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江戸開府以来、大・大名だった加賀・前田家や仙台・伊達家は幕末から明治維新の時期に全くと言って良いほど、その動向や活動を聞くことがありません。
特に伊達家は本家ではなく宇和島の伊達家が幕末に活躍しています。
本来、大名家の中でも大規模な両家が幕末期に何の影響力を果たさなかった(発揮しなかった)理由みたいなものはあるのでしょうか?

A 回答 (3件)

加賀前田は日和見というよりも、自藩存続を第一に考えて行動してました。


加賀藩は幕府との結びつきも強く、佐幕派の領袖ですから、公武合体の周旋なども積極的に行っています。京都の公家や調停に対しても、姻戚関係がある二条家などを通じて、積極的に働きかけています。
ただ、京都詰家老に絶対的な権限が無かったことと、北陸に閉じこもっている国許の家老の情報判断の無さが致命的でしたし、藩内の意見もまとまりきらなかったので、後手後手を踏む結果になったのが、後世から日和見と言われる所以だと思います。
一ツ橋慶喜は加賀藩に期待していたみたいで、書簡などもたくさん送っていますし、加賀藩側も幕府に尽くすという態度は取りつづけるのですが、それは幕府と一蓮托生という強い気持ちではなく、幕府のほうが旨味が大きいといったものなので、禁門の変や戊辰戦争で幕府の敗北の可能性が大きくなると、一転していくわけです。。

つまり、それなりに京都で情報収集したり、政治活動を行ったりするのですが、藩内もまとまっていないのと、薩摩や長州みたいに自藩をぶち壊してまでの改革する強烈なビジョンは持ち合わせていなかったという結論になります。
おそらく、加賀藩は江戸時代的な思考だったんです。情報処理、政治判断など極めて江戸時代的でしたから、むしろ、幕末にいたっても藩機構がしっかりしていたというべきなのでしょう。
長州や薩摩みたいに、下賎の輩に政治を支配されていなかったということですw

ただ、質問者さんがいうように、動向や活動を聞くことがないのは、後世の歴史家が、幕末を近代化の課程の第一歩と結びつけたためと思われます。近代化という点では、加賀藩や仙台・伊達なんかは何もしていません。
それに対して薩摩・長州の功績ははかりしれないものがあるから、喧伝されてきたし研究もされてきたのです。
加賀藩や仙台・伊達のような滅びゆく江戸時代的なものと、新しいエネルギーに満ち溢れた長州・薩摩を中心とした明治政府なら、明治政府に焦点があたってきたのも当然かと思います。

全国の諸藩が影響力がなかったというよりは、後世の取り上げ方が恣意的だったと考えても良いと思いますよ。
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加賀前田家については禁門の変のときに嫡子が手兵を率いて御所の警備をしていましたが、長州勢との衝突を避けて近江の飛び地に移動しましたが、これが藩主のいれるところにならず嫡子は蟄居、ついていた家老は切腹、さのた幹部は蝋に入れられたり流刑になったりしましたが、薩長勢の討幕派が優勢になると藩主は隠居し嫡子に地位を譲りました。

ういうことで前田家はどちらかというと佐幕派のスタンスでしたが結局日和見に終始しました。
仙台伊達家についても佐幕派のスタンスで、幕府が倒れて合会津藩が追悼され根ことになったときに奥州諸藩は奥羽越列藩同盟を組んで官軍に対抗しましたが、そのときに仙台藩が盟主になりました。
しかし、白川口ほかの戦闘に破れたあと同盟の足並みが揃わなくなり官軍に願えるところも多くなって同盟は腰砕けになり仙台藩はなすところなく降伏してしまいました。
仙台藩の場合はまずひとつは明確なビジョンをもてなかったこと、奥州諸藩をまとめる指導力がなかったことが維新で影響力を及ぼせなかった原因でしょう。
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加賀・前田家は独自に海軍を創設しています。

梅鉢海軍と称しました。戊辰戦争では長岡に出兵しています。

仙台・伊達家は東北の奥羽越列藩同盟の盟主でしたが、兵の質が悪く「ドン五里兵」と呼ばれるほど体たらくな軍隊でした。

「ドン五里」とは大砲がドンとなると5里後退するという意味です。
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