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架空の人物とあります・・9代天皇まで。
なぜこのような架空の天皇を位置づける必要があったのでしょうか?
どなたかご教授ください。

gooドクター

A 回答 (8件)

支配者・天皇家を「天照大御神の血を引く天津神の子孫」とするためには、神様から人の子になった血統を示す必要があったからです。



古代日本各地でその土地の有力者が「王」として国を築いていた頃、天皇家の祖先を中心とした大きな一族(後の大和朝廷)が現れて彼らを制圧し始めました。
しかし広い地域を一つの勢力だけで制御するのは難し上、戦ばかりではこちらの体力も落ちるし、力で押さえつけた者はいつ寝返るか判りません。
そこで、出雲に侵攻した時期からはどうしても従わない王以外は滅ぼしてしまわず、各地で民に影響力のある王をそのまま傘下に従える方向に転換しました。

まだ神の見えない力が食料や物にすら影響していると信じられていた時代のこと。
自分たち朝廷がこの国を支配する「正当性」を示すため、「お前達の土地神(つまり彼らの先祖)より我々は偉い神の子孫なのだ、このように神から直系の血を引くことが家系として伝わっている」と推し立てれば、反逆は土地神の親に刃を向けるのも同然となり、従わざるを得ません。
また、征服される側でも人死にを出すくらいなら自治権を得て傘下に入る方がマシです。
それには民を納得させる「従う正当な理由」があった方が都合が良かったというのもあります。
(大国主を王とする出雲族がその典型です)

そのために、様々な国津神天津神を組み込み、土地々々で少しづつ違っているような複雑な日本神話が成立し、本来は存在しない空白を埋める9代の天皇が生まれた、というわけです。
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 No.7ですが、追加しなければいけないことがありますので、書いておきます。



 第二次大戦後の1948年(昭和23年)に、江上波夫氏は騎馬民族征服王朝説を発表しました。
 
 つまり、三世紀末にツングース系騎馬民族(扶余族)の高句麗が朝鮮半島を南下し、やがて四世紀初めには九州の地に上陸し一世紀足らずの後、すなわち四世紀末から五世紀初めにかけて近畿地方を征服し、巨大な王権をい確立し天皇家の祖になったする説です。
 
 この説は、極めて雄大かつ魅力に満ちた学説で、その後の水野氏(1952年)の王朝交代説に影響を与えたり、現在も多くの人が深い関心を払っている一方、論証も十分でなく、確たる証拠も無いため、反対する人も多いのです。

 何よりも、これらの学説を採る人は、崇神を最初の天皇としないと数字が合わないので、それ以前の八人の天皇を架空の天皇(闕史八代)としないといけなかったという事情があります。

 反対する学者にしても、以前書いた様に系図・皇統譜が紛失してしまって、詳しい事跡が分からない以上、八人の天皇を分からないということにしておき、今後の研究に任せるとしなければいけなかったのです。
 前にも書いた様に、この学問は証拠一つが発見されただけでガラッと変わり得るものですし。
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 確かに初代神武から9代開化までは実在が明らかではありませんし、10代崇神でさえも謎のベールに包まれています。



 結論から先に言ってしまえば、過去にあったことが分かっている帝王系図や皇統譜が紛失してしまって現在までに伝わっていないからなのです。

 古事記序文に見える帝紀・皇位日継(ひつぎ)・先紀は、いずれも歴代天皇の皇位継承の次第を記録したもので、日本書紀には帝王本記の名も見えます。これらは、、元来ほぼ同一の内容のものであったのでしょうが、しばしば伝写される間に誤記・脱落が生じ、諸本の異同も少なくありませんでした。古事記序文に天武がその繆説(びゅうせつ)を正さんとしたことが見えますが、そのような試みが記紀の編纂に当たって見られたであろうことは疑うべくもありません。
 
 帝紀の具体的内容は、天皇のいみ名、皇居の所在、治世中の重要事項、后妃・子女の名、それに関する重要事項、天皇の享年、治世の年数、山陵の所在などであろうことが古事記の研究から推測されます。ただし、歴代天皇につき、以上の各項の全てが伝えられたとは限りません。
 
 720年、帝紀を重要史料の一つとして選進された日本書紀には系図一巻が添えられたと続日本紀に見えます。この系図は今に伝わりませんが、恐らく天皇を中心とした皇室系図であろうと思われます。何となれば、そのようなものが無ければ、時の天皇家の始祖とも言うべき継体天皇の系譜が書紀本文だけからでは分からないからです。鎌倉末期に編述された卜部兼方(うらべかねかた)の釈日本紀に載せる帝皇系図を日本書紀に副えて進められた系図と考える説もある一方、これが縦系図の体裁をとっていて8世紀のものとは考えられないこと、そして何よりも継体天皇を応神天皇の4世孫として記紀に5世孫とあるに合わないとする説もあり、今後の研究が待たれるところです。
 
 律令制の完成した8世紀以降は官府・宮廷における書紀の制度も整い、天皇の系譜はもとより皇族についてもかなり詳細な記録が残されることとなりました。継
嗣令によると天皇の兄弟・皇子は親王、姉妹・皇女は内親王、それ以下を王・女王と呼び、4世王までを皇親
とし、5世王は王名を許されるが皇親とはされませんでしたが、間もなくこれも中に入れられました。そして、皇親の名簿は宮内省の正親司(おおきみのつかさ)が管理することになりました。
 
 しかし、その後、律令国家が衰退するにつれて皇親の管理も不十分となり、名簿も不完全なものとなったと思われますが、いつしか官府・宮廷にあるべき皇室系図も伝来の消息が不明となり、代わって民間にそれと代わるものが流布されることになったのです。『本朝書籍目録』に菅原為長選の帝王系図一巻(鎌倉時代初期)、平基親の帝王広系図百巻(平安末・鎌倉初)、卜部兼直の帝王系図一巻(鎌倉中期)、中原某の帝王系図2巻(平安末か)などが見えますが、いずれも伝本のあることを聞きません。今、帝王系図として世に伝わるものは、(1)東京大学史料編纂所の影写本(鎌倉中期)(2)前田家所蔵皇胤系図(鎌倉中期)、(3)同上日本帝皇系図(鎌倉末期)、(4)日本皇帝系図(鎌倉末期)などありますが、書籍目録所載のものとの異同はあきらかではありません。
 
 今日、皇室系図としてもっとも著名なのが『本朝皇胤紹運録』です。そして、本書に神代以来の皇統と皇胤を記した系図が載っているのです。


 ここからは蛇足ですが、古代史像を考える時に文献から研究する学者と考古学から研究する学者がいます。
 ただ、考古学の成果を無視して文献のみを頼りにするとデータが圧倒的に限られてきます。
 何故なら古代に生産された書物の数は当然少ない上に、その古代の書物が現在までに残っていることが奇跡的だからです。
 その圧倒的に少なすぎる文献データだけで推論すると文明発生時期や国家発生時期とか全ての時間を遅く推論しがちになってしまいます。

 例えば、少し前までは縄文時代と言えば定住もせず狩りをして裸でふらふら歩いているとイメージの古代人像でしたが、三内丸山遺跡の発見により紀元前3500年頃(世界四大文明よりも古く今から5500年前)に大集落があり高度な文明が1500年間も栄えていたことが分かりました。
 『天皇』という名称にしても、98年に奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から『天皇』と書かれた7世紀(600年代)の最古の木簡が見つかったことで、日本書紀の記述通り、聖徳太子の時代からあったことが分かりそうです。(隋への二度目の国書で『あんたは皇帝、こっちは天皇、別に上下関係はないよ、お元気。』というあれです)
 古代史や考古学の研究は日々発展しており、伝承だからと言ってばかにはできません。伝承の方が実は正しかったということはママあります。
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日本書記に寄れば、磐余彦(神武天皇)が大和を平定


したのがBC660年、これが「建国記念の日」の2月11日
の「紀元節」となり、フィクッションだが明治政府は素直に受け入れることで、天皇の神格化を計ったといわれています、これが、後につずく国家神道の始まりといわれています、代々の天皇家は史実とは別に神武天皇が天皇家の始まりであると信じてきたのです、
それでは、まったくのフィクッションであるかというと、神武東征と同様になんらかの史実が根拠になっているという考えが現在「定説」になっています
詳しくは、天皇の本(学研)にでています、
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当時の日本(と言う国名は無いですが)が対外的に国家と


して認めてもらおうと歴史書を編纂するときに
なるべく古くから存在している国家と言う事にしたいので
神話のなかの人々も存在した天皇としたわけです。
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神武天皇が実在したかどうかははっきりしないようです。



神武天皇が実在したのではないかという立場に立たれる人の本を紹介しておきます。

中公新書 178 著者 安本美典
「神武東遷」

著者は歴史学者ではないので、歴史とは別な観点から神武天皇の存在を分析しているので面白いと思います。 
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ある偉大な功績のあった王様がいたとしましょうか。


異民族の国にやってきて、自慢話をするときに、自分の自慢だけでは箔がつかないので、先祖もすごかったという話から延々とする必要があります。
ですから、イザナギ、イザナミは朝鮮にいた時代の人たちのようですね。
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実在したという説もあります。


架空説では日本の建国を古い時代にもっていったために実在の天皇だけでは代数が足りずに頭の中で9代の天皇を創作したということになります。
ただ、神武天皇については、学者によっては天皇家または先行王朝が九州から大和に移住したときの事跡がひとりの人物に仮託されて、それが神武東征の神話のもとになったという人もいます。
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