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 数学と物理学を専攻しているそれぞれの友人から、「数学と物理学はとても近く」(これは理解できますが)、「数学は哲学に近く」、「物理学は数学よりもより哲学に近い」と説明されました。
 私には物理学は哲学に近いように思えないのですが、分かりやすく説明していただけますか?

A 回答 (5件)

現代では、私のような凡人でも、物理学と哲学は、かなり違うような感じがします。

それは、物理学は、理論を、観測や実験によって実証しながら進歩する学問だからだと思います。哲学は、必ずしもそうではないのではないのでしょうか。大昔、プラトンや、ソクラテスの時代は、観測や実験の技術は、現代ほど進んでいなかったので、感覚と論理だけで結論を出さざるを得ないことが多く、物理学と哲学との距離が、今よりずっと、近かったのではないかと、私は思います。
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 概念的に理解しているか、歴史的に理解しているかといった違いが出ているのではないかと思います。



 数学はその抽象性の意味においては宗教に近いんです。中学の数学で、「点とは面積も体積もないもの」と教わっていると思いますが、そんなありもしない非現実的で確認もできていないものをみんなで信じているのは、これは明らかに信仰です。ただこれは古代ギリシャの哲学にある(理想的な存在を信じるという)イデア論から来ているもので、それを知っていれば「数学は哲学に近く」と言えます。

 高校の物理の力学まででやっていることは、17世紀のアイザック・ニュートンの作ったものです。彼の時代は、いわゆるルネッサンスで、古代ギリシャの学問、芸術が見直されていました。

 物理学にあたるフィジックスですが、古代ギリシャの哲学の項目の1つで、特に古代ギリシャのフィジックスを表す場合、和訳では「自然哲学」と訳されます。

 自然哲学では、言葉のみで自然を説明しようとしていました。物が落ちるのは、その物が地面に近づこうとする性質を持つからで・・・とか、止まった物が動き出さないのは止まり続けようとする性質を持っているからで、動き出したらそのまま動き続けようとする性質を持っている・・・(この部分は現在、慣性の法則として受け継がれています。だれも証明できていませんが、ニュートンは当然のこととして自分の理論中に入れてしまったんです。)

 ニュートンは、これら言葉だけの説明を数式で表す事に成功したわけです。ですからニュートンの物理学書プリンキピアの正式タイトルは「自然哲学における数学的諸原理」というもので、今でも物理学は哲学の1分野と言っていいと思います。

 哲学とは何かと言えば、人生論、存在論、認識論の総称ですから、物理学が最終的には観測を通じて人間の認識、物体の存在の問題に還元されることを考えても、やはりこれは哲学の一部と言っていいでしょう。

 哲学に実験や観測などあるのか?という疑問はあるかと思いますが、こういった思想は、ニュートンより少し前に生きたフランシス・ベーコンのもので、17世紀に設立された王立学会で市民へ物理現象を分かりやすく説明するための公開実験という形で、物理学と深く結びついて行きましたが、実験による証明はあくまで一般への理解を深めるのが目的だというのは、理論先行形の現在の物理学の発展を見ても明らかでしょう。
 ニュートンもアインシュタインも自分の理論の問題点が指摘されるまでは、実験や観測を重視していませんでした。
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 近年の物理学では、人間には直接見ることのできない世界(原子や素粒子の世界、宇宙の果て、宇宙の始まりや終わりなどなど)を研究していますから、それが「哲学的」と感じるのではないでしょうか。

もっとも、それらの問題は、大昔から哲学者が考えていた問題でもあり、研究する方法が「物理学的」に変わったのだとも言えます。

この回答への補足

追加質問させていただきます。
 もし、原子の世界が「哲学的」と捉えられるのならば、化学もまた「哲学的」ということになり得るのではないでしょうか。理論化学を勉強していたとき、たとえば化学平衡とか酸・アルカリなどの項目は数学ですべて証明されるので、疑問を感じたことはありませんが、理論化学の最初の部分の原子の成り立ちなどは目で見えないですし、潜在エネルギーの電子雲の分布などもだいたいこのあたりに集まっているというようなあいまいなもので、これらも哲学的といえるのではないでしょうか。しかし、物理学は哲学的といわれても、化学が哲学的と言われることを聞いたことがありません。それは、なぜなのでしょうか。

補足日時:2006/06/12 06:25
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 No3です。

追加質問へお答えします。といいましても、私の個人的見解ですので、そこはご了承ください。
 「哲学的」かどうかは人の感じ方によりますが、私自身も化学は「哲学的」と感じることはないです。それは、化学を論じるときは、その根本のところに物理学がある、ということが意識されているからではないかと思います。つまり、より根源的な学問の方を「哲学的」と考える傾向があるのではないかと思います。
 また、この世界は何からできているか、世界はいつ始まったのか、世界はどこまで広がっているか、という問いは、おそらく太古の昔から人間が抱いてきたものだと思いますが、このような「原始的」な問いの方が「哲学的」と感じます。なぜかと聞かれるとうまく答えられませんが、もっとも身近に感じる疑問でありながら、その答ははるか彼方にあるように思えるからです。そして、その問いに答える学問が物理学です。化学は、物質がどのように反応するか、という問いに答えますが、それは(イメージですが)「哲学的」な問いには思われません。
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  數學や物理學では、「人は論理的な考へ方ができるか。

できるとしたら、それは如何なる理由か」とか、「人は、物質世界を正しく觀測できるか」、「時間は均等に進展するか」、「世界の廣さは有限か」、「時間は有限か」、「原理の元になる原理、更に元になる原理はあるか」、「自分の考へは他人に精確に傳へられるか」、「世界とは何か」、「認識するとは何か」、「美とは何か」など、いはゆる「科學的檢證に耐えない」事柄については、問題としない。しかし、如何なる科學でも、それらの大前提に疑問を抱きかねない課題があり、それを論じる場合は、「哲學に近い」といふことになる。
  例へば、物理學で宇宙の起源を扱ふ場合、それは、哲學での「世界の始まりはあるか」との課題に近づくことにもなる。數學では、一貫した矛盾の無い論理體系があれば、それは一つの數學の分野として成り立つが、一定の條件でのみ、無矛盾が成り立つ場合、その條件を設けることの「意味」とか、「條件の可能性」などを論ずるとき、哲學に近づくことにもなる。
  大學の學科區分や、圖書館の學の區分では、哲學も美学も自然科學も社會科學も文學も、一律に學科として扱はれてゐますが、自然科學と哲學は、いづれも理詰めの論理體系を重んじますが、性質の異なるものと考へられます。大雜把に言へば、科學は檢證可能で、その成果は、第三者への直接移轉、傳達が可能ですが、哲學の内容は、検証可能な物ではなく、その成果は、當人限りのものです。
  なほ、宗教は、論理性には拘らないもので、「矛盾するからこそ信じる」といふ面もあります。
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