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「野狐禅」。
何となくわかりますが、もう一つ具体的なことはわかりません。
一体どういうことを指す言葉なのでしょう。
この言葉について色々ご承知の方、禅に詳しい方、どうかよろしくご指導下さい。
(お礼が遅れることがありますので予めご承知ください)

A 回答 (4件)

野狐禅(やこぜん)とは、禅修業を少しした、もしくは少し知っているといって禅についてすべて知っている、悟ったつもりの者を、あざむく、だます野狐にたとえて揶揄する言葉です。

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この回答へのお礼

お礼が遅くなりましたが、どうもありがとうございました。
素早く適確な回答を頂いてとても心強く感じました。
またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2002/08/29 08:21

野狐禅という禅があるわけではなく、他人の禅を卑しめることば、つまり悪口ですね。


もともと禅的な宗教は中国人好みなところがあって、中国で盛んになり宗派もいろいろに分かれました。自分たちの正当性については、仏教の各宗派は経典の優劣によっているのに対して、不立文字経外別伝といって経典をあまり重要視しない禅宗では師匠と弟子との関係、つまり法脈というものが重要視されました。誰の弟子であり、その師匠から印可(悟ったという証明ですね)を受けているかどうかということが重要になるわけです。
野狐禅というのは、師匠なしで勝手に悟った、という意味です。法脈が無いのですね。だから同じ禅でも正統派の私の禅とはまったく違うのだと言いたいときに使う言葉です。
ただ私個人の思いでは法脈とか師匠とか弟子とか印可とかいうのは、さとりという心の中で起こっている現象と、あまり関係がないのではないかと思ったりするのですが・・・
ただ自分自身の禅を、私の禅は野狐禅ですよと、謙遜するような場面で使われているなら、野狐ということばは非常に洒落た言葉ではないかと思ったりしています。
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この回答へのお礼

お礼がおそくなりましたが、どうもありがとうございました。
なるほど、経典よりも教えの系列(?)を重視するところからこういう侮蔑の言葉が生まれるわけですか。納得できます。
確かに禅では師匠と弟子の間のドラマがたくさんあるようですね。誰の教えを継ぐかというのは弟子にとってはそれだけ切実な問題だったのでしょうね。
貴重なご意見をどうもありがとうございました。
またの機会にもどうぞよろしくお願いします。

お礼日時:2002/08/29 08:29

valhallaさん、こんばんは。



「禅門では修行は続け無ければ意味がない(別の言葉で行持といいます)」と説きます。
そして、道元禅師は「修行道場は叢林であるべし」とおっしゃっています。
林は木一本ではなり立ちません。
修行する仲間(雲水)がたくさん集まってこそ修行道場(叢林)となるのです。

お互いが切磋琢磨してこそ修行なのですね。
一人や二人では修行は出来ません。
必ず自分の選り好みが出てしまい、我が顔を出してしまうからです。

狐は群を組む事はありません。
そして、人を「あざむいたり、だましたり」しますね。
それ故に自我にとらわれた修行になってしまうところから、「自分一人で悟った」とか「自分はもう悟ったのだから修行はいらない」あるいは、「私はかの有名な老師のところで○年間も厳しい修行してきたので、もはや云々」などと天狗になって言っている禅僧の、その「禅」そのものを「野狐禅」と呼ぶようになったのです。
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この回答へのお礼

お礼がおそくなりましたが、どうもありがとうございました。
なるほど、野狐は仲間を持たない、というところもポイントなのですか。「僧」という言葉はもとは複数の、僧侶の集団を表す言葉だったということをどこかで読んだことを思い出しました。
本当に集団の中で磨かれるということは大事なことだなという気がします、特に今の時代には。
またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2002/08/29 08:35

そもそもこの言葉は、「無門関」の第二則、いわゆる「百丈野狐」から一般に知られるようになったものです。

因果の道理を軽視する愚を戒めるのがその本則の主眼とするところです。

「百丈野狐」の簡単な内容は以下のようになります。
百丈山の懐海和尚のもとにある老人が訪れ聞法します。和尚が尋ねてみるとこの老人は、実は自分は人間ではなく野狐だと言います。はるか昔には人間としてこの山で住職をしていたが、ある修行僧に「大悟を得た人でも因果の影響を受けるのか」と問われ、「不落因果(因果に落ちず)」と答えたところ、五百生の間、野狐の身に堕ちてしまった、というのです。
野狐は懐海和尚に悟りのための言葉を請い、和尚の「不昧因果(因果をくらまさず/因果にくらからず)」という言葉を聞いて大悟し、野狐の身を脱した、という内容です。

ここから、浅薄な体験や学識で悟りを気取る禅者をいう言葉として、「野狐禅」という表現が生まれたわけです。わけても当初は、悟ったという慢心から因果の道理をないがしろにする風潮を非難する言葉だったのでしょう。
曹洞宗の道元さんも正法眼蔵「深信因果」の巻でこのエピソードを引いて、因果の道理を発無する(=無いものと扱う)悪しき風潮を論難しています。理解してもいないものを理解したと言い、体得できていないものを得たと言うことは、知りもしない仏に自分をなぞらえるわけで、即ち仏を謗り、法を謗ること(謗仏、謗法)と同じだ、というのが道元さんの言葉です。

さて言葉の起こりはともかくとして、昔も今も「野狐禅」という言葉そのものに異議や疑問を呈する輩が多くあります。その非難というのは、およそ単純に言えば、野狐禅という言葉をもって、悟りという個人の心的かつ内的な問題を外部から評価することに対する拒否感に根ざすものでしょう。

しかし、この非難は全く的はずれです。
なぜなら禅とは必ず師を必要とするものであり、禅の悟りとは必ずその師から認められることによって確認されるべきものだからです。悟りという言葉は誤解を招きがちですから、「禅の肝心なところ」と言った方がよいかも知れませんが、いずれにせよ、本人が「わかった」というだけではダメなのであって、必ず外部としての師がそれを確認しなければ、それは全く無意味なことなのです。

考えてみればすぐわかることですが、古今東西、勝手な思い込みで「全てがわかった」などとのぼせる人間は枚挙に暇がありません。三島由紀夫の「金閣寺」ではありませんが、とりわけ禅の世界は多分にそうなりがちなところがあります。
しかし、個人にある能力が備わったかどうか、その当人が判断できるわけは無論ないのであって、誰か他の人間が外部から確認しなければならないのは当然のことです。禅はそれを師が行うというだけで、システムとしては当たり前のことでしょう。

禅は純粋主観主義の立場に立ちますが、その修行という内省化のプロセスの中でとりわけ起こりやすい「個我の妄想的極大化」、つまり“個人の頭の中だけの満足”というソリプシズムの陥穽を避けることが重要な課題になるわけです。
そのために、身体的には清規(しんぎ)という規則を設けて集団で画一的な行動をとらせて不必要な主観を極力排するのですし、精神面では修行僧個々人の日常を知る師がその力量を逐一確認するのです。
その最終段階が臨済禅でいうところの「印可」証明ですし、曹洞禅ならば「入室」授法という作法で、いわゆる認証をもらうことになります。主観的な観念の客観性を師が保証して初めて、個人の主観に意味が与えられるのです。

いずれにしても「悟り」にあたって外部からの認証は絶対不可欠なのであって、修行僧自ら「悟り」を口にすることは厳に慎むべき事でした。(この辺りは禅に限らないはなしで、正法眼蔵「四禅比丘」にもお釈迦さん在世の時代の話が色々と記述されています)
従って、禅の歴史の中でその禁を破る人々は常に「愚闇の輩」「外道の流類」などなど、厳しく排斥されてきました。「野狐禅」という言葉も単にそのような表現の中のひとつであり、特にキャッチーかつストレートに表現されたことで人口に膾炙したに過ぎません。

別の言い方をすれば、師の認証が重要であるということは、、師資相承といって師から弟子に受け継ぐことを重視する禅では、その師の評価が弟子自らのものとなるということでもあります。だからこそかつての禅僧は行雲流水の如く師を求めて遍歴したわけです。
道元さんは学道用心集の中で、「正師を得ざれば学ばざるに如かず」(原漢文)と書いています。「正しい師を得られないのなら、学ばない方がましだ」というこの言葉は、いかに師の選択が重要であるかということを端的に示しています。

もちろん「野狐禅」という言葉を用いる側にも見識が求められるわけで、軽々しく日常的な局面で多用することは慎まなければなりませんが、本質的にはこの言葉は禅というもののあり方の根幹に関わる極めて重要な言葉だという認識を持つ必要があります。
他人の思想に関与することだけを取り上げて、現代の皮相な“民主的”感覚で「野狐禅」という言葉を捉えると、禅そのものの理解を全く踏み違えることになってしまうでしょう。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまいましたが、どうもありがとうございました。大変に丁寧な書きこみを頂いて本当にありがたいです。
なるほど、やはり師匠と弟子の関係を重視する中で生まれた言葉なのですか。妄想と悟りの境界線は微妙だなと感じていたのですが、そこを責任を持って峻別するのが師匠の役目だということになりますね。よくわかりました。
野狐禅の出所も教えて頂いてすっきりしました。
またの機会にもどうぞよろしくお願いします。

お礼日時:2002/08/29 08:45

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