痔になりやすい生活習慣とは?

国語科から『山月記』について800字以内の感想を書く、という課題が出されています。
そこで李徴について改めて考えてみたのですが、私自身は割と李徴肯定派のようで、李徴に都合が良い様に解釈してしまいます。
作品の意図をより深く読み取りたいので、ご指摘があれば宜しくお願いします。
また新しい切り口があれば、教えていただけると助かります。

《李徴について考察》
・俗悪な大官に膝を屈する事を潔しとしなかった
⇒実際のところ、李徴は人間的なバランス(愛情や野望等の比重)においては欠けているという事実はあったが、かといって道徳的・人間的な部分が無かったわけではない(妻子への愛情にも見られる)。むしろ当時の官吏が俗悪であったとすれば(小説内のみだが)すなはちエンサンは彼らの下命を拝し膝を屈してきたのだから、彼こそ本当に善人であったと捉えて良いのか、が疑問に思われる。

・李徴の社会的権威に対する執着
⇒科挙試験に通るということは、それなりに裕福な家の出。幼少の頃から科挙のために黙々と勉強してきた人間である、という事を踏まえると李徴が社会的権威に執着するのはある意味当り前の事であり、これは科挙制度の悪面である。また現代の受験システムについても同様である、と言えはしないだろうか。

A 回答 (2件)

参考までに下記サイトを紹介します。

回答にならなくて済みません。
当時(戦前)信託統治地になっていた「パラオ諸島」に役人として赴任していましたが、夭逝しました。
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思わず、もう一度山月記を読み返しましたが、この作品の主題は、己の中の猛獣、性惰というもの、この場合李徴の場合は尊大な自尊心、と羞恥心であり、どんな人にも潜む心の闇について言及していると思います。


猛虎の姿が何を表しているのか、制御することも抑えることもない、名誉に対する欲と傲慢な考えが、猛獣の姿となり、世の中で暴れている、その例えなのです。
俗悪な大官に屈することがなかったのは、そういう意味でなく、自分にはもっと詩才があり、大官より上だ、今にひれ伏させて見せるという野望であり、自尊心からなのです。エンサンの方は、性情から人と争うことができないおとなしい性格で、この場合虎になった旧友の思いを汲み、偲ぶ役割りを担っています。
よく高校のお友だちで、ニコニコ笑って人と争うことがない平和主義の方がいるでしょう。ああいう人なのです。
小説中に、李徴が、世間と交わることをしなかったと告白していますね。ここでは、いくら学業ができて秀でたとしても、孤高になるな、と作者は説いているのです。
中島敦という作家は、確か東大の方だったように思いますし、この作品一作きりしか書いていません。私の高校の教員も東大出身者が多かったですが、なぜかこの作品に対する評価が高いのが意外でした。(読みにくいし、現代から考えると変な表現のような作品ですが)
李徴の科挙の件は、これは昔の中国の秀才なら当然、受験するもので、何々の卿で一位の秀才と言うと名乗りを上げて通ったものです。
これは、李徴が、並外れた才覚の人間であったことを示しているのです。
現代の国家公務員上級試験(一種)のように、並外れた秀才なら、国を担うために採用試験を受けるわけで、何も社会的権威への執着ではないですよ。
中島敦が東大生だったことや、世の中から落ちぶれていく秀才の姿を、猛虎の姿になぞらえて、戒めとして出したわけです。
ご参考になれば、幸いです。
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Q初めての投稿です。 宿題に山月記の読書感想文があります。文字数は1201字以上です。誰か助けてくださ

初めての投稿です。
宿題に山月記の読書感想文があります。文字数は1201字以上です。誰か助けてください!

Aベストアンサー

1600字くらいあります。
助けになるかどうかは分かりかねます。


山月記の中で虎に変化した李徴は自分の事を卑下し自分は尊大な羞恥心などの良くない心根によって自分の外形が内心にふさわしいものに変えてしまったと嘆きましたが実際の所彼が詩人として名を成した結果したかった生活というものは正に彼が虎に変化した結果としてするようになった生活なのだと思います。
この話の中において一貫して李徴が虎に変化したできごとは不幸として扱われていますが私はそうは思いません 彼は生活のため地方の小役人に就職して屈辱を感じつつ生活を送っているとある日山に消え虎に変身し、この結果彼は何か後悔している様子で虎の姿で旧友の前に現れたわけですが実際の所虎になって何より強い存在として獣や人を無意識に食らいつつ生きる暮らしは彼がかつて望んだ詩人としての気ままな暮らしと本質として類似したものだと思えます。それどころか実際には彼は詩人になりたかったわけですらなく本当は何より強い存在として獣や人を食らいつつ生きるような放埓な生き方がしたいという本音が詩人になりたいという歪められた形で心に浮かんでいただけで実際には虎になって常人では一生叶えられない望みを完全に達成したのではないでしょうか。
また この話の中においてさりげなく実現されている発狂したあげく人間から虎へ変身すると言う現代のみならず恐らくこの話が書かれた当時であってもあまりに荒唐無稽すぎて到底何かの比喩としてしか捉えられない表現は、実はこの文章を読んだ読者に人間が変身し別の生物になりうるという奇跡が現実に起こりうるというできごとを現実として潜在意識に認識させ、そのような奇跡的で劇的な変質が読者の人生に起こりうるように読者の潜在意識を改良しようとするもくろみがあったのではないでしょうか? 不可能だと潜在意識が信じていると例え実際には可能であってもできなくなり、一見不可能であっても可能だと潜在意識が信じると実際に可能になったりする原理からして、この山月記の中に記された描写を読んだ後読者の中で生活に不満を持つものはいくばくかこの李徴のようにー例え肉体までは変質しなくともー生活に変化が生じ自分が本当に望んでいた生活を送るような変化が起きるようになる可能性があるように感じます。この文章には発狂という本来理性持つ人間にとっては死と同義の意味合いを持つできごとが実は本質的な、理性が自分にとって正気であると判断できる程度の状態のままでは達成できない程の大きな変容の開始になりうるという深い洞察が込められているようにも感じられます。この文章を読んだ後精神状態が不安定になったり生活に不安が出てきたりという人生での失敗の結果起きる不幸に見舞われた人間はこの話を思い出しいくばくか自分もその虎のようになるのかも知れないという漠然とした不安にとらわれる可能性があります。と、ここで願望の実現と起きて
欲しくないできごとが逆転するのです 本来いかなる方法をもてしても常人には達成できない変身という大業をたかだか自身一人の不幸や発狂程度が原因で成し遂げられてしまうかも知れないという奇怪な不安をしかしここでこの文章を読んだ人間は持つ事に成功するのです。不安に感じるできごとが頭の中で何度も再生され自分はそうなってしまうのではないかとつい思うーここに本質的な希望、「人間が変身できる」という希望ーそしてここで本来人間社会においては決して考える事を許されない考えー「森の中で仕事等の苦悩から逃れ最強の獣として悠々と生きる」といった風に実際に自分がなるというできごとが自分の人生の上にも本当に起きるかも知れないという考えが浮かぶ事が許されそうならないように自分は努力しようという社会的に見ると謙虚な努力が生じるようになるーこれらから考えてこの話は巧妙に組み上げられた、この話を見て反省するものにとっては社会的に容認される方向の努力を促進される警鐘としての意味を持ち反省できなかったり反省してもそれでも努力できず生活への不満を捨てられなかったり精神が不安定になってしまった人間にとっては自身の肉体的変質という奇跡か自由な生活への劇的な変化いずれかが促進されるどのような人間にとってもどのような状態の人間にとっても有用な文章だと考えられるのです。

1600字くらいあります。
助けになるかどうかは分かりかねます。


山月記の中で虎に変化した李徴は自分の事を卑下し自分は尊大な羞恥心などの良くない心根によって自分の外形が内心にふさわしいものに変えてしまったと嘆きましたが実際の所彼が詩人として名を成した結果したかった生活というものは正に彼が虎に変化した結果としてするようになった生活なのだと思います。
この話の中において一貫して李徴が虎に変化したできごとは不幸として扱われていますが私はそうは思いません 彼は生活のため地方の小役人に就...続きを読む

Q山月記

袁さんが、「どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがある」といっていますが、欠けるところというのは率直に言うとどこなのでしょう?
色々調べてみたのですが、あまり良く分からなくて困っています。
分かる方がいましたら、解答お願いします。

Aベストアンサー

ものすごく簡単に言えば、天才と秀才の違いです。

李徴は秀才だったけど天才ではなかった。
天才と秀才の差は袁サンのような凡人には僅かな差にしか見えない(だから袁サンは「何処か(非常に微妙な点において)欠けるところがある」としか表現できなかった)、しかし李徴当人はこの差は絶望的なものに見えます。

それゆえ、

  凡人に比べれば才に恵まれている→尊大で傍若無人に振舞う
  天才とは決定的に差があるとの自覚がある→猛烈な劣等感にさいなまされる

ということになります。


この辺の事情がわかりにくければ、「アマデウス」という映画をお勧めします。
古い映画ですが名作ですし未見でしたら一度ご覧あれ。

「アマデウス」の主人公サリエリ氏は自他共に認める大作曲家でしたが、モーツァルトに接して初めて、モーツァルトこそ真の天才であり自分はたんなる秀才に過ぎないと気が付きます。
しかしこの差をはっきり認識しているのは当のサリエリだけで(モーツァルトは最初からサリエリなど眼中にないので気にも止めていない!)、周囲は気がつきません。

サリエリは今までどおり大作曲家として振舞いながらも、モーツァルトに対する嫉妬と劣等感に苦しめられ、とうとう…。

この映画のサリエリ氏の最期を中国伝記小説風に表現すると、「虎になった」になるのでしょう。


さて、ではこの天才と秀才の差、袁サンが「何処か欠ける」と表現したものは何なのか?

これを言葉で説明するのはやはり難しいです。
でも確実に存在するのですよ。

文学でも音楽でも美術でも何でも、それなりに真剣に取り組んだことのある人間には明確に把握できます。
そしてそれを把握できた人間の大多数は「ああ、自分はどんなに頑張ってもこの域には達することができない。つまり自分は天才ではないな」とはっきり認識することになります。

若いころ、この苦い思いを味わったことのある人間にとっては、「山月記」は非常に分かりやすい、そして身につまされる小説なのです(苦笑。

ものすごく簡単に言えば、天才と秀才の違いです。

李徴は秀才だったけど天才ではなかった。
天才と秀才の差は袁サンのような凡人には僅かな差にしか見えない(だから袁サンは「何処か(非常に微妙な点において)欠けるところがある」としか表現できなかった)、しかし李徴当人はこの差は絶望的なものに見えます。

それゆえ、

  凡人に比べれば才に恵まれている→尊大で傍若無人に振舞う
  天才とは決定的に差があるとの自覚がある→猛烈な劣等感にさいなまされる

ということになります。


こ...続きを読む