中国の歴史には興味はあっても、全く知識はない者です。
テレビで始皇帝暗殺について見ました。
始皇帝が造ったかもしれない地下都市と兵馬傭抗についても取り上げていました。しかし、地下都市と巨大兵馬傭についての説明はあまりなかったように思います。

そこで、
なぜ巨大な兵馬傭を造ったのか?(この質問はなぜ巨大か?と言うことが一番知りたいです)
本当に地下都市は存在するのか?
もし地下都市が存在するなら、それはなぜ造られたのか?

自分は兵馬俑は始皇帝の偉大さの象徴
地下都市は存在していて、始皇帝があの世で不自由なく過ごせるように・・・。
などと勝手なことを考えています。

また、呂不韋は本当に始皇帝を暗殺したのか?
自分は、呂不韋が暗殺したと思います。
これについても皆さんの考えを教えてください。

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A 回答 (5件)

始皇帝陵の巨大さは確かにすごいものですが、かれは中国を統一し敵対するものは域外の蛮族だけでこれに対しては万里の長城を建設中でした。



阿望宮などの規模を見ても彼の建設する工事はいずれもその規模において群を抜いています。
その延長線上にあったと考えられます。

当時殉死の思想は存在しましたが近衛軍団を殉死させれば強大な軍事力に穴があき子孫の運命にかかわるので、さすがにそれは躊躇したのでしょう。
そのかわり等身大の実物そっくりさんの兵馬傭に拘ったのだと思います。 少なくとも死後も信頼する軍団を率いていたかったのでしょう。 兵馬傭はまだ発掘中で8000体以上になる可能性があり数だけでも巨大です。

始皇帝は不老不死を願望していましたから最後までその希望を抱いていたと思います。
従って青銅の車両はそれに乗って全国巡行を行うつもりで特に精巧に作らせたのだと考えます。

兵馬傭の表情から実物をモデルに使用した筈でその精巧さは専門家でないと製作出来ないと思われ、陶工技術者の存在が必要だったでしょう。

地下都市の存在は科学探査で確かめられており、水銀を使用した湖沼河川の存在も期待されますがこれらはすべての発掘まで謎のままでしょう。
史記の記述は200年も後世のものですから伝承を含む真偽混在の可能性もあります。

ナポレオンの遺髪の科学分析でヒ素慢性中毒が立証され毒殺が確定しましたが、始皇帝の遺体の科学分析が可能にならなくては死因の断定は不可能でしょう。
始皇帝陵の巨大さはあくまでも実際のコピーに拘った建造思想によるものでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
発掘まで謎ですかぁ。
自分は、水銀の川はあってほしいと思います。
あったらおもしろいのにと思う程度ですが・・・。
ss79様のご回答にもあるように、実際に発掘しないと分からないのですが。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2005/12/06 16:52

私も「単に実物大、または1/2という大スケールで製作したから大きくなった」と考えます。


陶俑で墳墓を守護させたのは日本でも「埴輪」がありますので、八千ぐらいなら「数だけは」そろうのでは?

ただ、埴輪と兵馬俑では、精度などの技術面でも大きく差がありますわね。金属製の物があるというのもちょっと他ではまねの出来ない所かも。

でもやっぱり「なぜ巨大なのか?」と聞かれたら「それを実現できるだけの権力を持っていたから」というのが答えのように思います。日本の権力者も「可能だったらあのような墳墓にしたかった」のではないでしょうか?出来るだけ大きく、出来るだけ高精度に・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
精巧に作るのには大変ですよね。
陶傭の数は、それほど関係ナイのかもしれませんね。
陶傭を作ったのは罪人や奴隷、農民だったそうです。
権力誇示には時間も労力もかかるので、権力者でなければできませんね。

お礼日時:2005/12/05 00:59

現実の世界では始皇帝が暗殺された証拠は全くありません。


始皇帝は自然死したと史記やその他の歴史書は書き記してます。
趙高は始皇帝の寵臣ですが、宦官なので始皇帝が生きていないとその権限は存在しません。
だから彼が始皇帝を暗殺する可能性は0%です。
というか、意味がないです。
趙高は始皇帝の死亡を隠して、皇太子扶蘇を忙殺し、李斯と図って、自分が意のままに操れる胡亥を二代目皇帝にすえたわけ。

巨大な地下陵墓は、”等身大”で作ったから、巨大になっただけで、死後の世界の生活のためにすべてのものを土偶で造ったのです。
兵馬だけでなく、日常生活に必要なものはすべて作られました。
一般的に、他の陵墓などでは何分の一かの縮尺でつくもんなのですが、始皇帝はビックに等身大でやったということです。
巨大な陵墓は偉大さの象徴といえば、そうですが、大きく作ったんじゃなくて、あくまでも実物サイズに拘っただけ。

この回答への補足

実物大サイズで作ったから大きくなったんですねぇ。
では、等身大の陶俑や陶馬が約8,000体あるそうなのですが、これはビックな数字ではないのでしょうか?

自分は等身大というのももちろんですが、数も多いので傭抗は大きくなったのかぁと考えていました。

補足日時:2005/12/04 23:04
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昨日の番組をご覧になったんですね。


私も見てましたが、片手間に見てましたので、あんまり聞いてないとこもありました(^_^;)
私もほとんどしっかりした知識はありませんが、おっしゃるように、皇帝が死んだあとにも死後の世界で変わらない生活が送れるようにではないでしょうか。兵馬傭が大きいのは、実際の人間と同じようにするためなのでは?地下都市というか死後の世界用なのかと思います。
呂不韋がケイカを放ったという解釈なんでしたっけ?結局あそこでは皇帝は死にませんでしたから、その意味では結局「暗殺した」のは張高ということになるんでしょうが、呂不韋もやっぱりいろいろ狙ってたんでしょうかねえ。
あんまり答えになってなくてすみません(^_^;)
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この回答へのお礼

ありがとうございます!
参考になります。
兵馬傭が等身大なのは、死後の世界でも兵を遣うという解釈でよろしいのでしょうか。
永遠にこの謎は解決いないかもしれませんが、皆さんと推測するだけでも楽しいものですね。

お礼日時:2005/12/04 22:29

後半だけ


始皇帝暗殺はちょうこうではないでしょうか
呂不偉は父親かも知れないといわれている人だと
思います
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この回答へのお礼

早速のご指摘ありがとうございます。
テレビでも呂不偉でなく趙高でした。
質問する前に調べておくべきでした。

今後、この質問を閲覧していただく皆様にこの場を借りて訂正とお詫びしたいと思います。
申し訳ないです。

お礼日時:2005/12/04 22:20

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始皇帝は有名なもので3回刺客に襲われています。
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・荊軻

前提1
秦王政(始皇帝になる前)は幼少時に人質として趙の人質として
すごしていましたが、その時に同じ人質として燕の王子である丹は
友人としてすごしていました。
時代が変わり、丹が燕の人質として秦にやって来たとき、
旧交を懐かしむ丹に秦王政は冷淡で、待遇もよくありませんでした。
このことで丹は人質の身分にもかかわらず逃亡しました。

前提2
秦王政が経済的理由などで軍制改革の一環として少数精鋭を勧め
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しばらく荊軻は丹に厚遇されましたが動きませんでした。
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関心を買うことで近づいて暗殺することにして、樊於期に相談し
樊於期は自分の首が役立つならと喜んで自害しました。
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いろいろお話はありますが、暗殺は周知のとおり失敗し、
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宦官に偽装していましたが、密告により露見して反乱を起こします。
しかし、予め準備していた秦王政により返り討ちにあい、車裂きの刑に。
この後、呂不韋も失脚しその後自害しました。

始皇帝は有名なもので3回刺客に襲われています。
いずれも未遂なので、暗殺未遂事件です。

・荊軻

前提1
秦王政(始皇帝になる前)は幼少時に人質として趙の人質として
すごしていましたが、その時に同じ人質として燕の王子である丹は
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自由な回答お待ちしております。

ちなみに私は

(1)犯人名前(首謀者でもいいです)
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大政奉還で煮え湯を一番飲まされたのは薩摩藩士で、幕府、長州、薩摩、外国人とも繋がりがあり人気もあったのも竜馬であり、船中八策(新政府の人事案)を書けるぐらいの実力を持っていたから。

Aベストアンサー

黒幕は薩摩藩で実行犯は見廻組だと思います。
すでに見廻組の今井は自供してますし、佐々木は坂本竜馬を暗殺できるほどの実力者です。
佐々木らにとって竜馬は幕府を無くした張本人で憎んでも憎みきれない恨みがあったと推測できます。
その恨みを利用して邪魔になった竜馬を薩摩が葬ったと思います。
薩摩は見廻組にも知り合いがいたらしいですし、密書で竜馬の居場所を教えれば見廻組は即討ちに行くと考えます。
薩摩が直接竜馬を襲い、もし失敗すれば身元が割れて土佐が黙ってません。影響力のある竜馬を薩摩は表面上は敵視できなかったでしょう。竜馬に恨みを持つ幕府側に竜馬を打たせれば、邪魔者である竜馬が消える上に、武力倒幕を嫌がっていた土佐が激怒し、薩長は土佐を完全に見方につけることができます。さらに「竜馬をはじめ数々の同士を殺した恨み」と旧幕府を潰す大義名分の一つにもできます。
この策なら一石三丁にも四丁にもなるわけです。


薩摩志士でも豪快な中村半次郎(桐野利秋)が首謀者なら直接竜馬を襲いそうですが
頭脳派の大久保利通ならこうゆう緻密な計画を立てそうです。

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勿論それに影響を与えた思想家の影響も見逃せませんが・・・

彼ら軍人は実際の軍の行動は自分たちの立案で動くものであり、上層部はただ命令権者に過ぎないと考えていました。

従って命令権者を交代させれば、万事思うままになるという世界に住んでいたのです。
首謀者に参謀や同等な将校が多いのはそのせいです。
武力は上層部や天皇を持ち出せば自由に動かせました。
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暗殺というのは交代の究極の姿です。
彼らにはそれを正当化する理由づけもできました。

Qカッパドキアの地下都市について

大学でカッパドキアの地下都市についてレポートを書きたいと思うのですが、なかなかそれについて書かれた本が見当たりません。簡単に書かれたものでご存知の方教えてください。

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柳宗元の「秘境のキリスト教美術」岩波新書は2割くらいがカッパドキアを扱ってます。美術的観点からの紹介ですけど
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