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36歳の男です。子供の頃から信心深い祖父母の影響もあってか、神仏へのお参りなどはよく行う方で、特にどの宗教・宗派と言う訳ではありませんが、比較的に神仏を日頃お参りしています。

そこで、以前から感じていた事があり、できましたら僧侶や神主の方のお話をお聞かせいただけますと幸いです。

神道や仏教の力で、鎮護国家や病気の平癒などの祈願が日本では昔から行われてきましたが、やはりどの時代を取り上げても、また今日でも、決して平穏無事になった事はありません。もちろん、機能の夕食では家族笑いが絶えなかったとか、ここ何ヶ月は風邪を引かないなど、場面ごとには平穏が訪れますが、歴史や世相を見る限り、私は平穏と災いは永遠に繰り返していくのではないかと思うのです。

本当は宗教家の方々も、神仏の力で恒久平和が訪れるなどあり得ないと思われているのではないかと、恒久平和は終わりのない永遠のテーマであって、実状はいつの時代も永遠に起伏があるものと、そういう前提で活動をされているのではないかと最近思うのですが。

この歳になって、参拝の仕方も変わってきました。今までは「○○の願いが叶いますように。」とか、「○○の病気が治りますように。」と言ったお参りの仕方でしたが、今は「ご先祖様をお守り下さい。」と心の中で拝むようになりました。小学生の子供にも、「自分の願い事を神様にお願いしてはいけない。」と教えています。

僧侶や神主のみなさんは宗教家をやりながら、ご自身に対してやご自身の受けてきた教え・生き方に対し、日頃疑問を感じる事はありませんか?

A 回答 (3件)

曹洞宗の僧侶です。



疑問は毎日感じています。僧侶は、決められたセリフを何回も繰り返すだけのご案内ロボットとは違います。多少とも意識的であれば、自分が行じている仏道に疑問が生じるのは誰でも当然です。
私個人の思いを例にあげるなら、「坐禅専一を標榜する曹洞宗なのに、どうして法式に密教の要素がはいるのだろう」とか「僧堂では厳格な規律が守られていて、宗祖も”規律が守られている場所を寺院という”とわれているのに、実際に自分の寺に戻って生活すると一般家庭とそれほど日常生活はかわらないのはどうなのか」などなど、たくさんあります。
しかし、およそ仏道を行ずるという事は、そのような疑問を持ちながらも活動を止めてしまわないところに、一縷の望みがあるのではないかと思っています。曹洞宗では「尊いから行ずるのではない、行ずるから尊いのだ」という意味の言葉がよくいわれます。

蛇足ながら、私の知る限り仏教が「恒久平和」を約束したことはありません。また苦楽の判断を突き詰めていけば、釈尊は「一切皆苦」といっています。人間世界の「恒久平和」が実現されても、その中では理不尽な死や苦しみ、憎しみ、後悔は無くなる事はありません。仏教はそのような「一切皆苦」からの跳出を企図するものです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。「尊いから行ずるのではない、行ずるから尊いのだ」、とても意味深い言葉だと思いました。ありがとうございました

お礼日時:2007/12/22 10:11

僧侶です。


ご質問を拝見しましたが、若干宗教的な感覚ではないように感じました。一度きちんと宗教というものを勉強され自分流の解釈を離れることが必要だと思います。
宗教はそもそも神道でも仏教でも他の宗教でも「選択」には厳しいものです。
> 特にどの宗教・宗派と言う訳ではありませんが、
> 比較的に神仏を日頃お参りしています。
というのは、宗教的なお参りは皆無であるということになります。
ただ、その内容にもよります。個人の持つ欲望をかなえる手段があるとしたらすでに仏教的ではありません。
「恒久平和」がどのような意味合いで用いているかにもよりますが、自己の描く理想世界、欲望のかなう世界的考え方なら、当然に神仏の力でその意味の恒久平和が訪れることなどあり得ないのは当たり前の話で、この世を娑婆と表現されるように、四苦八苦にはじまる苦悩の絶えない人生であります。その苦悩を無くすのが宗教ではなく、その苦悩を力強く乗り越えて生き抜いていく原動力となるのがある意味の宗教の役割であり、各人に必要なものとの位置づけになるものです。

>「ご先祖様をお守り下さい。」と
ご先祖とは?何代前までですか?私の命は100代、1000代なんという限られた命の連続ではありませんし、たった20代でも1048576人の先祖数になり、100代前では1267650600228229401496703205376人です。しかし私たちの命は100代や1000代の命ではありません。
それに仏となった先祖に護って貰うと言うのならわかりますが、煩悩いっぱいの私たちがご先祖を護っていただくことを願う必要があるのでしょうか?

>「自分の願い事を神様にお願いしてはいけない。」と教えています。
はい、神仏の種類にもよりますが、基本的には自分さえ良ければよいというような欲望をかなえるような願いをするものではなく、そんな願いをしている自分に気がつき、いつ終わるかわからない自分の人生をしっかり見据えるのが必要でしょう。
宗教家は、自己の宗教がその生き方・生き様に反映されているはずです。ですから、疑問を持ちながら人生を生きることはありえません。素直に聞いて領解したことを他に伝えという伝言係・実践者が宗教家であって、もし、自分に合わないと感じたら、その時点改宗します。(ですから神父や牧師であった方が仏教の門をたたき僧侶になったり、その逆があったりするのです。)
合掌
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。実はこの質問を書かせていただく前に、このサイトでamida3さんの様々なご回答を拝読させていただいていました。仰る通り、私自身宗教というものを特に詳しく勉強した事がありません。

もしご指導いただけましたら大変ありがたいのですが、私のように宗教的な思想が伴わない参拝の仕方では、やはり「宗教的なお参りは皆無である。」となるのでしょうか?また、「宗教家は、自己の宗教がその生き方・生き様に反映されているはずです。ですから、疑問を持ちながら人生を生きることはありえません。」というのも、実は意外でした。内心、宗教家の方も疑問を感じるものなのかと思いこんで質問したものですから。出家しないと神仏をお参りしても、まねごとになりますか?

計算上、先祖の数が増えるのはよくわかります。自分の中では、遺影がある曾祖父母や戒名のある先祖程度までです。「ご先祖を護っていただくことを願う必要があるかないか?」については、必要の有無に関わらず、自然にそう思うようになった経緯があります。どうぞご教授よろしくお願いいたします。

お礼日時:2007/12/20 23:12

申し訳ありません一般人です。



〉「自分の願い事を神様にお願いしてはいけない。」と教えています。
 同じことを僧侶より伺ったことがあります。
 人は見返りを要求すると卑しくなるといわれました。
 願い事を参拝することによって見返りをほとんどの人が要求している
 が仏教の世界ではそんな物乞いをする教えはないそうです。
 参拝の目的は先祖に無事であることを報告することだそうです。
 「今年も無事に過ごすことができましたありがとうございました」
 ということでご先祖も安心されるということです。
 それに、願い事をすることはまた先祖に心配事を抱えさせてしまい
 供養にはならないといわれました。

 よって、festival-tさんのお子さんに対する教育はすばらしい
 と思い質問の回答ではありませんが書き込みいたしました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。その僧侶の方のお話には説得力がありますね。僕も見返りを求めるって事には、相当な抵抗があります。

お礼日時:2007/12/20 15:15

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