A 回答 (13件中1~10件)
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No.1
- 回答日時:
高校の先生がシベリア帰りで、よくシベリアの話をしました。
筆舌に尽くしがたいほど、大変な生活だったそうです。
隣りで寝ていた人が朝には、死んでいたとか、流行病で、ばたばたと人が倒れていったとかです。
真冬でも半そででした。
それ以来、寒さというものを感じたことがないのだとか。
No.2
- 回答日時:
大変な生活だったようです。
ネット上でも「シベリア抑留」で検索すれば、多くの体験者の文章を
読むことが可能かと思います。
ただしシベリア各地に収容所があり、その場所、時代、各自の置かれた
立場によって異なることも事実です。
ですから、一人の経験談で全体を語るのは無理があると思います。
あえて一冊と言うのでしたら、第89回直木賞受賞作の
胡桃沢耕史「黒パン俘虜記」文春文庫はどうでしょうか。
現在 新刊は手に入らないようですから、ネット検索で中古を手に入れる必要があります。
ネット検索より 本でじっくり読んだほうがよく理解できると思いますよ。
No.3
- 回答日時:
私の叔父もシベリア抑留だったそうです。
まだ生存してます。同じ時期に抑留された人は、ほとんど死亡されたそうです。
厳しい寒さと餓えのためで出そうです。生き残ったのはいまだに自分では信じられないそうです。奇跡だったと話を聞いてます
No.4
- 回答日時:
シベリア帰りの三人
近衛は、たった一切れの角砂糖を与えられ、全身に力がみなぎった。
黒柳は、ヴァイオリンを与えられて、各地の収容所を慰問していた。
胡桃沢は、猥談を語って、仲間からパンの切れっぱしを与えられた。
<PRE>
近衛 秀麿 指揮 18981118 東京 19730602 74 /文麿の弟
黒柳 守綱 Violin 19080620 東京 19830430 74 /NHK交響楽団演奏長
胡桃沢 耕史 作家 19250426 東京 19940322 69 /籍=清水 正二郎
</PRE>
“トットちゃん”の父・守綱は、N響コンサート・マスターだった。
終戦後の黒柳家では、毎日「尋ね人」のラジオに耳を傾けていた。
ほかの捕虜が、過酷な重労働をする中で、まさに芸は身を助けたのだ。
胡桃沢は《徹子の部屋》で「ソ連は、すべての日本人を奴隷にして、
未来永劫に使役させるつもりだった」と述べている。
ロシア人は、便所掃除や土木作業する農奴をもとめていたという。
No.5
- 回答日時:
シベリアへの抑留は私も資料をいろいろ見ましたが 言語を絶する壮絶さであったことがわかりました。
終戦間際に火事場泥棒そのもののごとく日ソ中立条約を破り ソ連軍は満州になだれ込み 軍人はおろか民間人や婦女子にに対しても暴行殺人強姦略奪と無法の限りをつくし、終戦後には100万人以上の日本人をシベリアに抑留し 過酷な強制労働に当たらせ 凍てつく寒さの中でまともな住居や食料衣類も支給されず30万人近い犠牲者が出たそうです、また行方不明者が10万人 合わせて40万人を超える犠牲者がシベリアの地に倒れていきました。
これは虐殺そのものです、後にはこの犠牲者の数を隠すために 日本人の墓地を破壊するような非人道的なこともやったそうです。
ソ連も後のロシアもこの事については謝罪はしていません、日本人はこの事実を絶対に忘れてはいけないと思います。
以下のインクにシベリア抑留者の手記がいくつか紹介されていますのでご一読されるといいと思います。
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/shuse …
ご丁寧な回答ありがとうございます。私もインターネット等で調べて何となくは理解していたつもりですが、やはり過酷な環境だったんですね。祖父はからは何も聞かなかったし、父親でさえもほとんど聞いた事が無かったようなので、本人も過去の体験を思い出したくなかったんでしょうね。これからもこの事についてもっと調べたいと思います。
No.6
- 回答日時:
私の父もシベリアに2年半ほど抑留されていました。
かなり過酷な状況であったようです。
一つだけ追加。敗戦後の日本政府内部には、ソ連とできるだけ有利な戦後条約を結ぶための交換条件として、シベリアに抑留されている日本人を労働力としてソ連に積極的に提供する動きもあったようです。
結局、現実のものとはならなかったようですが。この動きが抑留の長期化につながったとする見方もあります。
ご回答有難うございます。
シベリア抑留者は日本政府からも見放されていたという事ですね。
祖父はまだ生きて帰国できたから良かったのだと思います。
何十万人に人々が故郷の家族・友人等の再会を夢見ながら亡くなっていったのを想像すると胸が痛くなります。
No.7
- 回答日時:
私の中学時代の担任の先生(音楽担当)はシベリア抑留帰りの兵隊でした。
一週間に1回の音楽の時間には、音楽の授業はほとんど行わず、戦争とシベリア抑留の体験談ばかりを話してくれました。ですからとても人気のある先生でした。↓シベリア抑留体験記
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlt …
シベリアの抑留日記
http://www5a.biglobe.ne.jp/~sho_un/sub1.htm
シベリア抑留記
http://www.asahi-net.or.jp/~ID1M-SSK/
No.8
- 回答日時:
遠い親戚で、シベリア抑留から帰ってきた方がいます。
具体的な話は一度も聞いたことはありませんが、初めて口が一方に曲がってしまっているのに驚きました。なぜそうなったのかは聞けるわけもなく、「シベリア抑留と関係あるのだろうな」と想像するしかありません。シベリア抑留については、若槻泰雄氏が「シベリア捕虜収容所」と言う本を綿密な取材によって1979年に出版し、その後に復刻されています。シベリア抑留の実態を最も良く伝えるものと言ってよいでしょう。私は1979年版を古本で入手しましたが、上下巻を読みきるのがつらいものでした。
http://www.amazon.co.jp/ で 「若槻泰雄 シベリア」で検索すると該当書籍が表示されますので、復刻版を買うなり、古本を買うなり、図書館で探すなりして読んでみて下さい。抑留者が、ソ連領内に送られるまでの貨車輸送(日光も入らない貨車にギュウギュウ詰め、水も食事も一切提供されず、用便の手段もなし)で苦しみ、その過程で病気や負傷した兵が死んでいったことが分かります。
抑留者に対する扱いは「奴隷」に対するものです。しかも、それが夏は40度を越えて無数の蚊に苛まれ、冬は全てが凍る零下数十度の「暑さと寒さの地獄」においてのものですから抑留者の辛苦は想像を絶するものです。
また、特に昭和20年から21年にかけては食料がほとんど支給されず、日本軍での階級の低い順からバタバタ死んで行ったようです。メシも食わせずに重労働を課され、夜は焚き火の煙の中で辛うじて凍死を逃れて睡眠を取るのですから当たり前ですが。冬の抑留者は、「収容所」内で燃やす焚き火の煙でいつも真っ黒な顔をしていたそうです。
No.9
- 回答日時:
シベリア抑留は捕虜とされたのではなく 拉致だった と聞いたことがあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99% …
日本政府に捨てられたというより、日本軍が崩壊してしまい、労働力として承認もなく連行 つまり誘拐されたということのようです。
数年前 テレビで見たのですが、結婚していた人が出兵して、大陸で終戦を向かえ、シベリアで強制労働をさせられたが、開放の後に現地の女性と結婚。
そんなことは知らない日本人の奥さんは、だんなさんは生きていると、再婚もせず待ち続けた。
高齢になり、やっとご主人が生きていることがわかった。
ご主人の方も日本人として帰国が可能になりそうだったが、既にロシア人の妻がいる。
帰国することは妻を置いていくことになる。
何故なら日本は重婚は禁止だから。
悩んでいたご主人に「あなた私は平気 日本に帰りなさいよ」と薦めるロシア人妻。
そんなやさしい自分のために長年、日本人の妻よりずっと長く夫婦だった女性を置いて日本には帰れない。
結局 出発の日に日本に帰ろうとしなかった。
そんなご主人をロシア人妻は無理やり帰国させた。
田舎の駅で、60年ぶりくらいに夫に会う予定でホームに待つ妻。
電車がホームについて人々が下りてくる。
その中にある老人を見つけた老女は、かなぐりすてて走って抱きつきました。
映画ひまわりの日本版のようです。
日本人の妻はロシア人の妻に夫を長年支え続け、日本に押し出してくれたことをひどく感謝しており、そんなに裕福ではないが、何度か日本に招待して一緒に時を過ごしているそうです。
戦争が引き裂いた人生模様。
国同士の争いで引き裂かれた人の人生。
殺伐としたシベリア拉致問題ですが、このようなドラマが片隅にあるんですね。
No.10
- 回答日時:
旧満州の関東軍で、一部は頑強にソ連軍に抵抗しました。
この為に派遣されたのが大本営参謀の<瀬島龍三>氏と言われています。彼は山崎豊子著「不毛地帯」のモデルとされる人です。しかし残念ながら武装解除の交渉については帰国後も一言も言及しませんでした。彼はそのまま抑留され、最も過酷な抑留生活を強いられたのです。その描写は経験者達の手記を盗作したと裁判にもなりましたが、余りに共通の体験が多かったので誤解されたようです。厚生労働省にある数字が、公式の数字となっています。しかし相当誤差があると言われていますが、帰国者の殆どは黙したままでした。過酷な体験と死んで行った戦友への後ろめたさのためのようです。また共産主義教育の洗礼を受け、エセ共産主義者となり、総括を先導した人も多かったようです。現在の学校の「いじめ」の大人版です。この犠牲になった方もいたようです。
法律的に抑留は全くの出鱈目で、捕虜虐待なんてものではなく、他の方も書いているように虐殺に近い行為と考えられています。またドイツ軍も同じ目にあっているのですが、彼らは日本兵の様には、総括を行わなかったと聞いています。それでもスターリングラードで降伏したドイツ国防軍の七万の将兵は、数百人の帰還に留まったと伝えられています。(パウル、カレル著:焦土作戦、バルバロッサ作戦)占守島の戦いに生き残った数千人の日本兵も僅かの帰還しか出来なかったそうです。
永六輔氏は、生前三波春夫氏に体験談を書くのが、死んで行った人達への義務だと説得したそうですが、とうとう沈黙したままのようです。
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