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歴史に「if・・・」はないが,機略縦横の賢将・小早川隆景について疑問があります。
疑問1)隆景が慶長5年(1600年)以降まで生き長らえていたならば,関ヶ原役はあったか?
疑問2)隆景自身に天下を望む気持ちは無かったのか?

A 回答 (4件)

1 小早川隆景が生きていても、関が原の戦いはあったでしょうね。

ただ、毛利軍の動向には影響が出てくるかもしれませんね。
  一つには秀秋の処遇を考えれば、関が原の戦い以前に隆景は隠居し、隠居料として10万石程度の所領を頂いて、小早川家としての動向を決めるのは秀秋に移っているでしょう。隆景は隠居として相談に乗るだけでしょう。
  関が原の戦いは家康の天下取りの戦いではなく、豊臣家の内部分裂の戦いです。豊臣家で戦後にどちらの勢力が勢力を得るのかということです。
  ただ、関が原の戦いで毛利家が東軍に付いた場合、関が原の戦いの歴史上における役割は少なくなり、その後再度の内部対立が起こるでしょうから、何年か後、家康か他の誰かが亡くなったあと、再度の天下分け目の戦いがおこるでしょう。その戦いはどのような状況の変化があるかによりどういう分裂状態で戦いがおこるのか予測はつきません。

2 隆景に天下取りの気持ちがなかったとはいえませんが、どちらかといえば、なかったように思えます。あったとしても、甥の毛利輝元に天下を取らせようとしたでしょう。
  毛利輝元に天下取りの器用がないと判断した場合はおとなしく豊臣家の重臣としてすごしたでしょう。
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小早川隆景は父である毛利元就が営々辛苦して築いた毛利藩の維持に専念した生涯でした。


かれは毛利家に秀吉の縁者をいれて毛利家を意のままにしようとする秀吉の策謀に対し、実子がいない事を理由に候補であった小早川秀秋を後継者として迎えるべく懇請し自身は隠居し所領の約40万石を譲りました。
秀吉も隆景の意図を見抜きながら宗家を思う心根に感じ同意したといいます。

彼は輝元に天下をとる覇気も器量もないことを見抜いて、家臣のいない所では輝元を折檻する程鍛えたといいます。

このように豊臣政権下での生き残りに終始したことは、彼に天下を望む意志も能力もなかったといえましょう。

隆景の寿命がもし長かったとしても、彼は豊臣政権の持続よりも毛利家の存続の方が優先した筈です。
従って関ヶ原役への動きとは距離を置く動きを工夫したでしょうし吉川広家と同調し、家康から誓詞をとるなど約束を反故に出来ぬ工夫をこらしたと思います。
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疑問1)隆景が慶長5年(1600年)以降まで生き長らえていたならば,関ヶ原役はあったか


前田利家が生きていればがなかったでしょうが、小早川隆景がいきていても多分関が原はあったでしょう。
そして、毛利家が徳川のだまし討ちにあって減封されることはなかったと思います。
疑問2)隆景自身に天下を望む気持ちは無かったのか?
それは、ないでしょう。
ただ、甥の輝元に天下人をとらせてやる気はあったと思います。
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疑問1:関ヶ原ないし、それに類似の戦いはあった。


秀吉が死んだ後、実力のある「実戦で相手を組み伏せた」権力が成立しなければ、武家社会が納得しない。徳川家光の時代になれば、実戦経験のない世代になっているので、武家社会が納得するでしょうが、まだまだ、血なまぐさい時代。後継者は血縁であろうと、なかろうと、実力を表明する必要があった。
この辺の武家社会の論理に関しては、戦国期の北条家を例にとって、説明されている書籍を読んだ記憶があります。
隆景と家康の長生き合戦で、結局家康が長生きして、1605年くらいに、関ヶ原ではないでしょうか。

疑問2:聞いてみないとわからないが。
信長が天下布武というスローガンを掲げて、そのそばで何十年もいた人間(秀吉、家康、三成)と、そうでない人間とでは、世界観が違うと思います。単純に、戦闘が強いだけでは、世界観を共有することはできない。といういみで、隆景には、天下を望んだとしても、天下観がもてないので、行動に移せないと思います。
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