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哲学という学問に漠然とした興味があるのですが、疑問があります。
哲学とは、何かの役に立つものなのでしょうか。
たとえば文学や宗教には
・物事をより良く理解できるようになる。
・お金が儲かる。
・社会や文化の発展に貢献する。
・心の支えになる。
・人を幸せにすることができる。
と言ったような、実用的な面がありますよね。
哲学はそういった意味で「役に立つ」物なのでしょうか。
それとも何事かを知りたいという衝動で学ぶものであって、実用性を求めるのは間違っているのでしょうか。

実用的な役に立つのか立たないのか、役に立つとしたらどういった面でか、どなたか意見をください。
専門的な知識はないので、できれば平易な言葉でお願いします。

A 回答 (15件中1~10件)

頭を使う仕事をしてなくても、


生きていると、考えることや
悩んだりすることから
避けられないと思うのです。

いまぼくがやっていることは
何かの役に立つだろうか。

とか、

これからぼくがやることは
何かの役に立つだろうか。

とか。


哲学は論理的に考える訓練です。

法学部→法律の仕事
経済学部→経済の仕事

みたいに考えると

哲学科→哲学の仕事

で教授ともの書きにしかなれない。
だから、哲学は実用的でないと
言われたりすると思うのですが、

わたしは、仕事でももちろん、
それ以外でも
かなり実用的に役立ってると思います。
だって、
悩みながら、考えながら、
生きるているから。

質問者さんと同じように。
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私はシステムや製品の開発を行っているものです



これまでの経験から「哲学の重要性と必要性」を強く感じています

次の書籍の言葉に説明が含まれているようにおもいますので提示します

*「<ものづくり>と複雑系」 講談社選書メチエ 齊藤 了文著
工学の合理性は工学の営みの詳細に宿っているために外からはなかなか面白さは捉えにくい。
工学の合理性を理解することは、科学的な見方とも違い、
しかも常識的なみかたにとどまらない「少し奇妙なものの見方」の獲得につながる
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哲学は感情や偏見を抑えこむ訓練、方法で、


その習得を「判断中止」といい

現象が成立する為に
どんな原因、根拠が存在しなければならないかを
推測して導いて行くことを「超越論的演習」といい

判断中止と超越論的演習を同時に為されることで
考察は次善策、善後策を検討できるようになります。

「誰でも理解出来る」ということが
哲学の唯一の正当性を示せるもので、
発見や感動をもたらすのに効果があります。

そのこと以外に生活が潤うとか異性にモテる、
名誉が与えられる、合理的なシステムに乗れる
ということはないと思います。

哲学は唯一逃避や堕落、滅びること、死滅にも光や安堵をもたらします。

具体例でいうと
クマに襲われたからといって
クマを襲い返しても
しょうがない。(師匠談)
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こんにちは♪



さてさて、
がんばって分かりやすく哲学的に書きます。

哲学に漠然とした興味があるわけですね。
ということは、
哲学の世界を知ることで
hasenana2006さんの漠然とした興味が満たされます。
すなはち
それはあなたにとって役に立つということ
ではないでしょうか。

(哲学とは、何かの役に立つものなのでしょうか。)
何かの役に立つと思っている人にとっては
何かの役に立ちます。
「○○の役に立っている!!」と考えている人に
とっては○○の役に立っているわけですから。

とんかちは、釘を打つのに役立ちます。
とんかちは、肩こりをほぐすのに役立ちます。
とんかちは、グルメな私の役にはたちません。

と人それぞれなのです。
哲学だけが特別な存在ではありません。
哲学に限らず、宗教も文学も全てのものが同様です。


哲学とは、
世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。
もと臆見や迷妄を超えた真理認識の
学問一般をさしたが、次第に個別諸科学が独立し、
通常これらと区別される。
存在論(形而上学)、認識論(論理学)、
実践論(倫理学)、感性論(美学)などの
部門をもつ。

だそうです。(ここはちょっと難しいですね・・・)
これを実用的に役立たせる人にとっては
実用的に役に立ちます。

学問は、その対象となるものについて
探求することに喜びや価値を見出す人もいれば
それを利用してお金を得ることに
価値を見出す人もいます。ですが

(実用性を求めるのは間違っているのでしょうか)
正しいか間違いかを客観的に判断することは
できません。

(役に立つとしたらどういった面でか、
  どなたか意見をください。)

人それぞれ異なりますので私の主観です。
哲学史を学ぶことや哲学の問いを考えることは
私のこころを豊かにしました。

No2のtokytimeさんもおっしゃっていますが
mogurayama自身もこの「教えてGoo」で出会った
tokytimeさんやhakobuluさんの
意見や考えに触れられたことは貴重な経験でしたね。

確かに哲学は他の学問と性格が
少し変わっていますが、
それを特別視しすぎる必要はないと思いますよ♪

回答になっているか心配ですが・・・
参考になれば幸いです。
ではまた~ヽ(´ー`)/
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哲学が役に立つかどうかは


個人差の問題で、実感出来る人と、
そうでない人があるようです。

哲学が役に立っちゃう人、心の支えになれる人は

   ・人と同じが嫌い、世間に合わせるのが嫌い。
   ・競争が苦手。
   ・毎日つまらないと思っている。
   ・自慢するものを持たない。


で、哲学が何の役にも立たない人、幸せに思えない人は

   ・自分を良く見せたい。
   ・充実した人生を送りたい。
   ・競争に生き甲斐を感じる。
   ・流行のものが好き。
   ・義理人情や嫉妬、所有が大好き。

ということになると思います。
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まず、簡単に古代ソクラテスの思想のなかに現れる帰納的論法を解説します。

帰納法に脚光を浴びせたベーコンによると帰納法を四つの型に分類しています。一致法,差異法,共変法,剰余法・・・・。

とまぁ冗談です。ここからスタートすると確かにやんなっちゃいますよね。しかし、「哲学に実用性がない」と回答された方がいましたが、私は言いたい!「まったくそのとおりである」と。

これは、実社会で「この問題の改善に向け、部長のような演繹法的考察ではなく、ベーコンの・・・」といった瞬間に「ああ、もう結構、ベーコンは今朝食ってきたし、卵ものっていた。しかも2ヶ。」となりがちです。
実社会ではあまり哲学そのものは受け入れられないし、そんな知識をひけらかそうものなら、変人扱いされるのがオチです。

しかし実生活において「議論」「論争」を避けることは、困難であり、そうなった場合に、文学や宗教を持ち出したところで「原理主義的一元論だ」と当事者以外の取り巻きの人間にまで思われてしまう可能性が高い。文学にはそれぞれの解釈があるし、神を同伴すれば「絶対的真理」を導き出すのはチョー簡単!
一方哲学を意識し考察すれば、反証の可能性とかを意識して、論理を構築していくので、少なくとも一元論や感情論には行き着かない。と思います。
宗派の違いや文学の志向に捉われることなく「論理的で客観性のある発言に近づきやすい」のでは?

先日、家内と「毎日汗水流して働いている私は偉い。よって今日飲みに行ってよい」というテーマで議論しましたが、完膚なきまでに反論され、家族の誰一人の賛同も得られませんでした。
きっと奴らが「哲学を学んでいない」ことが原因でしょう?
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哲学というのは、本来、実用的には何の役にも立たないものです。


何故なら、哲学は、実用性を超えて、物事を突き詰めて考えて行くからです。

あえて実用的に役に立つのと言えば、通俗的な人生哲学の類があります。
ただ、こういうのを哲学者は、通常、本物の哲学とは認めていません。

補足しますね。

一般の人間は、何を食べようか、何を着ようか、金をどう稼ごうか、人とどう向き合うか、など現実的な問題にあくせくしてるものです。つまり、彼らの考えるテーマは主に<いかにして生活するか>なのです。それ以外の余計なことは、実用的には何の役にも立たないので、あまり深く考えないのです。それに対して、哲学者は、生活の利害を離れて、物事を考えます。それはある種の知的好奇心からです。彼らは物事を根本から知ることがただ愉快だからこそ考えるわけです。つまり、哲学とは世界からの永遠の問いかけであり、ある種の人にとって、これほど奥が深くて面白い問題はほかにはないのです。

PS=大人と若者

大人と違って若者とくに学生が哲学的な思索を好むのは、彼らには、生活面でのお金の心配があまりなくて、時間的には余裕があるからです。要するに、哲学には暇というのが大切であって、昔の哲学者は有閑階級が多く、今の哲学者は大学教授など閑職の人が多いです。
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>物事をより良く理解できるようになる


>心の支えになる

というのは実用的なのかどうかわかりませんが、哲学に関しても言えることだと思います。

人は大きく誤解をしています。少なくともその可能性はあります。その誤解を解くのが哲学ではないかと思います。その誤解を解くということは物事を今までとは違ったしかたで見ることを教えてくれているのではないでしょうか?

特に病的な人について言えることですが、この世界があまりにも不自然であると感じる人は、哲学から心の平安を得ることもできると思います。その逆もあることもあるかもしれませんが。
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哲学の意味と有用性は、「人類史」にあると思います。



人は、意味や有用性を考えるとき、「1回限りのこの自分の人生」における意味や有用性を考える傾向があります。しかし、その「自分の人生」は、実は、「人類史」(情況によっては、「民族史」)によって全面的に規定されています。

例えば、もし、自分が奴隷制度があった時代のアメリカで、奴隷の子供として生まれたと想像すると、自分の人生の様相が全く異なることは、火を見るよりも明らかだと思います。また、もし、自分が北朝鮮の貧農の子供として生まれたとすると、全く違った人生にならざるを得ません。

この自分の人生を根底からひっくり返しうる「人類史」や「民族史」に最も根源的な影響を与えているのが、宗教と哲学だと思います。宗教と哲学は別のものという考え方もありますが、人間の認識、概念、価値観の枠組みを決める原動力という意味では、両者は相互依存であり、切っても切れない関係にあると思います。

我々日本人は、民主主義と資本主義が当たり前の社会に住んでいますが、世界を見渡せば、それが当たり前でない地域はいくらでもありますし、日本でも、200年前に戻れば、江戸時代の幕藩体制の中にあるわけです。この違いが何によって引き起こされたのかというと、最も根源的な原因は、宗教と哲学にあると思います。

何故かというと......

もし、19世紀に、西欧による植民地支配がなかったら、すなわち、それを支える科学技術力や政治体制がなかったら、ぺリーは、日本に来なかったでしょうし(アメリカも、まだ、発見されていなかったかも知れません)、中国もアヘン戦争などする必要がなかったと思います。その代わり、日本は、未だに江戸幕府の幕藩体制下で、最悪の場合、今の北朝鮮を笑えないような情況になっていたかも知れません。

植民地主義の背景には、キリスト教徒である西欧人は、異教徒である非西欧人より優れているのだから、彼らを善導し、統治すべきであるという思想があったと思います。また、西欧において、科学技術が急速に発達した背景には、「神が創ったこの自然は、本来、合理的に出来ていて、人間はそれを理解し、人間のために支配すべきだ」という考え(汎神論哲学など)がありました。逆に、このような力強い哲学的後ろ盾がなければ、自然は依然、混沌であり、迷信に従って右往左往するしかなかったと思います。

また、キリスト教自体が、元はと言えば、一民族の民族宗教に過ぎなかったものが、新プラトン主義などのギリシャ哲学の思想によって再構築した結果、ローマ帝国から国教として認められ、世界宗教になったわけですから、最も根底において、哲学の力に依存しているわけです。

以上のように、哲学は、宗教と共に、「人類史」に、あるときは有用な、あるときは、無用な、あるいは、むしろ有害な影響を与えるものだと思います。ところが、我々は、多くの場合、自分が生きている限りでの時空間の中での有用性しか考えないので、哲学や宗教の有用性(または、有害性)を見逃す傾向があるのだと思います。

しかし、我々の2世代、3世代先の子孫のこと考えると、彼らの生活における有用性は、まさに、彼らの時代の「人類史」にかかっているわけですから、哲学や宗教の影響力を無視することはできないと思います。
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私も専門的な知識はないのですが、個人的な意見を述べてみます。



実用的な面として挙げておられる「人を幸せにすることができる。」ということについて考えてみます。
この場合の「人」とは誰のことを指しているでしょうか。
現実的には、誰かの幸せが誰かの犠牲(ある意味での不幸)によって成立しているのが常なわけですが、「すべての人」を幸せにすることはできるでしょうか。

また、「幸せ」とは何でしょうか。
人が感じる幸せとはみな同じものでしょうか。
違うとすれば、お互いの幸せがぶつかり合う可能性はないのでしょうか。
あるとすれば、その場合はどのようにしたら良いでしょうか。

これらの課題について、
文学は、あるがままの人生の真実としてその実相を照らし出します。
その作品から何かを感じることはあっても、作品自体が答えを用意していることは稀であろうと思います。

宗教は、方法論(それぞれの神様などの考え方)を使って、解決方法を提示します。
しかし、それが普遍的な解決に至っていないのはご承知のとおりです。
なぜかと言えば、宗教は論理ではなく、信じる者だけの幸せより教えてくれないからです。
信じるというのは論理ではなく、むしろ感情です。
「ともかく信じる」ことからスタートしているわけですから、最後の最後に生じざるを得ない「なぜ? 」という疑問は封殺されます。
答えは「神様がそう言っているから」とならざるを得ないからです。
なぜなら、それこそが「信じる」ということだからです。

哲学はその「なぜ? 」を重要視します。
その結果、どのような良い(実用的な)ことがあるのか、とお聞きになるかもしれませんね。
これは、好き好きとしか言いようがないのですが、
『(たとえ答えがすぐには出なくとも)真実に向きあおうとしている自分の姿勢に自身で納得感を得ることができる』ということになるのではないか、と思います。
あまり実用的とは感じられないかもしれませんが、個人的には、「とりあえず解決した気になって安心したい」という欲求を満たしてもらって【かりそめの(しかも偽の)満足】を得るよりは、遥かに実用的であろうという気もするわけです。

色々述べてきましたが、素人の個人的見解ですから、ご自身の判断の幅を広げていただく選択肢のひとつとして参考程度にお考えになってください。

因みに、宗教を信じることが悪いと言っているわけではありません。
ただ、あくまで方便として捉えるべきであって、目に見えぬ誰かが意志を持って何かを意図的に為しているかのような盲信は真実から遠ざかるだけでしょう。
非常に見識があり、宗教に関するお話でも勉強させていただくことも多い方が、「なぜ?」という論理的応酬の過程において、最終的には「神」にその理由を求めることがあり、それが論理的退却としか判断できず、残念に思うことも時にはあります。
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