ネットが遅くてイライラしてない!?

なぜでしょうか?
昔の人は同性愛者が多かったのでしょうか?

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A 回答 (11件中1~10件)

当時の同性愛は男色家という意味よりも、主従の関係を


色強く反映しています。
ですから、主=主とか個=個の関係で男色に走ることは
少ない事例だったと言えます。

主従の関係と書きましたが、大名と家臣、親分と子分という
関係よりも、輩として信義を誓い合う関係の証明といった趣です。

戦国の当時は、友情,友人という概念は存在しませんでした。
殺伐としていたからというよりも、そうした観念が無かったのです。
ですから、大名と家臣とはいえ利害関係が行動の最優先の基準でした。
実際、武田家も縁戚から見捨てられ途絶えるわけですから。
そうした利害関係によらない結びつきをもつ人間を作ることが、
男色行為と見做されていると思ってよいです。

男色の話を聞きますが、その大きな理由はお互いが裏切らないよう
ある意味で握り合う行為です。
動物としての性なのか、一度そういう関係を結んでしまうと
相手に対して強く出たりできないもののようです。
例えばの話ですが、ヤクザ同士の一番てっとり早いケンカの方法は
相手の親分のオカマを掘ることです。
次に面と向かったときに、掘られたほうというのは、どんな強面でも
強く出ることができなくなってしまうので、ケンカをぶり返すことはないし
違う交渉を持ち出しても、既に精神的にも屈してしまっているために
すんなりと話がまとまるので「最善の策」と、お偉い方に伺いました。
その話を聞いたときに、戦国時代のそれ(例えば、信玄と高坂)も
同じような感情があったのだろうと思います。
ちなみに信玄と高坂は信玄が上位者ですが、なぜか信玄は高坂に
頭が上がらなかったようです。
あの信玄が高坂に、浮気のお詫び状を出しているくらいですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!
信玄のうんちくもおもしろかったです。

お礼日時:2005/06/22 23:36

#7の方の回答が当を得ていると考えます。


男色1本と言う武将は少なく、大体は両方いける者が普通で、肉体関係を結んだ者が側近として仕え、戦でも生死を共にしますから、友情と言う概念だったと思います。
男女の仲も、肉体関係が無いとどうも信用できないと言いますが、男同士でも同じと思います。
時代が下がって徳川3代将軍家光も若い頃は男色1本、中年に達してから子孫を作る必要に目覚め女性にも手を出しますが、彼の周囲にはホモ達が側近として仕え、亡くなると殉死したものもいますから、結びつきは強かったのでしょう。
確かに武将は縁起を担ぐので、戦場に女を引き連れると縁起が悪いと考えた面もありますが、木曽義仲は巴を引き連れてますし、豊臣秀吉も小田原攻めには淀殿を呼び寄せたり、それ以外でも長対陣になるとこうした武者たちを目当てに芸人や娼婦も集まるので、そこそこ身分のある(お金のある)武者なら女に不自由はしないと考えられるので、やはり友情を確認すると言う意味が大きいと考えます。
完全な男色家も上杉謙信など数人いますが、家という単位で家臣は仕えますから、大抵後継ぎで揉めるので、子供を作るのが義務とされ、趣味としては男色でも妻子がいる武将は多かったと思います。

因みに毛利元就の次男の吉川元春には結婚に関して有名なエピソードがあり、彼の希望で不美人で近隣に聞こえた熊谷信直の娘の新庄局を指名し、当時の武将としては珍しく側室を置かずに、妻との間に数人の子供が生まれました。
彼はブス専という趣味なのかと言う意見もありますが、私はそもそも女性に興味が無く、子孫ができれば敢えて他の女性にまで手を広げる要もなしと考えた、隠れホモと見ています。
彼自身は当時の美的センスでは美男子だったとか。
夫婦仲はよかったようですが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!
歴史にお詳しいですね。

お礼日時:2005/06/22 23:39

まず、戦場に女性は連れて行けないことが挙げられます。

これは、女性は体力的に男性に劣り行軍に耐えられないこと、さらには、子育てに勤しむのもこの当時の女性の仕事だったからだと思います。と同時に、男性は、性的欲求がすぐに貯まる生き物なのです。戦国時代、明日をも知れない生活の中では、本能として性行為を欲するのでしょう。この二つの条件から、同性愛ともとれる行為が発達していったのだと推測されます。このことから導かれる結論は、同性愛が多かったのではなく、女性を側に置けない中で女性の代わりとして男性を求めたと言うところが本当のところだと思います。特に、歴史に名を残す大名という存在は、とかくこれらの記録が伝承されるので、際だっているように見えますが、実際には、ごくありふれた日常の一こまであったろうと想像されます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!
そういえば刑務所の中で男どおしで。。。という話を思い出しました。

お礼日時:2005/06/22 23:38

戦国大名といえば子供を作ることが、しかもなるべく多く作ることが義務みたいな感じでしたので、回りに多くの女性を侍らせていたことでしょう。



ということで、飽きもあったのではないでしょうか。(^ ^;

ところで、「信長公記」首巻に岩室長門のことを「上総介殿御若衆にまいられ候」と表現しています(「御久地惣構破る丶の事」より)。若衆というのを例の母衣衆と同義語なのか、それもと意味深長な言葉なのか…判断付きません。

なお「信長公記」に森乱(欄丸)のことをこのような表現で表している部分はありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2005/06/22 23:37

同性愛というより、両性愛でしょうね。



現代人の「常識」で考えるならば、明治時代以前の日本は、キリスト教公認以前の古代ローマに匹敵するほど、性に関してはおおらかだったと言っていいでしょう。

キリスト教(及びユダヤ教)において、性行為は聖書にもあるとおり「生めよ殖やせよ地に満てよ」という行為です。そのため同性愛は「ソドムの罪」として、神との契約に反する大悪行とみなされます。

一方、キリスト教の影響がほとんど無かった東アジアでは、中国のレン童(レンは「変」の旧字体の上部に女)や戦国武将のように、主従関係の一端として男性同性愛は当たり前だったようです。

江戸時代になると、陰間趣味として、同性愛は大勢を占めないまでも、普通に聞くものになります。江戸の陰間茶屋が芝居小屋の多い葺屋町・木挽町に多いのも、歌舞伎の初期において「若衆歌舞伎」との関連があったためです。ただ、戦国時代の「主従関係」とは関係の無いものになってきますが……

とりあえず、戦国以前の同性愛は、単純に「性欲に基づくもの」ということではないと考えたほうがいいでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2005/06/22 23:36

同性愛は、若い頃の遊びの一種であり、大人になってもその趣味をやっている人がいました。



仏教の影響が大きいのでしょうか?

昔女性とSEXしてはいけない坊さん達は、同性愛しかなかったわけです。

男女がSEXすることは、仏教的に性欲に汚れるというイメージがありますから、若い男性とSEXすることは、どちらかというと清らかなイメージがあったように思います。

今でも、宝塚やジャニーズなど、独特の性的倒錯の世界が支持されています。
あまり変わっていないようにも思いますがいかがでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!
少女マンガなどでもこの種のネタは脈々と続いているようですね。

お礼日時:2005/06/21 12:27

うーん。

絵空事と言い切れるでしょうか・・・。
考古学や歴史学の分野で最も難しいとされるのは、゛この事は無かった"と言うことを証明する事だと言いますよ。
数々の文献などを散見するに、あった事を示す状況証拠が多いのに対して、否定する有力な根拠は無いように思われますが・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2005/06/21 12:25

 小説家がそんなのがあったと書いて以降、それが広まっただけにすぎません、さもそのような事があったと事実っぽく述べる文献が多いだけの

絵空事なんです(^^;
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2005/06/21 12:24

 こんばんは。



 織田信長、上杉謙信、武田信玄、戦国の武将たちの多くはいわゆる「少年愛」を普通のことのようにしていたそうです。つまり、現在のように人に隠れてするのではなくて、日本古来の文化(あるいは習慣)だったんですね。

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/9559/gayhist …

参考URL:http://www.geocities.co.jp/Berkeley/9559/gayhist …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!
参考URL、面白かったです。

お礼日時:2005/06/21 12:23

まず、戦場には女性が連れて行けなかったこと。


当然その場合そっちの欲望は現地調達か手近で済ませることになります。
当時の日本にはヨーロッパと違ってキリスト教が広まっていずに「同性愛は神の教えに反する」という考え方そのものがなかったから余計に絶対数の少ない現地調達よりも手近ですませる事が多かったんでしょう。

そうして昔の殿様のお取り巻きというのは彼らが少年時代の頃から始まります。その頃にこう、殿様の手がついた人々は大人になってからも殿様に対してお互いに特別に親密な感情を抱くので裏切ったりせずに最後まで殿様の為に働く確立が高くなる、と。

あの自体は特に「男同士の世界」で「命のやりとり」が日常茶飯事だったので友情が一気に愛情に偏りやすい時代だったのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2005/06/21 12:23

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Q戦国武将の男色と感染症

戦国武将の男色で疑問なんですが、アナルセックスの性病で男根やお尻が腐り落ちる等・・・創造するのも恐ろしいケースが多々あると思うんですが何故そうゆう話を聞かないのでしょうか?

いくらお風呂や油で身奇麗に整えて儀式したとはいえ、しょせんは400年以上昔、感染症も心配です。

Aベストアンサー

戦国時代は、性病は蔓延していたので、
多数の人々が性病に感染していたことは確かですが、
性病で「男根やお尻が腐り落ちる」というような症状があるものは、
無いこともないとはいえ、そこまで悪化するほど免疫力が落ちていれば、
その前にもう死んでますから、現実にはまず起こりません。
細胞組織の腐食は、一般に、性病と言うよりも、ただの化膿で起こります。
切り傷刺し傷に、ばい菌が少し入っただけで、肉が腐り、変形します。
これはペニシリンのような抗生物質が発見される第二次世界大戦まで普通のことで、
別にアナルセックスでなるような症状ではありません。
梅毒や淋病等々の性病は広まっていたのは確実で、疑いようもないのですが、
それらは異性間だろうが同性間だろうが、方法に関係なく、性交渉で感染します。
HIVは20世紀に登場したと考えられているので、
戦国時代においては男色行為が特別危険というということはないですね。
これは安全という意味ではなくて、治療薬も予防法もなったくないので、
他の性交渉も性病感染のリスクが変わらず高かったということです。

しかしすごく嫌な話なんですが、普通男色行為は、幼い相手と成人男性との行為、
つまりはホモセクシャルというよりも、ほとんどの場合小児性愛なんです。
だから相手は性的に未経験の小姓とかが主になるわけで、
戦国武将はそういうリスクの少ない相手を選ぶのが普通でした。
これは僧房とかでも同じ。ゲロイ話ですが、主従、力関係があるのわけです。
スパルタとか、ギリシャ世界のゲイでも、マムルークの社会でも、
戦士社会は、服従と信頼関係の構築の意味もあって、目下のもを性的に搾取していました。
ま、現代の監獄なんかでもそうですが、力で屈服させる方法のひとつに
性交渉を用いるということが人間の行動パターンの一つにあるのです。

前近代の世界での男色とは、現代の同性愛とはかなり意味合いが違うのは
注意すべきことでしょう。平等な関係が無い、人権の守られない世界ですから。
だからこういうことは性病感染よりも、もっと醜悪なんですよ。

戦国時代は、性病は蔓延していたので、
多数の人々が性病に感染していたことは確かですが、
性病で「男根やお尻が腐り落ちる」というような症状があるものは、
無いこともないとはいえ、そこまで悪化するほど免疫力が落ちていれば、
その前にもう死んでますから、現実にはまず起こりません。
細胞組織の腐食は、一般に、性病と言うよりも、ただの化膿で起こります。
切り傷刺し傷に、ばい菌が少し入っただけで、肉が腐り、変形します。
これはペニシリンのような抗生物質が発見される第二次世界大戦まで普...続きを読む

Q上杉謙信 生涯不犯の実情

上杉謙信は「生涯不犯」を称して一生正室も側女も置かなかったと言います。

実際、「謙信の正室・側室」や「謙信の実子」は存在が確認されていないようですが、「子供は多ければ多いほど良い」戦国大名が、女に生涯接しないとは極めて異常かつ損なことと思われます。現に、謙信の死後は相続を巡って「御館の乱」が起き、上杉家に著しいダメージを与えています。

ついては、

1. 謙信が「自分は生涯不犯を通し、婦人と接しない」と言明した手紙やそのように記した文献は存在するのか?「生涯不犯」という一般に流布している言葉は何が出典なのでしょうか?

2. 謙信は最初は仏門に入っていて、還俗して長尾家を継いだと記憶します。その後、「生涯不犯」を通したとされていますが、「謙信公が一度だけ当家の娘と懇ろになり、その結果のご落胤」といった伝承は存在しないのでしょうか?

3. 謙信はなぜ「生涯婦人と接しない」などという、戦国大名として極めて非常識なことを思いつき、実行したのでしょう?

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

1.戦国時代の色々な話、及び文献・資料を収集・編集して1698年に成立したとされる「北越軍談」には、謙信について、「発願の趣旨有て女色を禁じ、一生不犯たる故、実の継嗣なし」と記されています。

2.ご落胤の話は聞きませんが、恋の話なら3人の女性の名前があがっています。
直江実鋼の娘と、関白近衛前嗣の妹の絶姫と、上野国の武将、千葉采女の娘、伊勢姫です。この中で特に伊勢姫との別れ(死別)は、謙信にとりショックだった為、この時、生涯結婚はしない事を誓ったという話もあります。

3.一般的には戦勝祈願の為に不犯の願掛けをしたと言われています。

私の考えでは、謙信は武将という立場だけでなく、僧でもあったから、不犯という考えが出たのだと思います。謙信は幼少の頃に一度仏門に入り、後に還俗しています。還俗はしても、仏道を捨てた訳ではなく、それどころか厚い信仰心を維持していました。戦にも神仏像を複数伴ったほどですし、陣中には護摩堂を作って祈っています。敵地にある神社仏閣にも詣でていたと言われます。
それどころか、27歳の時には、国主の座を捨て出奔し出家しようともしました。謙信は僧ではなくても、とても信仰心の厚い人だったのです。
結局、国主の座に就いたまま、1574年には高野山から法印大和尚に任じられ、正式に僧になって剃髪しています。これ以降、謙信は、侍女さえ身辺に近づけていません。
ちなみに高野山は女人禁制であり、開祖の弘法大師は生涯妻帯する事はありませんでした。
謙信は、そうした仏門、宗派の影響を色濃く受け、武将としてだけでなく、僧としても生きていた為、生涯不犯という考えが出てきたのではないかと思います。

上杉家の後継者については、実子がいなくても養子がいれば充分と考えていたのではないでしょうか。「御館の乱」は謙信が急死したから起こった結果に過ぎません。急死するような事がなければ、景勝か景虎か、きちんと後継を決めていたと思います。

1.戦国時代の色々な話、及び文献・資料を収集・編集して1698年に成立したとされる「北越軍談」には、謙信について、「発願の趣旨有て女色を禁じ、一生不犯たる故、実の継嗣なし」と記されています。

2.ご落胤の話は聞きませんが、恋の話なら3人の女性の名前があがっています。
直江実鋼の娘と、関白近衛前嗣の妹の絶姫と、上野国の武将、千葉采女の娘、伊勢姫です。この中で特に伊勢姫との別れ(死別)は、謙信にとりショックだった為、この時、生涯結婚はしない事を誓ったという話もあります。

3.一般的には...続きを読む

Q侍はゲイだったかどうか?

中南米出身の考古学専攻の大学生と話したときのことなんですが、彼いわく侍の大多数が同性愛者もしくはバイセクシャルだったといいます。身分の高い侍が若い男と遊んでいたといっていました。確かにそんな話は聞いたことがありましたが、彼の主張によると大多数だそうです。大多数というのだから少なくても過半数とのことだと思いますが、そんな仮説は成り立ちますか?
個人的には(なんの証拠もありませんが)あまり信じたくない悲しい仮説(もしくは事実)ですが、、、
もしどなたか、これにどういされる方、もしくは反対される方、どちらでも良いので証拠に基づいた情報をお持ちの方がいらっしゃったら教えてください。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

 こんにちは。

 やはり、日本の男色といえば、寺院の稚児か、武士の衆道かを思い浮かべるのが普通ではないでしょうか。
 キリスト教圏における男色というのは、過去において、あきらかに悪であり罪であり、近代にいたっても、変態性欲、つまり病気だと評価されて来ましたが、ほんの百数十年前までの日本では、男色はけっして日陰の存在ではなく、きっちり、社会制度に組み込まれた行為だっそうです。

 過去の男色は、現代のホモやゲイとは、少々、ちがうもので、一番ちがうのは、大方、バイセクシャルだということです。女がだめで、あるいは女がいやで男相手、というわけではないのです。

 現に、武田信玄が男に書いたラブレターも発見されていますし、中世から戦国時代、江戸時代初期くらいまでの男色は、やたらに目立ちます。
 来日したイエズス会の宣教師が、それを嘆いたりしますが、もちろん、それ以前からも、日本列島では男色が盛んでして、一般にあまり知られていないのですが、院政期の男色は、唖然とさせられるほどのものです。

 日本で男色が華々しく流行りはじめたのは、72代白河帝のころからです。この時代の左大臣、藤原頼長というお公家さんが、「台記」という、今読んでみますと、すさまじいばかりの男色日記を残していますが、別に頼長は、男色日記のつもりではなかったわけでして、そもそも上流貴族の公卿日記といいますのは、子供や孫に、宮廷行事や人間関係、政界遊泳の参考資料となるよう、書き残すものなのです。
 つまり頼長は、乱脈な男色行為を、少しも恥とは思っていなかったわけでして、恥どころか、そこに政治的行為である側面を意識していればこそ、子孫のために書き残したのでしょう。
 
 なにしろ、帝をはじめとして、上皇、摂政関白、大臣、ほとんどすべての貴族がバイセクシャルでして、しかもたっぷりと私情をまじえて、えこひいきの人事を行いますから、当然といえば当然のことなのです。「夜の関白」とか「男のおぼえ」とか「君臣の交わり」とか、やっかみとともに、皮肉がとびかったりもします。
 
 ところで、一般に、貴族と武士は対立しているもの、というイメージがあると思うのですが、武士の中でも、源平の中心にいる武家の頭領は、いわゆる受領層、つまり中下級の貴族なのです。
 それで、つまるところは、上流貴族のお相手を務めておりまして、木曽義仲のお父さんが左大臣頼長と関係しましたことは、はっきり日記に出てきますし、源頼朝も少年のころ、後白河帝(崇徳帝の弟)の相手をした可能性が高いそうです。
 
 後白河帝が、またこれ、すさまじいお方で、平治の乱の原因には、このお方の度を超えた男色がからんでいるそうです。男色が原因で内乱が起こるなんて、今では信じられない話ですね(笑)
 
 武士といえば、源氏の頼朝だけではなく、平家の方も、平重盛とその子息の資盛、親子どんぶりで後白河院の愛人だったといわれています。
 そもそも平清盛のお父さんは、白河帝に体を差し出し、平家興隆のきっかけをつくったようですし、院政期における武家の台頭は、一面、男色にささえられています。
 
 男色の歴史を見ていきますと、武の時代といいますか、争乱が多くなると同時に、男色も華々しくなってくるような気がします。院政期もそうですし、中世から戦国にかけては、まさに男色の花盛り。江戸時代、元禄すぎて次第に下火になった男色が、幕末でまた盛り上がる、というのもありますが、これはまた、薩摩や土佐という、男色最盛地帯の下級武士が活躍したという、特殊事情もあるかもしれません。

 これだけ歴史家の研究で明らかになっているということは、男色は近世までの日本の文化の一部と言わざるを得ないですね。ん~ 

 こんにちは。

 やはり、日本の男色といえば、寺院の稚児か、武士の衆道かを思い浮かべるのが普通ではないでしょうか。
 キリスト教圏における男色というのは、過去において、あきらかに悪であり罪であり、近代にいたっても、変態性欲、つまり病気だと評価されて来ましたが、ほんの百数十年前までの日本では、男色はけっして日陰の存在ではなく、きっちり、社会制度に組み込まれた行為だっそうです。

 過去の男色は、現代のホモやゲイとは、少々、ちがうもので、一番ちがうのは、大方、バイセクシャル...続きを読む

Q武士の性癖??

江戸時代の武士は小姓を雑用として使っていたっと授業で昔聞いたことがあります。
男色といって、夜の相手を小姓にさせていたと友人は言ってますが、これはホントの話でしょうか?
そうなると、少し下品な話になりますが、男と男がSEX
していたことになりますが、武士は皆ホモだったのでしょうか?
これは、武士としての誇りがけなされる行為ではないかと自分は思うのですが、江戸時代の武士の間では普通だったのでしょうか?庶民もそういう趣向があったのですか??

Aベストアンサー

小姓については必ずしも性の対象ではない、というよりそうでなかった方が一般的であったでしょう。それじゃ今でいうと社長秘書といえばすべて社長の愛人かと考えるのと同等です。
とはいえ少なくとも明治以前の日本において一般的にホモ行為そのものがタブーではなく、むしろ高尚な趣味、と考えられていたようです。衆道というのがそれです。特に未成年の男子、というものは性を超越したものとして捉えられる考えがありました。
大元はわかりませんが、少なくとも中世の日本ではこれは寺院に起源を持つ思想のようです。田中貴子「性愛の日本中世」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480088849/249-7932277-6597123
の所収論文「「稚児」と僧侶の恋愛」によれば、寺院内におけるそれについては詳細な作法や理論が立てられていたようです。まあ現在ではその種の文書そのものが門外不出となっていたりしますが、かつては少なくともいわゆるお稚児さんの存在は隠されておらず、不道徳ないし変態的と思われてもいませんでした。
ただ、同性の性行為では子供が作れないので、仏教寺院はそれでいいのですが、中世の日本においては今以上に重大な問題を含む事にもなります。ですから一般に「高尚な趣味」ではあっても、武士の場合、特に江戸期以降は奨励されるものではなかったわけです。したがってこのあたりから差別的な言辞が始まってもいるのですが(陰間についての悪口)。
なお、仰る「武士の誇り」なるもの、いわゆる武士道は本来そのようなものではありません。新渡戸稲造あたりが書いた事は現実にあった武士のありようというよりあくまで新渡戸が頭の中で組み上げた空想の産物です。また明治に喧伝された日本精神のごとき「明治武士道」とも、江戸やそれ以前の武士道とも新渡戸のものは違います(この二つもまた別のものですが)。このあたりは、
菅野覚明「武士道の逆襲」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061497413/qid=1139609487/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-7932277-6597123
とか、
佐伯真一「船上の精神史 武士道という幻影」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140019980/qid=1139609555/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-7932277-6597123
に詳しいです。
とりわけ前者には葉隠のなかの「主君に対する恋」(むろん同性です)に触れている部分もあります。
というわけで江戸時代に限らず一般的に存在し、特に江戸初期以前は特に咎められるいわれのないものであったこと、また庶民においても「陰間茶屋」というものがあり、少なくとも半ば公然とそういうものは存在していたようです。

小姓については必ずしも性の対象ではない、というよりそうでなかった方が一般的であったでしょう。それじゃ今でいうと社長秘書といえばすべて社長の愛人かと考えるのと同等です。
とはいえ少なくとも明治以前の日本において一般的にホモ行為そのものがタブーではなく、むしろ高尚な趣味、と考えられていたようです。衆道というのがそれです。特に未成年の男子、というものは性を超越したものとして捉えられる考えがありました。
大元はわかりませんが、少なくとも中世の日本ではこれは寺院に起源を持つ思想のよ...続きを読む

Qチャールズがカミラさんにこれほど惚れたのは何故?

イギリス王室の世紀の結婚式を拝見してました。
もし、ダイアナさんが生きてらしたら何処の席で息子さんの結婚式を
ご覧になってたんでしょうか?
いつも疑問に思ってたのは何故美しいダイアナさんよりあの下品なカミラ
さんと長い間不倫を続け、愛を注いだのでしょうか?
男女間のミステリーを感じます。
不誠実な夫に耐えかねた妻の最後はあまりにも悲劇的、それなのに
カミラはちゃっかりとイギリス王室の一員となってしまった。
カミラの前の夫が彼女は凄い床上手だと発言したのを記事で読んだ
事があります。
"君のタンポンになりたい”という信じられない言葉を盗聴されてしまった
チャールズ。
そこまでカミラを愛し続けたのは何故?相性?同じ趣味?価値観?
真面目に答えて欲しいです。

Aベストアンサー

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠れする方みたいですが、伝統を破るほどの革新的な王子ではないそうです。

ダイアナは正直、自分の言いたい事を言う、好きな時に好きなことを楽しみといった自由人で強く、暖かい人情のある方だったそうです。
しかし一般的な母性はあるとしても極端に甘えさせてくれるなどの懐の深さはなかったようです。

チャールズの母であるエリザベスは王女だった為にチャールズに対して母として接する機会があまりなく愛情不足だったと思われます。
チャールズは気難しく理屈っぽい。正直さ、率直な振る舞いが特徴です。
伝統や格式を担う公人としては適役と思われます。

そして問題なのが、公人としてダイアナを妃にした事としかしダイアナは公人としてでは無く私人として愛して欲しかった事です。
ダイアナは彼を変えられると幻想を抱いてたのかもしれません。
ダイアナは言いたい事を言う性格ですので、キレて文句を言う日々が続いたのかもしれません。
しかし、チャールズはグッと考え込んで大事な事だけ発言するタイプです。
ですから元々の性格は真逆だったと思われます。
その為チャールズはダイアナに寄りつかなくなったのかもしれません。

もちろんダイアナは理屈を理解しようと努力をした事は伺えるのですが・・・理解は出来ても許容する事が出来なかったと思われます。

そしてカミラの場合は難しい理屈などは置いておきたい人のようです。
カミラにとって重要な事は自分を求め愛してくれる人がいること。
ドロドロとした三角関係にあってもチャールズの事を理解しそして許容する事が出来る方のようです。

気難しい彼に対してデリケートな部分を刺激したりしない、とても尊重してくれる方だと言われてます。
そして最大の彼女の魅力は強い母性愛です。
愛する男性を子の様に慈しみ、命を捧げて生涯を守るほどの古典的な母たる姿勢を崩さなかった事と周りから何を言われても誇り高く、強い女性であった為にチャールズにとっては不可欠な女性だったのだと思います。

長くなりましたが、カミラとダイアナでは性格が真逆であることは一番の原因だったのではないでしょうか?
ただ、誰が悪いとかでは無いと思います。

私も最初は否定派でしたが、現在はお二人の関係を暖かく見守って差し上げたい様な心情です。

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

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Q昔の性交の実態

現代社会では、モラル的な圧力で、第2次性徴が来てもまだ性交適齢期でないとか社会的に未成熟とか言う理由で抑圧しますが、昔はもっと自然に、子供が生める体になったら交わり始める、と言う感じだったのですよね?
でも、女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
結婚や出産の年齢の「上限」はありましたが、「下限」はありませんでした。
まあ、12歳前後になると、現代で考えると確かに未成熟ではありますが、その時代の風潮として、それ位の歳になれば、もう、周囲からは立派な大人扱いをされましたので、女性も、もう、そうした心づもりで嫁に行ったりしました。
まあ、お産については、大変な苦労があったと思います。出産の最中に死亡したり、産後の日だちが悪くて死亡したり、また、生まれて来る子どもも未熟児ですぐに死亡したり、と、苦労?も多かったのが実際でしょうね。

(よもやま話)
(1)ある大名家(判ってはいますが、ここではあえて伏せます)の嫡男15歳に政略結婚で7歳の少女が嫁ぎました。初夜の時に、乳母や女中連中が少女の股を無理やり、押さえつけて、開かせ、姦通させた、という話が残っています。(明らかに「幼女姦」)。
(2)また、男女が共に7~8歳前後で結婚した場合は、夫婦とは名ばかりで、10歳位になるまでは、遊び友だちでした。
(3)江戸の商家の娘になると、自由恋愛は全くと言って良いほどできませんでした。また、商家の娘は「箱入り娘」と呼ばれたように、自由に街中を歩くことさえできませんでした。
(4)現代のようにウインドショッピングを楽しむ場所もありませんでしたから、たまに、小物が欲しいと、街へ出ても、乳母や女中がお供をして出歩きましたので、自由にどこでも行くことは許されませんでした。
(5)では、着物や櫛(くし)、簪(かんざし)などが欲しいというと、大店の丁稚がそうした店へ使いに走り、店からの出張販売でした。
(6)江戸時代を例にとると、儒教の精神が上は将軍家から、下は町人まで、
「男女7歳にして席を同じゅうせず」
でしたので、武家はもちろん商家でも、双方の家柄や財産などを基に、親同士が決めた「許婚(いいなずけ)制度」で、特に、父親の権限が強く、父親の許可なしには結婚できませんでした。
(6)江戸の街には「分一(ぶいち)」と呼ばれる「仲人専門」の職業の人がいました。これは、結納金の十分の一が謝礼として貰えることから、そう呼ばれました。
(7)適齢期の男女を物色し、商家へ縁談を持ち込む。ただし、男は40歳前後まで、女は20歳まででした。となると裏をかえせば、10歳前後の結婚もあった、と言うことでしょう。
(8)「十分一(じゅうぶいち)取るにおろかな舌はなし」
と、狂歌にもよまれたように、「口先三寸」のやり手でした。
(9)また、逆に、将軍家や大名家の大奥では30歳になると「おしとね御免」と言って、夜の相手ができなくなる話はご存じだと思いますが、30歳位で妊娠すると、今度は、医療技術がお粗末だったため、高齢出産となり、母体の安全から子どもを作ることはできませんでした。ただし、町人などは、側室などいませんから、子どもを生むこともありました。
現代でも40歳以上になると、やはり、高齢出産と位置づけられますよね。江戸時代から400年余り過ぎても、医療技術が進歩したとはいえ10歳しか「上限」が上がっていない。
(10)ここには、主に、江戸時代で江戸の街を中心に述べていますが、地方(田舎)も似たり寄ったりでしょう。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>女が12歳くらいで子供を産むって言うのも大変だと思います。そのへんの規制的なものはあったのでしょうか?

まず、回答から先に述べますと、
結婚や出産の年齢の「上限」はありましたが、「下限」はありませんでした。
まあ、12歳前後になると、現代で考えると確かに未成熟ではありますが、その時代の風潮として、それ位の歳になれば、もう、周囲からは立派な大人扱いをされましたので、女性も、もう、そうした心づもりで嫁に行ったりしました。
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Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q戦国時代に乗っていた馬

戦国時代に武将たちが乗っていた馬はテレビとかでみて知っている 大きなものではなく
ずっと体の小さな馬だったと聞いたことがあるのですが 本当ですか?

だとしたら 迫力なくてしょぼい気がしますが…

Aベストアンサー

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできません。実際問題、当時の宣教師が残したものには「ヨーロッパの騎士は戦闘になると馬に乗るが、日本の武士は戦闘になると馬から降りる」と書かれてあります。馬ってのは基本的にかなり「高級な乗り物」なんです。皮膚が弱いので衛生状態をよくして世話してやらないとすぐ皮膚病になるし、水をちゃんと飲ませてやらないと便秘になってフン詰まりで死んじゃう。はっきりいえば、人間より手間がかかるんです。

さて、その日本の馬のしょぼさが明治近代陸軍の最大の問題になります。馬が小さすぎて物資や大砲を引っ張る駄馬はもちろん、騎兵馬がどうにもならない。しかも日本の馬というのは当時去勢されてなかったそうで、優秀な軍馬を集めようと明治陸軍が馬を一堂に集めたら、牡馬が一斉に盛ってしまって収拾がつかない大混乱になったと記録に残っています。
そのため、日本の内国産馬の育成の奨励のため競馬が行われるようになりました。JRAは元々は優秀な軍馬を育てるために発足したのです。
日露戦争でも、コサック騎兵で有名なロシアの軍馬に比べると日本の馬はかなり見劣りしたそうです。そのせいか日露戦争では騎兵同士の会戦というのはほとんど行われていません。日本軍があえて回避したようです。遡って日清戦争のときは「騎兵がしょぼい」のが悩みだったようです。
なにしろ、幕末の日本馬でもポニークラスなのに、それよりやや時代が古いナポレオンの軍隊の騎兵馬ときたひにゃ体重が800キロくらい(ちなみに今のサラブレッドが500キロくらいです)、こんなに大きな馬は日本ではばんえい競馬くらいです。重さ800キロが時速40キロくらいで突っ込んでくるんですから、ほとんど軽自動車が突っ込んでくるようなもんですわ。それを肉体で受け止めるスコットランド歩兵もどうかと思います。ワーテルローのネイ将軍の突撃は、さぞや迫力があったと思いますよ。

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできませ...続きを読む

Q抱きしめたときに勃起したあそこが当たったら

自分には、今、付き合って3ヶ月になる彼女がいます。
まだ、肉体関係はありません。
よく、キスはよくするのですが、そのとき
あそこは思いっきり勃起しています。
キスしているとき、彼女がかわいくてかわいくて、
ぎゅっと抱きしめたくなるのですが、
もしそうすると、勃起したあそこが彼女のおなかに
あたりそうなので、抱きしめられずにいます。
女の子は、まだえっちしていない彼氏に
抱きしめられたときに、勃起したあそこがあたるのは
嫌ですか?
抱きしめるときは、勃起していることがバレないように、
ちょっと腰をひいてだきしめるべきなのでしょうか?

Aベストアンサー

gaugau-hoさんの彼女の立場と全く同じ経験を過去にしましたよ~。
まだエッチしてない時で、キスのときに・・・という。
その時の気持ちは、なんかうれしくて、なんかちょっとはずかしいって感じでした。
(へんな話ですが)あとでその感覚を思い出しちゃったりしましたけど・・・
でも決してイヤな気分はしなかったですよ★
むしろ嬉しい、そして、そんな彼がなんかかわいいって感じです。
安心して、ぎゅーーって抱きしめてあげてください!
ちなみに私はそのことについて、口に出して触れてほしくはないです。なんか私もはずかしいから。


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