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吉川英治氏の「新・平家物語」を読むと、子供の頃の清盛は、よく、叔父のところに金を借りにいかされたとあり、決して裕福ではない様子でしたが、ある本には、清盛の父は瀬戸内海の海賊退治で院の信頼を得て、日宋貿易で富を築いたとありました。どちらが本当なのでしょうか?

A 回答 (3件)

勘違いがあるといけないので・・



>で、その後の戦功で最終的に太政大臣まで上るのですが

これは清盛のことです。忠盛は刑部卿までですので・・・
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まず、彼の場合、代々上級官僚ではなく、父の代にようやく殿上人となりました。


で、その後の戦功で最終的に太政大臣まで上るのですが、生まれてまもなくは金銭的には恵まれてはいないと考えられます。

実際に上級役人と中級役人には相当の金銭的な開きがありました。
これが同じ従五位下相当の官職でも、(国守だとまったく話は違いますが)忠盛は1119年までは検非違使と左衛門尉ですので、お金はそれほど入りません。

ですが、問題はここからでして
1220年に伯耆守、23年には越前守、27年には従四位下とともに備前守と、国守を歴任しています。
その後少し間をおいて1135年に美作守、1145年には播磨守とさらに国守を歴任しています。

実は、守職というのはものすごい儲かる職なのです(お金を稼ぐならば守職というのが当時の常識)。
大きな理由は、税収のピンハネと賄賂の二つです。まあ、もともと中央官職よりははるかに実入りはよいのですが・・・

そのため、官位としての位は低いのですが、わざわざ守にしてくれ、と頼んだ人までいます。それほど儲かるのです。
もっとも、中には官位だけは高くて税収が少ないため、人気のない国はありましたが・・・
ですので、彼の家が急激に裕福になったのは1220年以降ですね。となると、生まれてから2年後くらいからですから、幼少のころ貧乏であったかというと必ずしも当てはまりません。

日宋貿易だけが富を得たとして特筆されますが、これは違います。実際にはその前にそれを行うだけの基盤があったのです。つまり受領による収入ですね。そもそも貿易だって元手が要るのです。

「新・平家物語」はあくまで歴史小説です。歴史小説には脚色、改変といった、小説を面白くするための工夫というか、そういったものがあちこちに仕組まれています。
つまり、歴史小説の内容は必ずしも正しくはないのです(むしろ、意図的に変えている)。
そのため、歴史小説を「実際にあったこと」としてとるのには非常に問題があります。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/平忠盛
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
わかりやすく、とても参考になりました。

お礼日時:2006/06/09 18:16

清盛の生誕は1118年、


父忠盛が瀬戸内海の海賊を討伐したのは1146年。
この間30年ほどありますから、幼少のころ貧乏でも不思議ではありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2006/06/09 18:17

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