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大きな敗戦とか、ミスとか史実に残ってるのでしょうか?天寿をまっとうしたのでしたっけ?病気で死んだ?

いま流行語になった「想定外」という言葉を考えてまして、ちょっと気になりました。

A 回答 (8件)

諸葛亮の失敗といえば、街亭での戦いで、馬謖に指揮を任せてしまったことではないでしょうか?


馬謖は自分の能力を過信してしまい、結果、蜀軍は敗走し、馬謖は処刑されました。
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この回答へのお礼

早速回答ありがとう。
あ、それ、なんか聴いたことあります。「泣いて馬食を斬る」ていうヤツですよね。けっこう独断の抜擢だったのでしょうか?大敗だったのかなあ。

お礼日時:2006/05/08 23:39

後継者の育成でしょうか。


人口がすくなかったせいもあるでしょうが。
53か54歳で、戦の中で病死だったような…
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この回答へのお礼

早速回答ありがとう。
ううむ。なかなか直接、自分の失敗はなさそうなのかなあ。歴史上の大天才の大失敗・大誤算というのが知りたかったのです。

お礼日時:2006/05/08 23:41

諸葛亮の最大の失敗は、人材育成ができなかった事です。



諸葛亮は、天才であるがゆえに、他人の行う事が、まどろっこしくて、自分が行ったほうが、効率的である事を理解していました。
そりため、何でも自分が行ったため、他人に経験を積ませ、人材育成が、なおざりになっていました。

また、劉備と異なり、人材を見る目も無く、適材適所を行えませんでした。

劉備が、使うなと言った馬謖を優遇した事、蜀で最も有能で、劉備の信任のあつい魏延を無視した事、そして蜀を滅ぼした張本人、姜維の登用。

人事に関して、諸葛亮は、全くの失敗者でした。
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この回答へのお礼

回答ありがとう。
へえ劉備と意見が割れてたんですね。魏延はたしか、なんか裏切り者になったんでしたっけ。アレ、姜維は蜀を破滅さしたんですか。知らなかった。そういえば、キョウイの姜の字は、蛮族で卑しそうな字ですよね。いやあゲームキャラとしてはどっちも好きなんですけど。

お礼日時:2006/05/09 23:09

諸葛孔明は「北伐」に失敗してます。


三国志演義だと何となく上手く行かなかったような
話のつくりになってますが
実際は完全な敗北です。
無理な遠征を4度も5度も、小国の蜀が行ったことが
滅亡の原因ですから、孔明の失敗は致命的。
脚色のない史実の孔明は戦闘を指揮した経験が全く無く
個人の力で勝った経験もほとんどありません。
南蛮遠征はただの鎮定作業だったので
彼個人の軍事的功績と判断できるものは実は皆無なのです。


人材育成云々については、
三国志を題材にしたオッサンくさいビジネス書が
テーマにしそうな内容ですが
現実的には個人の力で人材を育成するというのは
無理ですし、そもそも孔明の権限外です。

蜀の社会がいくつかの名家・豪族で構成されていました。
それを無視して優秀な人材を出自に関わらず
高位高官に就けるのは、孔明が自分の派閥を独断で
作るようなもので
内乱を誘発するのようなものですし
「九品中正法」のような人材登用の道を作るのは
強力な中央集権と皇帝のリーダーシップが必要です。
蜀は、魏よりも体制が脆弱で、氏族の協力なしには
そもそも成り立たなかったでしょう。

また魏・晋に多数の人材が登場するのは
単純に人口の差と考えて間違いないです。
司馬仲達だって別に特別な人材育成を行ったわけではありませんし
むしろ派閥・門閥主義で縁故採用が多い。

三国全体を見ても高官は、実は血縁者ばかりで
能力主義ではありませんでした。
曹操のように個人的な抜擢をした君主は少数で
だからこそ曹操のもとには個
人的に忠誠をつくす青洲兵なんかがいたわけだし
非常に例外的だったのです。

だから人材育成を孔明の非とするのは全く見当違いの
不公平な評価でしょう。
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとう。おお新しい意見ですね。

ああ曹操の抜擢は、能力主義っぱいですよね。ウキンでしたっけ。北伐かあ、ちょっと調べてみようと思いました。

お礼日時:2006/05/09 23:14

1.劉表の死語、刑州の太守を継ぐよう主君に進言したが、却下されて天下統一の体系を立てる第一歩を踏み出せなかった。


2.司馬仲達との戦いで、馬しょくを起用して敗北した。これは孔明の人選ミスです。
3.入蜀の際、プライドの高い関羽を刑州に残してきたこと。当初は、関羽以外に適任者がいなかったといえばそれまでだが…。

彼は病死です。
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この回答へのお礼

回答ありがとう。

馬謖起用説、3票目ですね。軍師としての戦略ミスかなあ。関羽は非業の死でしたねー。やはり病死ですか。

お礼日時:2006/05/09 23:20

合戦ではすくなくとも優秀であるかというと上の下といったところでしょう。


三国志演義ではまさに神がかっていますが、実際の諸葛亮は内政では最高峰の評価を与えられているものの戦では言葉を濁した評価を受けています。

人材登用ですが・・・これは難しいところですね。
もともと蜀は寄せ集めのような国(劉備なんかは北東の果てに近いところの出身ですね)ですから、魏のようにとてつもないリーダーでまとめられているわけではありません(正史における曹操の評価は破格の人。つまり常識では図ることができないとしています)。
劉備には曹操ほどの内政能力もなければ戦上手でもありません。ましてやその子である劉禅には・・・
しかし、蜀という国は非常に脆弱で、魏にくらべれば国力におとり、呉にくらべれば基盤に劣ります。こういった国を強くするには実際のところ上がガシガシ引っ張っていかなければいけないところですが・・・もちろん人材の登用も上がどんどんしなければなりません。特に蜀の人材不足は深刻であったといえます(もちろん使い方の問題ですり減らしてしまったせいもありますが)。
そういった、中央集権的なものを作る(つまり国家として強固な基盤をつくる)ことができなかったのは諸葛亮の失敗であるといえるでしょう。
北伐のよしあしはともかくとして、これを行っていることからも魏を倒すという目標があったのは明確です。しかしそのための基盤をつくらなかった。魏を攻めないで天険である蜀防衛を主にするのならばそれほどまでに強固なものは必要ないのでしょうが、天下統一となれば・・・まあ、作れなかったという見方もできるのでしょうが・・・
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この回答へのお礼

長文回答ありがとう。

やはり人選すか。まあ国力的に不利な面もあったすよねえ。確かに五虎将は華やかっぽいすけど。3/5は古参だし。厳ガンとか黄忠とか爺さんが、目立つくらい、若手もショぼそうですもんね。うーん個人的に蜀キャラはあまり好きなキャラも少ないし。呂モウとか陸孫クラスに匹敵するのも少なそうだし。

お礼日時:2006/05/09 23:28

私もANo.5さんの回答にあるように、関羽将軍に荊州を任せてしまったことに尽きると思います。


荊州を失ってから局面が全く変わってしまいました。
法正、鳳雛と軍師を立て続けに亡くし、自ら益州へ入ることになってしまうのですが、この際に荊州の守りを別な将軍に任命していれば、この後の蜀の命運は変わっていたかも知れません。
いや荊州を離れるべきではなかったと思います。
誰が適任と言われると、・・・・?です。
p.s.関羽将軍は三国志の登場人物で一番好きです。

反論するつもりではないのですが、好きなもので・・・(恥
> 人材育成、人材登用
日本の戦国時代を準えるのは間違いかも知れませんが、立身出世は個人の才覚であり自ら研鑽すべきで、丞相のミスとは思えません。
> 馬謖の登用
軍令違反を犯したのは馬謖であって、人選ミスを責めるのはどうかと思います。馬謖の本質を見抜けなかった・・?。見抜いていたからこその軍令です。
> 北伐
荊州を失って経済基盤がない中、益州に篭っていては「座して死を待つのみ」で、いずれ魏に滅ぼされるでしょう。
で、呉とは外交上良好な関係を維持しつつ、まず関中を押さえて中原を狙うのは常套手段ではないでしょうか?
漢王朝(劉姓)の復興を本気で考えていたかは分かりませんが、生存中に漢中を得て経済基盤の確立を目指したのが本意のような気がします。
北伐の成果は上がっていませんが、司馬懿が「天下の奇才である」と讃嘆したとも伝わっていますので、非凡とは言えないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとう。
荊州って重要だったんですね。

お礼日時:2006/05/14 22:55

皆さんが関羽に荊州を任せていたことなどを書かれているので、ほかの観点から書きます。


諸葛亮は君主の劉備の甘さに足をとられたのではないでしょうか。赤壁の戦いで関羽は曹操を取り逃がした(以前曹操に助けてもらい、そのとき攻めてきた袁紹軍の顔良、文醜を討ち取り、恩を返した。そのため、曹操との間に信頼関係ができており、そのため許した)という事実があり、関羽を処刑しようとしたが、劉備が「弟を許してやってほしい」というので諸葛亮は関羽をそのとき処刑せず、見逃してしまったことが大きなミスの始まりだったのではないかと思います。また、荊州南部の長沙攻略のとき、関羽と黄忠は一騎打ちとなり、落馬した黄忠に関羽はとどめを刺ささなかった。恩義を感じた黄忠は翌日の戦いで関羽に兜の緒を射たが、関羽の命は狙わなかった。ところが韓玄は黄忠が裏切ろうとしていると思い、黄忠を死刑にしようとした。刑が執行されようとするとき、魏延が歩み出て将兵を扇動し、逃げようとしたところを魏延に斬られた。 という事実がありますが、このあと劉備は黄忠、魏延を配下にしようとするが、諸葛亮は主君を殺して別の主君につくとは何事かといい、処刑しようとするが、このときも劉備に魏延を許すよう言われ、見逃してしまいました。主君劉備の甘えに弱いのが欠点だったのではないかとも思えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとう。
へえ、主君関係、けっこう入り組んでて複雑すねえ。関羽と諸葛亮が、処刑なんて差し迫った関係になってたのは知りませんでした。

お礼日時:2006/05/14 22:59

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