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冬休みの宿題として「ベトナム戦争と学生運動」について論文を書かなくてはならなくなりました。

個々については自分でネットや本を使い調べることができたのですが、「ベトナム戦争」と「学生運動」の2つをどう絡めて論文を書いていいか良く分かりません。

そこでもし昔、似たような論文を書いた方やこのことについてよく知っている方がいらっしゃればちょっとしたアドバイスのようなもので良いので教えていただけると幸いです。

A 回答 (7件)

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一、学生運動の思想的な土台はマルクス主義・社会主義・共産主義です。


結果として、複雑な絡みはありますが、ソ連若しくは中華人民共和国を目標として、流血の革命を含めて人民を蜂起させ国家をその方向にもって行こうとしました。
その打倒の目標となったのが主義主張が反対側に位置した資本主義の雄アメリカです。
その頃も現在と同じ様に世界中をアメリカの配下に置こうと虎視眈々と狙っており、世界中でソ連・中国と対峙しておりました。
このアメリカの主義をアメリカ帝国主義と呼び、その手先であった下請けの日本政府は、学生運動家の格好の標的でした。何故なら、日本全土を安保条約の下にアメリカに売ったからです。若しくは差し出したからです。
二、ベトナムの独立・南北対立が、社会主義国家の連合チームVSアメリカ帝国主義の戦いとなりました。その前に、朝鮮・キューバで連敗しているアメリカは国家の威信を賭け、全面介入をしました。
その前線基地の提供・物資の補給を一手に引き受け、安保条約の下、政府もろともその指揮下に入った国が日本なのです。
これが、二つが複雑に絡んだ要因なのです。
間単にいうとこんなとこかな。
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セクト的に受け入れていない分派もけっこうありますが、「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」の活動あたりをキーワードに調べてはいかがでしょうか、穏健派と一部過激派を巻き込んでいます。

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イラクでも、ブッシュが勝利宣言してから泥沼状態になって、たくさん兵が死んでますが、ちょっと前にやったベトナム戦争でも正規軍ではあっという間に勝った戦争が長期化して、その頃アメリカは徴兵制だったので、徴兵されるアメリカの若者にとっては、(せめて自国を守るとかの理由があればいいけど)全く関係の無い戦争で、死にたくないってこと(当時は占領のためにたくさん派遣した歩兵が、民間人と区別のつかないベトコンのゲリラにたくさん殺られていた)で、反戦運動を起こして、結果的にベトナム戦争後アメリカは徴兵制をなくして現在に至るわけですが、


当時の先端人は、全員が小泉首相の様にアメリカにかぶれていましたから、アメリカで流行している学生運動も日本でもやらなきゃって事で、先端人の間ではやるんですが、日本には肝心の戦争も徴兵もない訳で、そこで理屈を探して、日米安保条約があるので、アメリカが戦争していれば日本も戦争しているんだ、それに反対ってことで、ちょうど日米安保条約が更新期限にきていたこともあって、安保反対って盛り上がりましたが、まあ、徴兵されてベトナムで戦死してる日本人はいないんで、一般の人は何やってる解らないってカンジだったんですが。
ベトナム戦争→強制的に徴兵されて意味無く死にたくない→アメリカでの徴兵される若者の反戦運動→アメリカかぶれの日本でも流行って流れです。
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当時の日本のベトナム反戦運動(学生だけではない)は


 (1)日本の米軍基地から直接にベトナムを攻撃に出ていて、日本がベトナムへの侵略戦争(イラクも同様)基地を提供していた構造で当事国の認識が強かった
 (2)ベトナムは第2次世界大戦の日本軍が占領後撤退してフランスが占領し、その後アメリカが介入、ドミノ理論から南ベトナム傀儡政権を作り多くのベトナム人を殺害していた。ソンミ事件なども影響が大きく影響した
 (3)当事は世界的な反戦運動が巻き起こりその中の運動体に学生組織もいました。世界的には市民・労働者の運動も学生に負けず起きていました。日本のデモなどの逮捕者には労働者の割合もかなり多かったがマスコミは「学生運動」として報道してました・・
 (4)67年10月8日の佐藤首相の南ベトナム訪問阻止で初めてヘルメット・角材が使用されましたがこれがその後の反戦・学生運動と言われたスタートになり「全て三派全学連」として扱われて印象があります。
 新宿駅での米軍機用燃料車両阻止や佐世保のエンタープライズ寄港反対、王子野戦病院、相模原戦車輸送阻止などベトナム反戦の代表的なものでした。
 (5)当時はまだ荒畑寒村氏は存命で彼は講演会で日本の労働運動の歴史でこれほど多くの労働者が政治的課題で立ち上がりこれほど多くの労働者が逮捕されたことは日本の歴史では初めてと話していたことを思い出します。(たしか1日で5000人以上逮捕された)
 今は「学生運動」の枠でしか語られませんが「労働運動」として再評価することも必要かと思います
 学生運動もベ平連も既成政党の社会党や共産党など関係ない人々が中心になっていたこともあり日本の歴史としては正当な評価が受けられていないと感じています。
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(個々について調べたのであれば、当然その絡みが出てくると思うのですが)


学生運動とは、日本の、ということでしょうから、まずはその説明をすると

戦後、意識的な学生は、戦争に唯一反対した日共(日本共産党の略としてそう表現しているだけであって、日共にはそれ以上の意味はありません)こそが正しいと考え、青年組織(民青)があったこともあり、学生運動指導部は日共(=民青)でした(読売のW氏は有名ですが、経済評論家のH・K氏も阪大の学生時代は活動家でした)。

日共は指導部の路線対立があったりで学生運動も停滞期をむかえ、更にはソ連がハンガリーに進攻したり核実験を行ったりと、平和を願う共産党のすることとはちょっと違うんじゃないかと考える学生も現れ、しかも日共はそれらのことを批判しないので日共から離反する学生も多くなり、学生運動の総本山であった全学連は、日共の影響下から離脱し、60年安保闘争を指導することになります。

ところが盛り上がりをみせただけで結局は敗北し、反日共系組織は分裂し弱体化してしまいます。

そんな折、ベトナム戦争が拡大し、ちょうど団塊の世代が学生となる時期でもあり、もちろん日共系・反日共系の学生運動にも参加した学生は少なくありませんが、政治性のあまりない学生も、自分でできることはなにかしたい、という意識を持つ学生が参加しやすかったのが、(アメリカの)ベトナム戦争には反対、という一点で集まっているべ平連の(主催する)反戦運動だったわけです。
ですから、べ平連(系)には個々で参加したはずで、穏健‘派’、過激‘派’という宗派や党派が入ったのではなくて、時に過激とも言えるような行動をとってしまう個があった、というべきだろうと思いますし、そういう形で参加できた学生運動が、いわばアメリカが絶対悪であった、ベトナム反戦運動だったと思います。

当時「全員がアメリカにかぶれてい」る「先端人」なる‘人種’がいたことを、今初めて知りました。
そのような、学生運動とは対極にあるようなひとたちまで、ベトナム反戦運動をした(らしい)のですから、それだけ高揚した証左であるのかも知れません。
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当時デモなどで逮捕されると1ケ月近く警察に留置され、起訴されると何年か拘置され人も多くいました。

保釈金も高くなり運動している人たちの中では「保釈金貯金」なるものもしていましたね。デモで水平射撃の催涙弾で失明したり、機動隊の暴行で障害や死亡した人もでました。
下宿先には頻繁に公安刑事が来るし、尾行は度々あり、バイト先にも邪魔して解雇されるなども見聞きしました。
そういう意味ではかなりのリスクの中で参加していたので、甘い考えで付和雷同的な気持ちでは参加できない厳しい状況がありました。
当時の学生でも大学のストでマージャン荘に入り浸りで、デモに誘えば参加する人もいました(隊列の後方に居て機動隊とぶつかると先に逃げる人たちではありましたが)
学生運動に参加していたというだけでは、かなり参加の意思や運動への関係性には差があります。どのような視点から論じるかでかなり見えてくる内容は変わると思います。特に党派や政党性が強い人の話には注意した方が良いですね。
私は最近の団塊世代論には同世代としては少しアキアキしてます。
特に血液型占いと同じような言い方が気になりますね。
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