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高松藩主の内、初代頼重・五代頼恭は正三位に、九代頼恕は従三位に叙任されている様ですが、どうして主家の水戸藩主(初代以外は従三位)より位階が高位なのでしょうか?

位階の点では、同じ溜間の御家門の会津松平や越前松平は三位の当主がいないのに、どうして水戸連枝の高松藩主だけ三位の当主が(幕末を除いて)複数いるのでしょうか。

A 回答 (2件)

かなり的外れですが、ひょっとすると黄門様のご威光ではないでしょうか。


初代頼重は従四位上少将の官位で亡くなり、死後贈正三位になっています。
しかも贈正三位が与えられたのは大正8年11月15日ですから、何か政策的なものがあったのではないでしょうか?
幕末の頼聰は更に上の従二位になっており、明治政府としては黄門様の子孫を優遇するなどの政策ではなかったかと予想します。
根拠は無いので、詳しい方の解説をお願いします。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
頼重の正三位は遺贈なのですね。しかも大正時代ですか。
幕末は官位の叩き売り状態の様なので別にしても、後世になっての遺贈という事なら話は分かる気がします。

お礼日時:2006/01/09 13:23

高松藩初代藩主は松平頼重。


あの有名な黄門様こと水戸藩主徳川光圀の実のお兄さんです。
水戸藩といえば尾張家・紀伊家と並ぶ徳川御三家の一つですね。
兄弟のお父さん、水戸藩初代藩主徳川頼房は、初代将軍・徳川家康の十一男。
頼房に長男頼重が生まれた時、兄の尾張義直(九男)、
紀伊頼宣(十男)にまだ子がなかったことから、
それをはばかり、頼重を公家に預けます。
やがて二人の兄にも子が生まれた後に
三男水戸光圀が生まれたため、彼をを嫡男としたのでした。

三代将軍・徳川家光(家康の孫)は、本来長男でありながら
水戸藩主になれなかった叔父・松平頼重を気にかけ、高松藩12万石を与えます。
内高は16万石とも言われ、尾張・紀伊・水戸の他の分家各藩が
2~3万石であるのに比べると破格の扱いです。
また実の兄を差し置いて徳川御三家を継ぐ事になってしまった事を
気にかけていた黄門様は、
兄の息子(甥)を養子にもらって次期水戸藩主とし、自分の子は兄に養子に出して
高松藩を継がせたのでした。
美談として結構有名なエピソードです。

関係ないけどちょっと前、
「自分は水戸の当主だ。つまり水戸黄門の子孫になる」
と言って詐欺を働いたジジイがいましたね。
上記のような訳で、『水戸黄門=水戸家当主』なんだけど、
『水戸家当主≠水戸黄門の子孫」なのです。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
高松松平家が御三家連枝で突出した石高になったのはそういう理由みたいですね。

お礼日時:2006/01/09 13:27

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