Wikipediaの懐疑主義の項目では、
「懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない破壊的な思想として論難されることが多かった。これは、懐疑主義が、懐疑の結果、普遍性・客観性のある新たな原理・認識が得られなかった場合、判断停止に陥り、不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったためである。」
という説明がされているが、本当に、普遍性のある原理を得られないと直ちに判断停止に陥ることになるか?
「~という信念が正しいということを正当化することができるか」、「~という信念が誤っているということを正当化することができるか」という問い(「~」は同一の対象)を行い、その結果双方ともに失敗した場合、「~という信念が正しいということ、ならびに誤っているということを正当化することはできない」という結論が得られるが、ここでは「その信念を正当化することができない」という「理論」が打ち立てられるだけで、だから「実践」においては各人のかってであるということになる。
つまり、かってな判断はできるし、そもそも生きるという選択をした場合にはそうするほかないんだから判断停止になるとは思われない(なかには判断停止する人もいるかもしれないが)。
No.6
- 回答日時:
#4です。
わかりやすくご説明いただき大変ありがたく思っています。「判断停止」に対する、懐疑論者と反懐疑論者の解釈の相違ということが述べられていた、と考えてよろしいんでしょうか。
ただ、素人の浅墓な考えで、反懐疑論者の思考過程について以下のような疑問も湧きました。
すなわち、
「~という信念についてはどちらが正しいか」ということの検証なしに、
「~という信念が正しいか誤っているかということを知り得るかどうか」
ということが判断の基準として台頭し得るものなのか、という点です。
たとえば、
「神は存在する」あるいは「神は存在しない」という信念について、どちらが正しいか、という考察なしに、
「神が存在するかしないか」を知り得るかどうか、の判断を停止することがあるのでしょうか。
>「判断停止」に対する、懐疑論者と反懐疑論者の解釈の相違ということが述べられていた、と考えてよろしいんでしょうか。
そうです(より厳密には、わたしが想定する懐疑論者と反壊議論者による「判断停止」という概念についての解釈の相違です。もしかしたら、わたしの説明は哲学者が言う懐疑論や反懐疑論とはズレているかもしれません。というわけで、本当は質問の最初に「懐疑論というのはこういうものでいいか」ということを入れるべきだった、ということに今さらながら気づきました)。
疑問については、まったくその通りで、再び間違えていました。
正しくは、
>>「~という信念が正しいか誤っているかということを知り得るかどうか」の判断の停止
ではなく、
「~という信念が正しいか誤っているか」についての判断の停止
でした。
また、少し調べてみたのですが、不可知論には2つのタイプがあるようです。
神を例にとって挙げると、
(a)「神は存在する」としたうえで、「神が存在することを知ることはできない」と考える。
(b)「神が存在するかどうかということすら知ることはできない」と考える。
の2種類です。
どちらにしても、不可知論が「判明しない(真偽は分からない)」という考えであるのに対して、懐疑の結果として得られた「正当化できない」という結論は、「答えはない(真偽はない)」という考えなので、(少なくともここで質問させていただいた)懐疑論は不可知論に至らないと思います。
No.5
- 回答日時:
こんばんは♪
<本当に、普遍性のある原理を得られないと
直ちに判断停止に陥ることになるか?
おっしゃるとおり判断停止にはならないと考えます。
懐疑主義が必ずしも形而下学と対になるものでは
ないと思いますし、懐疑主義が相対主義を必ず
否定するものではないはずです。
そこに絶対的な信念を見出すことができなくても
「○○の見地からすれば」とか
「○○の前提においては」という前提論、つまり
物理や数学、論理学までもがなくなるわけでは
ありません。
それはつまりlewdcarnalslaveさんの
言われるように絶対普遍の真理や信念が
「正当化できなかった」「わからなかった」だけに
過ぎないものだと思います。
「最大多数の最大幸福を追求するなら○○は正しい」
とか
「人命ほど尊いものはないとするならば
イデオロギーの為に人を殺すのは間違いだ。」
といった思考までもが無意味になるわけでは
ないはずです。
そしてそれらの前提を良しとするかは・・・
<「実践」においては各人のかってである
基本的にそのとおりだと思います。
懐疑主義から真のイデアを見いだせなくても
思考停止になってもらうのは少し早いと思います。
ど素人意見ですが参考になれば幸いです♪
この回答への補足
(返信の続き)
>そこに絶対的な信念を見出すことができなくても
>「○○の見地からすれば」とか
>「○○の前提においては」という前提論、つまり
>物理や数学、論理学までもがなくなるわけでは
>ありません。
わたしは、(以前と違って)超越論は誤っていて、非超越論が正しいと思っているのですが、その理由はまさにここにあります。
つまり、すべてとは言わないまでも、より多くのことについて、前提=独断から出発するほかないということです。
ただし、「独断」という要素だけでは、まだ超越論を採用し続けることはできるので、これにさらに「言語」を付け加える必要があります。
たとえば、デカルトは「絶対確実なものがあるかどうかを調べるために、すべてを疑ってみる」というようなことを言ったと記憶していますが、「疑う」という言葉や、「絶対確実なものがあるかどうかを調べるために、すべてを疑ってみる」という文が何であるかということを前提としていることに対しては無批判でした。
もちろん批判しようと思っても、今度は「批判」という言葉を前提としなければならなくなるので、結局、無前提では出発することができないということになります。(言語の制約)
こうしたことから、社会言語学の「言語が現実をつくる」という標語が正しいんじゃないかと思うに至りました。
ちなみに、数学なんかは超越論に依拠していますが、非超越論でも正当化は可能です。上で挙げた非超越論では、すべては人間が人間の言語で規定・設定したり、構築・制作したりしていると考えるので、人間の社会がすべてです(人間社会の外部はない。たとえば、動物に対する理解も、人間が言語によって行っているに過ぎない)。なので、数学のように、多数者が支持するものは正当化されることになります。
まぁ、論理学を理解しない者がたった1年半考えただけで真理に辿り着けるなら、各専門分野の研究者は苦労しないわけで、こうした結論が正しいかどうかは非常にあやしいのですが……。
こんばんは。
返信ありがとうございます。
>それはつまりlewdcarnalslaveさんの
>言われるように絶対普遍の真理や信念が
>「正当化できなかった」「わからなかった」だけに
>過ぎないものだと思います。
わたしの一般的懐疑論に対する理解の仕方が間違っているのかもしれませんが、
おそらく、「~という信念が正しいということ、ならびに誤っているということは正当化することができない」という原理が、懐疑の結果として得られたものである場合、
それが意味するのは、「~という信念が正しいかどうかは分からない」ではなく、「~という信念は正しいとも誤っているとも言えない」ということだと思います。
言い換えると、「対立する2つの立場のどちらかが正しいが、それは分からない」(不可知論)のではなく、「対立する2つの立場のどちらも答えではない」(答えはない)ということです(だからこそ、実践において判断は各人の主観に委ねられることになります。また、ここでは、みんなが好き勝手に行為しないという選択、つまり連帯するという選択もありだと思います)。
つまり、「正当化できない」≠「判明しない」なんだろうと思います。
これと似たものに、非宿命論(別名は忘れた)という立場を採用している場合の、未来についての考え方があります。非宿命論では、未来のできごとの真偽は、判明するのではなく、生成されると考えるようです(たとえば、2006年10月1日に地震が起こったものと仮定したとき、2006年9月30日の時点では、翌日に地震が起こるかどうかは分からないのではなく、決定されていないということ)。
No.4
- 回答日時:
#2です。
ご返事ありがとうございました。哲学は素人な上に表現力が未熟で、意図するところがうまく伝えきれなかった部分もあったように思いますが、疑問を感じられた点に誠実に論及していただき大変感謝しております。
>>「実践」においては各人のかってであるということになる。
>:という点がまさに、懐疑論が論難された根本的理由だと思います
という部分は、
>>「実践」においては各人のかってである、という定理が確立してしまっては困るので、そのような結果をもたらす懐疑論が(反対の立場をとる臆病な人々から)論難された。
と言い換えることもできます。
懐疑論者が多数派になることは(今のところ)あまり考えられないでしょうし、
懐疑論者の動機ではなく、他者を管理・支配しようとする者の動機について述べた部分です。
そして、管理・支配の必要性を覚えるのは臆病さゆえだろうということです。
◇
補足の後段、
>反壊議論者は甘くないか?
以下の説明箇所は、私には難しすぎてよくわからなかったのですが、
反懐疑論者に、
「生きるという選択の基準、あるいは根拠自体が判断停止の結果である、という側面があったのではないか、という気がします。」
と述べた部分に関して補足説明しますと、
【意図せざる側面】があった、ということです。
何か他のもの(たとえば神)に自己の全てを委ねることによって、その(委ねるという)行為自体が自らの生きる選択だと思い込む傾向が彼らの根本にあるのではないか、という意味です。
そして、思い込んでいるだけに、それが(委ねるという行為の必然的結果としての)判断停止によってもたらされた選択である、とは露想像だにしないのではないか、ということです。
補足していただき(丁寧に付き合っていただき)、ありがとうございました。
2点とも読み違えていたようです。申し訳ない。
それで、hakobuluさんの言いたいことは理解できたと思います。
難しいという指摘があった箇所については、続きがあるんですが、投稿した後でそのことに気づきました。
ただ、その未投稿の部分を読み返したところ、その一部は自分自身でも何を言っているのか不明でした(以下に、投稿済のものと未投稿のものを再構成しました)。
まず、一般的な見方かどうかは分かりませんが、わたしは、不可知論というのは、「対立する2つの立場のうち、どちらかが答えである」ものの、「それを知ることはできない」という考えであると捉えています。
他方、「~という信念が正しいということを正当化することができるか」、「~という信念が誤っているということを正当化することができるか」という懐疑の結果、どちらも正当化できないと分かった場合、「対立する2つの立場の、どちらも答えではない」ということが言える(もちろん、「対立する2つの立場」以外の立場がある場合には、また別です。たとえば、「1+1は3か4のどちらか」という場合、両方の立場が正当化できなくても、数は3と4以外にもあることから、別の立場もあるということになります。で、ここでの別の立場とは、一般的には2です)。
次に、上で行った不可知論についての説明が正しい場合、反懐疑論者は、「判断停止」を「~という信念が正しいか誤っているかということを知り得るかどうかの判断を停止すること(~という信念は、正しいかもしれないし、間違っているかもしれないと考えること)」であると規定していると言える(たぶん)。
しかし、これも上で述べたように、懐疑論者は、(懐疑の結果、対立する2つの立場のいずれも正当化することができないということが分かった場合)「~という信念が正しいか誤っているかということを知り得るかどうか」以前に、「~という信念についてはどちらが正しいかという答えがない(正しいとも誤っているとも言えない)」と結論づける。
したがって、これは、反懐疑論者が言う「判断停止」には当たらない。
ということでした……。
No.3
- 回答日時:
>>判断停止は結論ではなく・・・
確かな原因から結果を導くことを「演繹(えんえき)」といい、
逆に懐疑は
現象から背後に潜む根拠、
原因、理由、動機を辿る。
よって結果如何の判断とは逆行する作業なので。
>>立場が逆転したり、
>>違う角度、長期的な観察でも
>>同じ結論に至れる場合と
>>結論を出すメリットがない場合となるので
>>正当化も不当化もしない当事者。
映画作品を映画関係者が観賞すると
主観による感情で映画を見るのではなく、
冷静さによって全事象の検討して
どんな創り方であるかを探る。
映画のストーリーの流れで「全称判断」を為すと
感情から進むことが出来なくなる。
複雑に絡み合った現象を解きほぐして
分析しやすい要素にまで分解する作業。
映画の全貌を把握し
「場合」を導き、
そこからの可能性を引き出すのが
「結果の判断停止」
という哲学の当事者、傍観者という立場からの方法。
>客観というのは傍観者の見方のうち最大多数ということ?~~。
「間主観性」ですね、
もっと言えば…詳しくは後に追記します。
今取り合えずここまでで、すみません。
敷衍していただき、ありがとうございます。映画の例、分かりやすかったです。
ただ、個別の箇所については分かったのですが、全体的にはまだあやふやです。
>信じないというのが判断停止
>「結果の判断停止」という哲学の当事者、傍観者という立場からの方法
>懐疑は現象から背後に潜む根拠、原因、理由、動機を辿る。
これらから以下のような読み取り方をしたのですが、合っているでしょうか?
■懐疑とは、現象=共同上の主観をそのまま信じずに、それ=現象を分析をすること
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
ご紹介していただいたWikipediaの
「懐疑主義が、~~、不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったためである。」
という箇所を非常に興味深く拝見しました。
そして、これが「>論難」された理由が面白いと感じると共に、さもありなんと感じた次第です。
「>神や存在の確かさをも疑う」ことこそが、人を人たらしめる最後の砦であろうと考えるからです。
つまり、「神の不在」や「存在の危うさ」を認識することによって初めて「我」の存在理由が生起するはずだからです。
何かにすがりたくなった時に、信ずる対象として神なるものを捏造して事足れりとしたり、
あるいは逆に、闇雲に自らの力を過信したりする短絡さによって存在の確かさを確保しようとすることから、一体何が得られるのか、と思います。
「神はいる」でも「神などいない」でもなく、「神はいるかもしれないし、いないかもしれない」という不可知論こそが、「世界を認識する主体としての『我』」を可能にするのではないでしょうか。
「判断停止」という見方は言葉の遊びにすぎません。
「判断不能にも拘わらず判断する」よりは真理の放棄につながる確率は遥かに低いはずだから。
>「実践」においては各人のかってであるということになる。
:という点がまさに、懐疑論が論難された根本的理由だと思います。
結局、他者の管理・支配をせずにはおれない怖れを抱いた、臆病な者によってなされたに相違ないことでしょう。
>そもそも生きるという選択をした場合にはそうするほかないんだから判断停止になるとは思われない
:とおっしゃるのはその通りで、それ以前にむしろ論難する(した)側に、
生きるという選択の基準、あるいは根拠自体が判断停止の結果である、という側面があったのではないか、という気がします。
この回答への補足
(お礼、というか返信の続き)
>>そもそも生きるという選択をした場合にはそうするほかないんだから判断停止になるとは思われない
>:とおっしゃるのはその通りで、それ以前にむしろ論難する(した)側に、
>生きるという選択の基準、あるいは根拠自体が判断停止の結果である、という側面があったのではないか、という気がします。
なるほどなあ。
でも、そう考えたとすれば、反壊議論者は甘くないか?
というのは、 「~という信念が正しいということを正当化することができるか」という問いは、信念そのものに対する懐疑ではなく、正当化についての懐疑なんだから、その結果「~という信念が正しい、あるいは誤っているということは正当化することができない」という答えに至ったとしても、それは、「答えは知り得ないんだ」という不可知論ではなく、「そもそも答えなど初めからない(何らかの答えがあると想定するのは幻想である)」という考えにほかならないからです。
>>「実践」においては各人のかってであるということになる。
>:という点がまさに、懐疑論が論難された根本的理由だと思います。
>結局、他者の管理・支配をせずにはおれない怖れを抱いた、臆病な者によってなされたに相違ないことでしょう。
ここが分からない(「判断が各人のかってである」という結論に至ることが、なぜ他者の管理・支配を意図することに繋がるのかということ)。
他者の管理・支配を意図するのは、むしろ一般的な絶対主義だと思う(一般的な絶対主義と書いたのは、正当化についての懐疑を行った後に現れることがある、「~という信念が正しい、あるいは誤っているということを正当化することはできない」という絶対主義的な結論と区別するため)。
というのは、「各人のかって」という考えでは他者を支配できないだろうから。
しかも、懐疑の前に支配的な風潮であった一般絶対主義を、懐疑の結果として現れた絶対主義(~という信念が正しい、あるいは誤っているということを正当化することはできず、したがってどのような信念を持つかは各人のかってであるとする考え)が打破したとしても、もともと少数派であった懐疑論者が多数派になれるかどうかという保証はまったくない。むしろ、少数派的な思考法を採用していたことから、社会の風潮が変わっても少数派のままであるというと可能性のほうが高いような気がする。
というわけで、懐疑論者に個人的な動機があるとすれば、「他者を管理・支配したい」というよりは、「他者による管理・支配から逃れたい」というものではないかと思う。
No.1
- 回答日時:
信じないというのが判断停止で
信じるの認識は
(1)「信じているもの」と
(2)「信じさせられているもの」と
(3)「信じているかのようにしなければいけないもの」
があって
例えば、葬儀で集まった人が皆も皆
故人へ感謝や弔いの気持ちが届き
あの世で寂しくならぬようと思っていなくても
信じているかのようにする儀式や香典。
これは各人(1)、(2)、(3)のどれかの認識である。
判断停止は結論ではなく、
立場が逆転したり、
違う角度、長期的な観察でも
同じ結論に至れる場合と
結論を出すメリットがない場合となるので
正当化も不当化もしない当事者。
被害者がいくら加害者を責めても
加害者が正しい場合、
正当化できる理由があるなら
被害者が、加害者を加害者に出来ない。
正当、不当を判断出来るのは
当事者ではなく客観が決めれることなのです。
善悪の判断や処罰を
天や神が判断をしてくれたりするのではなく
人間が判断するけれど当事者ではない。
懐疑主義とは「傍観者」ということだと思います。
回答ありがとうございます。
>判断停止は結論ではなく、
>立場が逆転したり、
>違う角度、長期的な観察でも
>同じ結論に至れる場合と
>結論を出すメリットがない場合となるので
>正当化も不当化もしない当事者。
この部分が分からないので、補足を頼む。
あと、
>正当、不当を判断出来るのは
>当事者ではなく客観が決めれることなのです。
客観というのは傍観者の見方のうち最大多数ということ?(また、その場合、なぜそう言えるのかも合わせて教えてください)
あるいは論理学の論理のこと?
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