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よくは知りませんが、日本と中国では兵力に圧倒的な差があったはずです。現に盧溝橋事件からあっという間に首都陥落まで行きました。
そこからは泥沼に陥ってどうしようもなくなるわけですが、
何故その勢いのまま勝てなかったのでしょう?

A 回答 (13件中1~10件)

アメリカが介入したからでしょう。

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南方戦線まで範囲を広げたため他諸国との戦闘が増えたため。

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補給力の問題です。


古代おいては食料、現代においては燃料・弾薬・食料・医薬品などの補給物資が必須となります。

ところが、前線に必要な補給物資を運ぶ能力は、本国を離れれば離れるほど低下します。
そのため、敵地に勢いよく進撃していっても、補給力が次第に弱まるため、どこかで必ず攻勢限界に達してしまうわけです。

物資を運ぶ手段が時代によって異なるので、攻勢限界地点は時代や国ごとに異なりますが、この法則は現代でも有効であり続けています。

また進撃する側は、領土を奪えば奪うほど、それを守るための部隊が必要となり、最前線での戦闘力が低下します。
一方、攻められる側は、領土を占領されて後退しても、かえって守備範囲が狭くなるため、補給線さえ確保すれば、かえって前線での兵力密度が高くなるわけです。

この辺の事情は、ナポレオンのロシア遠征や、第二次世界大戦の独ソ戦のことを調べると、理解が早いかと思います。
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中国に対し、アメリカは武器の供与などのコテ入れをしていました。


そして、石油、くず鉄などの輸出を禁止します。

この時点で、戦争の遂行が怪しくなりました。
日中戦争は、石油の備蓄を使い果たしても勝利出来る程簡単ではありませんでした。

日米交渉は一時期、
南方(ベトナム)からの日本軍撤退などの譲歩で、3ヶ月の暫定的な輸出再開まで漕ぎつく寸前まで行きます。(フィリピン付近の安全の保障)

外交電文の傍受で交渉は優位に進みます。

ここで中国の外交手腕が物を言います。
「日本人は嘘がうまい。輸出が再開したら、秘密裏に軍隊を元に戻す。」
「アメリカに攻撃する武器、弾薬、燃料をアメリカから買っているだけだ。」

ここで輸出が再開された場合、中国は絶対に勝てない事を充分認識していました。
更に戦闘機などの供与の増強も依頼します。

こう言う時、
「南方に向かう日本軍の大船団を発見。」
の報告があり、
ルーズベルトは怒りに震えました。
(実は、輸送船3隻の誤報)

翌日、日本には、「最終通告」とも言える内容が付きつけられました。

傍受内容と大きく違う内容で
外務省は対処不能な状態に陥ります。

交渉が上手く行かない場合、12月8日までを期限とする。これ以上の場合戦争を開始する。

この陸軍省の期限以内に外務省は交渉成立が出来ず、

外務省の交渉結果、
「最終通告」と言う結果は、
会戦止む無しの意見を否定は出来ませんでした。
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 基本的には、No.3の方の回答通りです。



 大陸国家の基本戦略で、戦闘主力を温存しながら、どんどん退却してゆき、相手が補給の限界に達したとき、一気に攻勢を掛けます。
 攻勢を掛けて見て、まだ相手の戦闘力が十分にあると判断したら、本隊攻撃を中止し、再度補給路の攻撃に切り替えます。

 侵攻軍は、点=都市と線=補給路を維持するのが精一杯となり、面の支配はほとんどできません。

 ナポレオンのロシア遠征や独ソ戦は好例です。

 また、最近のイラクでのアメリカ軍の状態や1980年代のソ連のアフガン戦争、1970年代のベトナム戦争など、大国が小国を完全占領することさえ、至難の業です。
 大抵は、攻めた方の国の国家財政が破綻に瀕し、戦争終結を余儀なくさせられます。
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中華民国の国民政府は、重慶に移転しました。


日本軍は、沿岸部から遥かに遠い重慶まで陸上を進撃することは不可能です。かつ、アメリカのB17やB29のような「エンジン4発・成層圏を飛び戦闘機で迎撃困難・重防御で容易に落ちない・数トンの爆弾を搭載」の戦略爆撃機は日本にはなく、空襲で重慶を焼け野原にすることも出来ませんでした。

結局、重慶に移った国民政府に対して有効な攻撃を加えることが出来ない以上、蒋介石政府を打倒する事は不可能となりました。
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基本的に幾つかの原因をあげると、


1.国土と人口の差が甚大でありその意味を日本は正確に把握していなかった。
2.国民の自意識が高いか高くなると防衛本能は高くなる事を理解していなかった。

近代戦では兵数と装備、それらの質で勝敗はきまります。 しかしこれは戦闘行為に限られ、戦争目的とは必ずしも同一にならないのが近代戦なのです。

これは個々の戦闘では勝利しながら結局戦争に敗れた日本やイラク戦争でのアメリカの立場をみれば容易に理解できましょう。

当時の軍部の考えでは首都を落とせば勝利という前近代的な思想でいました。  この為無理な強行軍を重ねて首都南京を占領し、これで戦争は終わったと考えたのです。  兵士らは凱旋出来ると夢想しました。
しかし中国側は奥地の重慶に首都を移し、抗戦を継続したのです。

ここで「1」の理由が効いてきます。 遠距離のため当時の日本には攻撃の手段は空襲しかなく、爆撃機だけしか使用出来ない状態で機材、パイロットの損失は多大でした。  幸いゼロ戦の開発が間に合いこの問題は解決しましたが、長途の飛行で燃料消費が大、爆弾搭載量も少なく、与える損害もしれていました。
陸軍の兵力も占領地を拡大していける余裕は無く限界に達しており、補給は現地で略奪するしかない状態でここで「2」の理由が効いてきます。

中国の知識層は本来ナショナリズムに目覚めた所で、大衆は略奪の被害にあって自衛戦争の自覚を持ちはじめました。 ゲリラ戦が始まると日本軍は兵力を自衛の為固定されて攻勢に出るにはさらなる増強が必要でしたが国力の限界でした。
外国の援助は中国軍が攻勢にでる事には寄与しましたが、それがなくとも日本軍は自滅したでしょう。
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 こんにちは。


 日中戦争では、中国軍は劣勢になると奥地へ首都を移していきました。これを敗走と見た日本軍は追撃していきます。戦争では、敗走軍を追撃するのが一番効果がありますが、そのために補給路が延びすぎてしまいました。日本軍にとって、首都を内陸へ内陸へと移動させる行動は想定していなかったと思います(通常の戦争は、首都が陥落したら降伏になります)。また、飛行機の数、陸上輸送車も中国を一気に攻めれるだけの装備もありませんでした。
 補給路が延び過ぎたことも要因と思いますが、米英と日本の戦略の違いだと思います。米英は日本との戦争を想定して、日本の軍事物資を消耗させようと考え、その手段が日中戦争です。日中戦争、太平洋戦争とも消耗戦です。資源のある国と無い国が戦争すれば、どちらが勝つかは明白です。
 このような戦略を持った国と戦略を持たない国の戦争だから負けるべくして負けたということです。本題からそれてしまいすいません。
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中国は民衆を盾に出来た。


しかし日本は出来なかった。

この差ですね。
モンゴルが中国統一したのは占領した中国人を中国人にぶつけたから統一できたのです。
モンゴル直属の軍隊はほとんど被害を受けてません。
これはローマ帝国も似たようなものです。
自国の軍隊ではなく、占領した場所から軍を編成して領土拡大、または維持させていたのですから。

日本は最後まで日本軍で中国を攻撃しました。
中国領土を占領しそこで新たな大規模軍隊組織を編成して進撃が出来なかったのです。

つまり、占領しても占領地民が増えて軍の負担が増えるばかりで日本が自滅していっただけなのです。
しかも防衛は日本軍。中国人で組織できなかった。

結局戦力分散して遊兵を作ってしまい、ゲリラ戦で各個撃破され続けたのです。
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再び、違う観点から見ますとドイツのヨーロッパ戦線におけるような機甲師団がなかったのと、決定的な制空権の掌握をしなくて南方戦線へ目を向けてしまった。

陸軍と海軍での航空機開発が縦割りで行われており、他国みたいに一元開発ができず無駄がおおかったこと、海洋国のため軍艦製造へ力を入れており戦車等の開発が遅れてるのと、新規開発されたものの実践配備が遅れたこと。
蒋介石と毛沢東のゲリラ化等色々のものが絡み合い、ノルマンディー上陸の成功によりアメリカの戦力が太平洋へ向けることができた。
ドイツがイギリスを制圧できていたら、イタリアが持ちこたえてたら、ロシア戦線での失敗、ロンメルの敗戦がなかったら戦局はわからなかったかもしれませんね。
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