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私は真言宗徒です。私の浄土真宗の知人はこう言います。
「真言宗や天台宗はもはや仏教とは呼べない。仏教には元々お位牌や魂の概念、護摩焚きの儀、お真言、木魚、お盆で先祖帰りを祝う行事、葬儀や法事帰りに塩を撒く風習、さらには大日様を祀るといった行為は仏教が中国、日本と伝播していくにつれて道教、儒教、景教、神道、その他土着の風習が数多く入り込んだ結果本来の姿を失ってしまったものであり堕落以外の何物でもない。その点浄土真宗は大乗仏教本来の姿で釈尊が説かれた教えに忠実である。親鸞聖人は偉大だ。そして真宗は卒塔婆を立てない等追善供養もしなくていいので貧乏人に優しい。そもそも加持祈祷等金がなくては出来ない。しかし念仏は自分ひとりでいつでも簡単に唱えられる。よって浄土真宗の方が優れている。」

また日蓮宗の知人はこう言います。
「日蓮宗以外は全て邪宗。なぜなら我らが使う法華経には釈尊が本当に衆生に伝えたかった言葉が書かれているからだ。それまでの経典はみな方便であるから不完全である。不完全な経典をよりどころにしている宗派は邪宗である。とくに真言宗に至っては酷い。大日経に金剛頂経ときたもんだ。法華経のみならず釈尊すら軽んじており世俗主義に徹しており堕落の極みである。弘法の教えでは故人の成仏はおろか民は救われず国は滅びてしまうであろう。あなたも日蓮大聖人の教えに帰依しひたすら南無妙法蓮華経と唱えなさい!」


この言葉を聞いて二人は可哀想な原理主義者だと思いました。
二人がそれぞれの宗派の教えを愛しているのは痛いほどよく分かります。しかし釈尊がおっしゃった言葉にとらわれ過ぎているきらいがあると思うのです。大切なのは宗教に拘らなかったとされる釈尊がおっしゃった言葉や行動を巨視的に捉える必要があると思うのです。詰まるところ慈悲や感謝などが原点である気がしてならないのです。それを実現させるために教化し難い衆生に方便を使って説いたのでしょう。

彼岸会法要の時、檀那寺の和尚さんにこの事を話しました。
和尚さんは「高野山に籠って仏様やお経について一生懸命修行して一人前の僧侶と師匠から認められて密教法具を授かっても僧侶としてはまだまだ半人前なんだよ。檀家さんやその他大勢の一般の人や自然、社会、世俗文化と触れあって僕たち僧侶は一生かけて仏教とは何かを学びとっていくんだ。高野山での修業が全てじゃない。それを一般の人々に押しつけたところで彼らが納得するかい?相手の立場に立って時には妥協することも大事だよ。それを慈悲と言うんじゃないのかい?山での教えに極端に反していなければ僕は割と何でもありだと思うんだけどね。固執は煩悩にも繋がるしね。先人たちだって儒教の位牌の概念を導入したりした訳だし。互いに幸せにならなきゃ宗教じゃないよ。僕も感謝出来なきゃいる意味ないし。お釈迦様が本当に言いたかった事は法華経うんぬんとかじゃなくて常に弟子たちは感じてとっていたんじゃないかな?
余り硬く考えて人に押し付けると不安がって逃げていっちゃうよ?安らぎが第一だよ。
だからお大師様が温泉を掘り当てたってのは実に有難くて慈悲に満ち溢れた行為じゃないか。
加持祈祷だって人々が求めたから行った訳だし。立派な仏教だと思うよwww」
和尚さんのお説教を聞いて真言宗が好きになり自分が真言宗の檀信徒であることに誇りが持てました。

邪宗とは原理主義に走り土着の風習を認めず妥協せず他人を強いて教化せしめんとする宗教のことを指すのですか?

A 回答 (2件)

もともと仏教は誰かを崇めるための宗教ではなく、如何に生きるべきかを説いた思想ともいえます。


人によって思想が異なるのは当たり前の事ですから、誰が正しいとか誰が間違っているなどということはありえない。

真実に一番近いのは檀那寺の御坊のおっしゃることでしょうね。
仏教の諸悪の根源は慾です。
我が家の宗派である曹洞宗では禅を行いますが「欲を捨てようとする心が慾だ」と説きます。
つまり我こそはと思う気持ちは傲慢であり我慾だとします。悟りを得ようと求める心も我慾です。
だから曹洞宗では只管打坐、ひたすら禅(修行=生きること)を行う事を旨とします。

願いは人の自然な心の発揚であり安堵です。
安堵を求める願いも欲ではありますが、安堵がなければひたすら修行する事も出来ません。だから安堵を求める気持ちは慾ではないのです。でも気がかりを仏に預けられず自分で抱えて祈るのは慾になるのです。

人間が安心して生活するための心の発揚を止める事は新たな不安の種にしかなりません。
だから仏は安堵するために必要なものを与えてくれます。お大師様の水や温泉もその一つです。
安堵を求める人の心を邪とするならば、仏に至る道もまた邪でしかありません。
まして自らの進む道も見えないのに人の道を論じることは、まさに邪でしかないのです。
でも大切なことは何が邪であり、何が邪でないかではなく、自分の歩んでいる道のみを見つめることです。一心不乱であれば他の教えを論ずる暇はありません。
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この回答へのお礼

よくよく考えたらお釈迦様はバラモン教の土壌で育ちましたがその社会には否定的でしたね。
無宗教者で相手の立場に立って考え行動し慈悲を重んじ皆の幸せを願う方だったと思います。
何かを崇めるよりも現在の生き方を問う哲学的な要素の強い宗教なのですね。
だからその邪魔となるものが欲であり煩悩であるということなのですね。
そういった事は弟子たちは常日頃から分かっていたし感じていたでしょう。

中にはお釈迦様の本当に言いたかった事が書かれているといわれているお経がありますが
長年お説教をしてきて死期が近づいて急に本当に言いたかった事を説くなどと言う事自体
ありえないと思います。しかしだからといって偽経といって切り捨てるのは原理主義で
あり行き過ぎていると思いました。疑問もあるけどいい事が沢山書かれていてそれを読んで
安らぐ人が大勢いるのだからよしとする寛容さこそ重要ではないかと思えるようになりました。

きっとお大師様もお釈迦様も目指すものや考え方は一緒だったと私は思います。
仏様やお経の解釈にばかりとらわれていないで世間に目を向けなさいということでしょうね。

鎌倉新仏教が成立した時代は世相が不安定であったので一神教的、一教義的な過激な宗派が出ましたが
原理主義だからといって邪宗と呼ぶのは傲慢なのかもしれません。
それを信じる人がよしとしているのならば大きなお世話というものですね。

>安堵を求める人の心を邪とするならば、仏に至る道もまた邪でしかありません。
おっしゃる通りだと思います。お釈迦様やお大師様の行為が無意味になってしまいますね。
民衆の為に井戸や温泉を掘ったり学校を建てたりお護摩等の加持祈祷が出来ませんね。

>欲を捨てようとする心が慾だ
そうですね。とても難しいです。あまり意識するとよくないのかもしれません。
欲を捨てるのではなく欲がない状態、つまりあるがままに自然に生きる事を目指す
といいのかもしれません。それが自他共に満ち足りた状態に繋がるのでしょう。
宥和一致とはまさにこれですね。

お礼日時:2013/04/06 22:16

私の考えでは、違います。



邪宗の定義する事自体、これ(カルト含む)まで根を広げてしまっている現状では、出来ないと思います。全ての元を辿った所に答えを探してみてはいかがでしょうか?

質問者様の論理の迷路を「檀那寺の和尚さん」に説いて貰えたならば、それが質問者様の答えだと思います。

宗教心が乏しい私は、「宗教たるものは、信じている人に救いさえあれば良い物」だと考えて居ります。それが、人間の原動力にさえなれば良い程度の事で、”朝の占い星座カウントダウンで、1位”これで「良い気持ち」が生まれれば十分だと思いますよ。

信者に救いが、そこに有る限りは”原理主義に走り土着の風習を認めず妥協せず他人を強いて教化せしめんとする宗教”であってもしょうがない事だと思います。

根源が一緒でも、価値感が異なる事は歴史を積めば当然です。
邪宗を決めるのは、質問者様でしかなく、他人に強要する事でも無いですし、逆に他人に強いられるモノでもないと思います。
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この回答へのお礼

目から鱗です。
よくよく考えてみたら私の宗派は「宗教心の乏しい一般人を対象とした宗教」と言えなくもないです。
面白い事に和尚さん曰く「真言宗は突き詰めれば突き詰めるほど複雑で深く理解するのには一生かかる」そうですから信仰心の篤い人向けでもあるそうです。
しかしおっしゃる通り宗教は「宗教たるものは、信じている人に救いさえあれば良い物」とも言えるかもしれません。
お大師様はやはりそんな一般の人々のニーズに合ったものを差し出す事の出来たお坊さんだったのですね。そもそも一般大衆の気持ちを無視して大乗仏教もなにもあったもんじゃないですからね。

邪宗などどいう概念自体が派閥争いのような無意味な概念なのかもしれない、そんな気もしてきました。
学校に色々な考え方の先生がいるのと同じなのかもしれませんね。
そもそもカルトでも幸せならば他人にとやかく言われる筋合いありませんものね。

お礼日時:2013/04/02 01:47

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