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成田空港建設反対でテロまがいな事までしていた連中は、何がそこまで駆り立てたのでしょうか。

A 回答 (5件)

簡単に言うと法律作って国民の土地を収用しようとした国への反発。

詳しくはchatGPTの回答を下に貼るので読んでください。
しかしその後羽田を沖合移転して、やっぱり成田は不便だよねということで滑走路増やして国際便を定期運行した現実を考えたら、成田は一時凌ぎのために多くの人が迷惑を被った負の遺産です。

参考回答
成田空港(新東京国際空港)の建設に反対して過激な行動をとった人々の背景には、いくつかの要因がありました。

1. 土地収用への反発

成田空港の建設は、千葉県成田市の三里塚地区を中心に進められましたが、多くの地元農家が代々耕してきた土地を強制収用されることになりました。農民たちは「生活の基盤を奪われる」として強く反発し、一部の人々は徹底抗戦の姿勢をとりました。

2. 政府の強権的な手法への怒り

国(当時の運輸省)は、住民との十分な話し合いを行わずに空港建設を進めたとされ、1966年の建設決定後、反対派の説得よりも土地収用や警察力による対応を優先しました。これにより、反発がさらに激化しました。

3. 学生運動・左翼勢力の介入

当時、日本では学生運動や新左翼(極左)運動が活発であり、彼らの一部が「反権力闘争」の一環として成田闘争に加わりました。彼らは空港反対運動を「国家権力との戦い」と位置づけ、過激な手段(ゲリラ戦や爆破事件など)を実行するようになりました。

4. 象徴的な闘争の場としての成田

三里塚闘争は、単なる空港反対運動を超えて、日本における反権力・反開発闘争の象徴となり、多くの活動家が参入しました。そのため、地元住民の意向を超えて、より過激な闘争が展開されていきました。

5. 農業・自然保護の観点

一部の反対派は「都市化の進行により、日本の農村文化や自然が破壊される」という観点からも空港建設に反対していました。

結果として、過激派による殺傷事件や爆破事件が発生し、警察と反対派の衝突が激化しました。こうした背景から、単なる「空港建設反対運動」ではなく、日本の高度経済成長期における「国の開発政策」と「住民の権利」の対立が象徴的に表れた闘争だったといえます。
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地元住民の支持があったからです。


あの辺は、戦前は御料牧場で、戦後は満蒙開拓団の引揚者が入植した地域です。彼らが自力で荒れ地を開墾して、ようやく農業も軌道に乗り始めたころ、政府から「空港にするから出ていけ」と札束で頬を叩かれたのです。
国策で翻弄されてきた人たちが多いことから、もともと政府に対する不信感が根強く、「おいおい、またかよ!ふざけるな!」と怒り出す農民が多く、そこに「協力しますよ」と手を差し伸べたのは左翼過激派だけだったのです。
もちろん右翼はいつものように権力の走狗として「お上に逆らうのか!貴様それでも日本人か!」と農民たちを恐喝していました。
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地元住民の反対運動を利用して、共産党や左翼過激派が介入し、大規模闘争となりました。



過激派にとっては学生運動が沈静化し、革命を起こす再起の場所として三里塚が利用されたという一面もあります。
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中核派とか革マル派という組織の人たちのことでしょうか?



であれば、国家権力に対する反対行動をすること自体が目的なので
場所は成田であってもなくても構わない
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武装闘争が好きだったのでは?



昼は機動隊とぶつかって、夜はドブロクで労を労うのが好きだったんでしょう
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