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徳川御三家である水戸藩がなぜ尊王に走ったんですか?藤田東湖や徳川斉昭の尊王思想はなぜ?

A 回答 (1件)

初めまして、eiki8199と申します。



「水戸学」を調べると良いと思います。なお、水戸藩は、正確には、御三家ではなく、御三家に準じる家柄だったようです(家康は将軍家、尾張家、紀州家を御三家とよんだと伝えられています、家光の代以降御三家と言われたと思われます)。

「水戸学」について、説明を加えますと、江戸幕府は、身分制度を維持するため、徳川綱吉のころより、上下の秩序を重んじる「儒学」を強く推奨しました。「儒学=儒教」の発祥の地、中国では、宋の時代に、儒教を発展させ「朱子学」が生まれました。それが平安時代の末期頃、日本に伝わり、江戸時代のころには、朱子学も諸派に別れ、朱子学の一派である、南村梅軒によって「南学」として発展した系統がうまれました。

その「南学」の系統から出た山崎闇斎が、垂加神道(すいかしんとう=神の徳と天皇の徳は一体であり、尊王論の根拠となる)という考え方を主張しました。

また、これとは別に、契沖(けいちゅう)から始まった学問の系統「国学派」があり、その系統の末期に出た1人、平田篤胤は、幕末復古神道(ふっこしんとう)を唱えました。

この「垂加神道」「復古神道」の2つの考え方が、尊王攘夷論として、幕末の思想に影響を与えたものと思われます。もともとは、2つとも幕府政治を否定するものではなく、将軍は天皇の委任によって政治を任されていると、解釈するものでした。

「水戸学」も、水戸黄門の別称で有名な「水戸光圀」によって、朱子学的な視点から、歴史をより正確に編纂されたものと言われています。「垂加神道」や「復古神道」と互いに影響しあいながら、まとめられたものと思われます。

しかしながら、幕府は、8代将軍「徳川吉宗」以降、御三家よりも、御三卿(ごさんきょう)とよばれる、「清水家」「田安家」「一橋家」を非常時の将軍の代替権利があるお家としたため、ただでさえ、御三家の中でも一段低く見られていた、「水戸家」はおもしろくありません。

藤田東湖も、水戸藩においては、儒学者の1人であり、徳川斉昭の擁立に努力した人です。もともとは、幕府に恨みはなかったと思われますが、徳川斉昭が1844年、幕府の外交政策に意見をし、蟄居謹慎を命じられました。

それをきっかけに、水戸藩こそ、勤王の旗頭足らんと欲したものと思われます。ちょうど、そのころ、平田篤胤の「復古神道」が幕府政治の乱れと、内外の危機によって、各地に浸透をはじめたころと時代が一致し、水戸学を唱える水戸藩は、尊皇攘夷の旗頭として台頭して来たものと考えます。

もともとは、同じ徳川でありながら、本当に、不思議といえば不思議ですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。なるほど。幕府体制に対するそういう不満があったんですね。朱子学によって尊王思想が始まったのは知ってたのですがそれがどういう背景で広がったのか勉強になりました。

もう一つの側面として家康が水戸家に、朝廷と幕府が争う事があったら御家存続のために・・つまりどっちが勝ってもいいように朝廷側につくように厳命したと聞いた事あります。

と言っても同じ徳川ですから「止むを得ず」水戸は朝廷側につくというのが心情だと思いますが、率先して尊王を唱えるのが疑問でした。ありがとうございます。

お礼日時:2002/01/18 18:31

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