごまかせますが、あの世はその人の本性が表れ、自分に相応しい世界に行くことになります。

見える物しか信じないというなら子供でも信じます。あなたが今、倖せと云うなら還る世界も倖せがではないかと思いますので、是非、他のために尽くしてください。
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いずれ死んでしまえば、何も無くなります。


そう思っているので、神も居ないし、宗教はのめり込む事はない。
のめり込む人は、すがりたいんだと思っています。
永遠の命はないという結論です。
信じる事は、それはそれで、その人にとっては良い事なのでしょうね。
それ自体は、止めません。
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「半信半疑」ってのは半分信じているが半分疑っている状態。


君の場合、信じているというのは半分もないんじゃないの?
永遠の命を経験したことがないのは当たり前で、
未経験のことを信じるから信仰なのでは?
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一人でヒートアップする?何それ自己紹介?

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この回答へのお礼

ブロックしますね。

お礼日時:2025/03/20 21:16

私は、このようなQ&Aサイトで信仰に関する質問を投稿する人に対して、いつも疑問に思っていることがあります。



なぜ正解を知っているはずもない人間に尋ねるのか、と。
そんなことをしても全く無駄だということを、あなたは一体いつになれば悟るのですか?
特に、不信仰な人間には信仰に関する問いに答える力は少しもなく、デタラメしか教えられないのですから、無駄というよりもむしろ有害です。

真実は神のみがご存じなのですから、知りたいことがあるなら神に祈って尋ねるべきではありませんか?永遠の命を信じたいと本気で思っているなら、確かな信仰を願い求めるべきではありませんか。

あなたにとって聖書はただの本に過ぎないのですか?聖書を開けば、永遠の命に関する真理が示されるというのに、あなたはそれを蔑ろにして、何の役にも立たない人間の感想や意見を聞こうとしています。それは愚かな行いです。

キリストの教会に通っているという話が本当なら、あなたはイエス・キリストの十字架と復活について何度も聞いたことがあるはずです。それなのに、あなたは永遠の命を疑っています。キリストはあなたのためにも死んでくださったというのに、あなたが滅びから救われて永遠の命に与るために十字架にかかってくださったというのに、あなたはそれをどうでも良いことのように扱っています。そうでないと言うなら、なぜあなたは永遠の命が信じるに値する価値を持つことを否定するのですか?否定していない?どの口でそんなことを言うのですか?
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この回答へのお礼

なんだか一人でヒート・アップするのをやめてください。

他の方の回答も役に立ってますよ。

否定はしていないけど 半信半疑だと言ってるんです。

分からない人ですね。

お礼日時:2025/03/20 21:10

禅を学ぶ事が良いかも知れません、その理由はこうです。

禅には教えとしての経典も仏典も何もない、処が人間の心の中には沢山の財宝が眠っている、その財宝を自由に出来るのは御身である。

又人間の心に湧き上る疑問については、その疑問が湧き上る丁度の処に立ち会うなら、その疑問の中にこそその答えは用意されている。

人間の心の秘密に立ち会う時,総ての疑問の答えはその疑問そのものの中にこそ用意されていると云った具合です。

西田哲学の場合では西田幾多郎氏が鎌倉の円覚寺で鈴木大拙博士と共に禅を学ばれていたようです。

そうして西田哲学の要は『絶対矛盾の自己同一』ですがこの意味が、人間の心の中に既に永遠の命が備わっている証としての言葉です。

禅の課題は悟りを開いて『自身の命の永遠性と共に在れ』=『そうするなら、絶対の安心がが手に入る』=『心が騒がしくなくなって、静まりか帰った境地=涅槃寂静が手に入る』

自意識には不安や恐怖心が在って、一時も落ち着く事が出来ない『一切皆苦』と云った事柄に人生が彩られてしまう事が無いように、釈迦が人間の心に人間の心のからくりを解き明かした癒しの心理学としての教えが在りますが、そう云った悟りが学問としてでは定着しないとして、実地の教えとしての訓練方法によって『直指人心見性成仏』を手に入れるための具体方法を示して、悟りには程遠い様な愚鈍な者であっても手に出来るような方法を提供したものの様です。

始めの仏性の説明をしますが、理解に苦しむかも知れません。仏性は言葉にするなら『命在る者の命を働かせている働き』という意味です。

命在る者の命を働かせている働きという意味です。植物も皆持っています、昆虫でも熊でも蜘蛛でも馬でも牛でも仏性を持っていますが、其々の生物たら占めている働きを働く者の事です。

人間の話をするなら分かり易いかも知れません。精神病を起こしている犯人の事です、或いは神経症の数々の症状を起こしているものの事です。或いは自律神経失調症を起こしている者と云っても良いのかも知れません。

文献として載せるなら次のような事柄です、ウイキぺデアからです。

この仏性とは、生命の発生機能兼、生命の維持機能の事です。聖書の中で知恵の実を食べたと云っている内容とは、脳の機能が『幼子時代では』一つの者として機能していたものが、人間の成長に伴って脳の機能が二つに分化して別々に働き始めたという意味です。

ウイキぺデアからです。是はてんかんの治療のために左脳と右脳を繋いでいる脳梁の切断を一つの治療の方法として行っていた時代の話です、沢山の脳梁が切断された人が存在していた時代の研究成果の一つです。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。

次に左脳の機能の説明ですが、この説明は簡単に済むと思います、何故なら説明する必要さえもな無い位だからです、この機能は自我意識と云った意識だからですが、自我意識では単独には何も出来ない意識です。人間は馬鹿ですので『自意識単独で何もかもが出来ている』と錯覚をしているからです、この馬鹿さ加減を仏教では『無明の故』と修行の大切さを強調しています。

右脳にも意識がある事を先の記事で知った事と思いますが、右脳と左脳が機能的に完成に近づく時期が思春期頃です。アダムとイヴが知恵のリンゴを食べたという意味は』脳の機能分化が完成に近づいた。』という意味です。

今までは二つの意識が一つの者として機能していましたが、この機能分化を境に右脳の意識は『無意識の意識として』自意識の前から姿を消し去ってしまって無意識の背後から指示を出したり情報を呉れるようになっています。

詰まるところ心が二つになってしまって、『見ている自分』としての自分と『見られている自分』としての二つの意識として機能するようになります。

処がこの関係性が分かり難い事から。今の精神医学でさえも精神病とか神経症とかの原因が特定出来ていないとの見解になっています。処が神経症になって苦しんだ経験が有る者は、この原因と神経症の完治した姿をはっきりと指摘出来ます。

此処から右脳の機能を書いてみたいと思います。右脳の機能は生れる前から全てを備えている者です、生命として芽(受精)が出た瞬間から全てを心得て働きだす機能が備わっています。細胞分裂の順番でさえも全て知っています。そうして生まれてからの行動も、ホルモンの分泌も心臓でも肺でも筋肉の動かし方でも全てを備えて生まれています。

又心的には未熟な自意識を支えて、行動でも、感情の湧き上がらせ方でも、考えの湧き上らせ方でも全て備えて生まれています。髪の毛の色や肌の色でも全て知り尽くして生まれています。

聖書の中では、髪の毛一本でさえも白くも黒くも『自意識には出来ない』とも云っていますが、その意味は右脳の意識がその能力を握っていると云っています。

そうして恥ずかしいと云った感情を湧き上がらせていると云ってイチジクの葉さえも用意させています。神の存在をちらつかせています。

こう云った機能は全て命あるものは備えています、この事を釈迦は『一切衆生悉有仏性』と云っていますが、命を働かせている意識(機能)という意味ですが、当然人間にも備わっています。

右脳の意識は言葉を持っていません、物事に分別を加えないという意味です。この意味は全ての事象を受容するという意味です。人間が受け取る運命に良し悪しを付けないで、受け取るという意味です。

人間の頭の中に二つの意識がある事を、脳卒中になったために、体験として語っている動画を載せてみます。



この動画が語っている内容は、自意識と右脳の意識が共に通じ合いながら、仲良く出来ていると云った内容です。

こう云った脳梁の中での出会いを『自分自身を知る』と禅とか仏教では書いています。この現象とは脳梁の中で『ホットラインが開通した事を意味します。』ニ度と仲たがいとか心同士が矛盾しなくなるという意味です。

聖書風な言い方をするなら、今までのような出番争いをする事が無くなって、神の後からついて行くと云った意味です。

嬰児と書いている仏教も同じ事を云っています。脳内での言い争いが収まって(心の矛盾が解消して)脳内が大変に静まり返った状態がキープ出来る状態になっているという意味です。詰まると事『涅槃寂静』と云った境涯の事を云っています。

脳内が幼子とか嬰児と同じになって、言い争う必要がなくなったという意味です。

神経症で生き難い想いで暮らす時には頭の中が大変に賑やかでした、この理由は自身の生命の源と云い争っていたからです。

神経症は自分の命の源と『出番争いを演じている状態です。』処が自意識には、眠る機能も口を開いて話す機能も、手や足や身体全てに付いても動かす機能が無かった事を知る事が悟りの効用です。

ここ一番と云う時に『自我意識が単独で行動する場合では』上がり症と云った状態になっていますが、無意識の自分に任せて自我意識が何もしない時には、最高の働きが出来ています。

死を克服する事等も出来なかったと納得した場合では、無意識の自分が自意識を救っています。この関係性を禅では『生死の問題が解決したと書いています。』哲学者も同じように云っています。『絶対矛盾の自己同一』との言葉も同じく『魂の救いが完了した印の言葉です。』
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大和民族は縄文時代より、み(身)は、ひ(霊)の借宿で、人間が


亡くなると、ひ(霊)は、み(身)から離れ、あの世に行きます。
あの世に行った、ひ(霊)は、あの世から子孫を見守りますと云う
御先祖様の信仰があります、だから、自然災害などで身に危険が
迫って来た時に「御先祖様」お助け下さいと成るのです。

神社はその神社由来の神様と御先祖様と出会う場なのです。
縄文人の感性を持った左脳をお持ちの人が神社にお参りすると、
気配とか何かを感じるのは、その為です。
現代人の多くは、劣化した脳に成って居るので、感じない人が
多く成りました。

仏教が伝来して各家の仏壇が御先祖様と出会う場に成りました。
神社にお参りして、縄文人の感性を復活させる行脚も宜しいかと。
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ちなみに「永遠の命」を「肉体が永遠に生きる」と解釈している宗派等もあります。

しかしながらこれは生物学および医学の知見からは明らかに矛盾するわけですから、信仰を持つ立場の人を含めた大多数の人が支持できる見解ではないと思います。
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永遠の命というものについて、次の2つの課題にはどう考えられているのでしょうか。



【1】永遠の命は人間にしかないのか。それとも象・イルカ・クジラの類の高等哺乳類も含めて永遠の命はあるのか。
それともネズミやマグロ、カエル類にも永遠の命はあるのか。コロナウィルスや桜の木やジャガイモにも永遠の命はあるのか。
つまり、生物のどこから辺から永遠の命を享受できるのか? という問題です。

【2】永遠の命の態様はどのようなものなのか。
天国で友達や恋人と一緒に快適な生活を実感として感じながら、永遠の命を生きるのか。
それとも、永遠の命を得たけれども、自分自身は何の意識もなく、生きてることも分からずに、ただそこに無自覚な永遠の命があるだけなのか。


1の問題については、恐らくは教義では人間のみに限って永遠の命がある・・・という事になっていると思います。
しかし人間と言っても色々あって、大昔のクロマニョン人にも永遠の命は有ったのか? その前のネアンデルタール人には永遠の命があるのか?
クロマニョン人から永遠の命が始まるのならば、なんでクロマニョン人とネアンデルタール人はその点で相違が出てくるのか?

どうなんですか。神父さんに聞いてみてください。
永遠の命は人間のみに与えられているのか。太古のクロマニョン人から現生人のどこを区切りとして永遠の命が発生したのか。
それともそういう区切りは無くて、全ての生物に永遠の命があるとしてみたら、じゃ、コロナウィルス一つ一つにも永遠の命があるのですね?

とかとですね。色々考え、分析し、演繹論を機能させていくと、結論はこの意味での「永遠の命は恐らくは無い」というものになります。


2の問題については、永遠の命というのは天国にずっと住むというもの?
それとも、輪廻転生して生まれ変わるってこと?

この問題を考えていくと、恐らくは、「永遠の命は有る」という結論が導き出されます。
ただしそれは、普通に考えられている永遠の命の態様ではない。

死んだ人は、まだ生き残っている人の記憶の中に、生き残っている人達が形成している物理的世界の中に、概念として、遺品として、遺物として残るのですよ。大人物ならば永遠に。

普通はお墓が残るじゃないですか。
加えて、生きていたという色々な文献的証拠が残る。生きていた時に着用していた衣服が残る。生きていた時に通勤していた道筋が残る。ランニングしていた経路が残る。
何よりも近しい人たちの記憶の中に濃厚に残るのです。

イエスキリストはもう2000年間も永遠の命として生きている。文献の中に。教義の中に。信者の人達の心の中に。
そういうのが永遠の命というものだと、推定できるのですね。
恐らくキリスト教関係の聖者大先達の人々の考え方もその種のものに近いのでは。

良い最高の代表例がイエスキリストです。
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そもそも「永遠の命」と言うのは「肉体が永遠に死なない」と言う意味ではありません。

肉体の命が有限であると言うのは元々神がそのように創造したわけですから「肉体が永遠に死なない」と考える必要はないはずです。

永遠の命と言うのはいわゆる霊界(≒死後の世界)を含めての話ですから、霊界が見えなければ「永遠の命を得た人を経験した事がない」と言うのはこれまた当然だと思います。
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