A 回答 (31件中1~10件)
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No.31
- 回答日時:
横レスです。
理神論は ほんとうには信仰ではないですよ。
野宿していた羊飼いたちが かれの誕生を知らされ ベツレヘムの馬小屋を探し当てて 会いました。かれらは まだ 何のことだか 分からなかったかも知れませんが 信仰とは そういうことの中に見出されると思っています。
あるいは イエスと共に 十字架に上げられた強盗の一人を思い浮かべてください。イエスを見て 自分の心が現われ 自分で自分のことが分かったのだと思います。信仰は 理詰めではないと思います。
(と言っても 理詰めをおおいにやるのですが とことんまでやるのですが 問題は その理性による推論の内容と 信じるに至ったその信仰内容とは 直接のつながりは ないと言ってよいのではないでしょうか)。
★ 自分が信じているかどうかは自分の主観によって決まりますよね。
☆ そのとおりだと思います。
★ 自分が神を信じている。と思い込めばそれで終わるのですか?
☆ 《思い込む》という表現は 《信じる》とは離れていると見られます。信じていたなら 思いこむ必要はないでしょうから。
★ 誰かに認めてもらう必要があったとしたら、教会やその類の権威が
復活してしまうような気がするのですが…。
☆ 《認めてもらう必要》はないと考えます。信じているということを 人にも 公に口に出せばよいのだと思います。(ローマ書10:10)
教会の問題は 新しい質問がありましたね。
No.30
- 回答日時:
話はかなり飛躍すると思うが、
いわゆる自閉症の患者は、自分の目の前に人がいても、その存在に気がつかないらしい。
つまり、彼にとっては、目の前にいる人間は単なる物体であり、
確かに机や椅子に比べて激しく動き回り、時にその頭部から何らかの音声を発するが、
ただそれだけのモノであり、ましてやその物体が意思疎通出来る、
自分と同じような意志ある存在とは、夢にも思わないらしい。
したがって、もちろん彼は真に孤独である。
この広い世界に文字通り自分しか存在しないのであるから。
実は、我々もレベルは異なるけど、この自閉症患者と同じようなものと思われる。
たとえば、我々の周囲では日が照り、風が吹き、雨が降り、
様々な自然現象および人間やあらゆる生物界によって目まぐるしく事象が変転している。
一種の自閉症患者である我々は、そこに統一された意志を見出すことができない。
真の自閉症患者と同じく、我々はそこに事象の変化しか感じることしかできないのである。
真の自閉症患者の病状の原因は、医学では、先天性の脳機能障害と見なされている。
すなわち彼は、自らの部分的な脳機能の欠落あるいは不活発のため、
目の前にある一個の肉体が織り成すさまざま行動から、
その統一した意志を感じ取ることが出来ないのだ。
そして我々自身も、多分、真の自閉症患者と同じく、
広い意味での脳機能の不活発によって、世界の事象を司る神の意志を感じ取ることができないのだろう。
〔治療〕
ではもし、真の自閉症患者に我々の存在を気付かせるためにはどうすればいいだろうか?
彼のしたい様にまた望む様にさせている限りは、多分彼が、我々の存在に気が付くことは永遠にないであろう。
手っ取り早いのは、彼のほっぺたを張り飛ばしたり、食べようとしてるモノを取り上げたり、
彼の意志にそぐわないことを引き起こして我々の方に意識を向かわせることだ。
すなわち、彼に様々なつらい刺激や事故を与えて、自らの意志とは違う意志が存在することに気付かせることだ。
(まあしかし、実際の自閉症の治療において、なかなか事は単純には運ばないようであるが)
そして、治癒の最後を決めるものは、
自閉症患者自身が、まだその時点では意識されていないけれど、
ただ、自分とは違う意志の存在があるということを、自ら求めることにおいてでしかないであろう。
振り返って、我々が神を見失っている今の状態から脱するためには、
やはり神は、我々を様々な辛い試練に合わせ、
人間の意志を超えた存在があるということに気付かせようとするのではないだろうか。
したがって、我々の信仰が成就するのは、まさに我々がその神を発見した時である。
確かに、キリストは自らあらゆる試練に耐え、真に神の意志を見出したのであろう。
ちょうど、自閉症の患者がとうとう、自分を親身に世話してくれている自分の家族の存在に気付くように。
そういう意味で、キリストは我々の手本であり、師匠である。
聖書と教会は、その師と仰ぐキリストを感じ取る場所と言っていいかもしれない。
そして、さらに述べれば、
真の自閉症患者がその症状から回復すると、家族とコミュニケーションが取れるようになり、
自らの要望を家族に伝えることによって、望む状態を手に入れることができる。
病気のときには、とても叶わなかったことだが、今や「コップ一杯の水をちょうだい」と家族に言えば、
喜んで持ってきてくれる。
同じように、我々が神の意志を真に見出したとき、
神に我々の望むことを願ったなら、果たして叶わないことがあろうか。
望めば水の上さえ歩け、死人をも蘇らすこともできるようになるであろう。
それが今できないのは、いまだ我々が神の意志を見出せていないからである。
それは、果たして今後可能となるか?
多分それには、我々に多くの試練と、
その試練による我々の脳機能のさらなる活性化が絶対必要なのかも知れない。
そして最後の決定的要因は、
やはり、我々の意志が神の発見を求めるているという、そのことにしかないであろう。
No.29
- 回答日時:
結局、仏教もキリスト教もイスラム教も、その表現は違えどもある存在を信じて、それを拠り所として信仰という形を成しているのですが、そのある存在とは、いずれ科学的に解明されるでしょうが、実は解り易く言えば、一つの大生命体なのです。
それを人々は偉大なるものとして神とか仏とか様々に呼びますが、その指し示す実体は同一のものなのです。もっと簡単に言えば、この宇宙全体が一つの生命体なのです。そして、この生命体は素晴らしい知性も兼ね備えていて、我々にその一部を提供してくれたりすることもあるのです。よく聞くことですが、ある難題を抱えていた人が、ある時突然ひらめいて、その難題を克服したとか、急に思いついて素晴らしいものを発明したとか、いろいろとありますが、これなどはその大生命体の知恵や知識を借りたといってもよいでしょう。つまり、大生命体は巨大なデータベースみたいなものなのです。
ですから、本来誰もがこの偉大なるものとコンタクトもできるし、知らないうちにある意味、接触しているとみてもよいのです。そして、このことを敏感な者は覚り、それを説き教えようとしたのが宗教の始まりかも知れません。つまり、宗教とは当時の科学みたいなものだったということです。
いずれにしましても、真理は一つであり、誰かに認めてもらうなど不要であり、自身一人でその偉大なるものと対峙して行けばよいのです。
回答ありがとうございます。
この質問は教えてgooで、私がした初めての質問であり、
いろんな回答があって私自身当初より随分考えが変わりました。
ご意見参考にさせていただきます。
No.28
- 回答日時:
<<やはり仏教は私にとって個人的に何らかの形で克服しなければならない課題のようです。
(否定ということではないですよ。)>>素晴らしいことです。
克服(理解)した暁には阿羅漢になれますw
昔、スリランカがイギリスの植民地であった時代、優秀な学者陣でテーラワーダ仏教の欠点を指摘することによって、キリスト教を伝播しようとしたが、どう考えてもテーラワーダ仏教の欠点を指摘出来ず、逆に自分たちもテーラワーダ仏教の教える真理に目覚めるものさえ出てきて、逆にイギリス人の手によってヨーロッパにテーラワーダ仏教が広がったというれきしもあるようです。
<<maggaさんもよかったら聖書を開いてみてください。それも、神に注目するのではなく。神も神殿も国もなくしても、生き続けた人々。人間に注目してみてください。物事をまた違った風に見られるかもしれませんよ。>>
今目の前の課題がいくらか片付いたときに、物語(僕は歴史・情報を「物語」といいます。)として今に活かすべく読みたいと思います。
何にせよ、よき対話がなされました。
学び多き対話がなされました。
ありがとう。
何故だか、師の「一方的に教えることも教えられることもない。共に教え、教えられているのだから。」この様な言葉が頭に浮かびました。
共に、生きる生命としてお互い精進いたしましょう。
~では、全ての加護がありますように、生きとし生けるものが幸せでありますように。~
回答ありがとうございました。
私もいくつか紹介された著作の中から読んでみたいと思います。
補注として、聖書と言っても長いので、読んでみるのなら
旧約聖書の、コヘレトの言葉をどうぞ。
そこから1節
「愛も憎しみも人間は知らない」
もう少し、私が何かを知りえたら。
そのときはまた。
No.27
- 回答日時:
<<少し興味があるのですがmaggaさんは、今まで、仏教そのものを疑ってみたことはありますか?>>
「疑う」ですか。今の能力では解らないことは多々あります。そのことは脇においておきます。
ただ確かめることの「出来る範囲で確かめ」、構築していくだけです。
それしか出来ませんしw
可能性として、いずれ解らなかったことが解るかもしれないし、間違っているという発見するかもしれません。
絶対こうだ!と決め付けることなく、「こういった範囲内で何を論拠にどう考えてどうした結果こうなった。よってこう考える。」の柔軟な構築が僕の選んだ道です。
疑うより確かめる。ですかね。
まったく何も根拠なく信じているわけではないですが、いろいろ調べた結果、かなりの信頼は置いています。
仏教こそ真理だ!とも言いません。
し、すぐに真理と結びつけてはならないとも仏典で言っていますしね。
考え方、言葉の使い方、対話の仕方、などなどかなり厳密に語られているところがかなり論理的道徳的で好きですw
まだあまり出来ていませんが…(反省)
興味があったら
「テーラワーダ仏教の実践」「NHKダンマパダを読む(下)」は仏教の全体像。ちょっと専門用語あるかな。「仏法」はサンガから出るとか出ないとか…一番オススメだけど自費出版しかないです。
「いまここに生きる智慧」はキリスト教の方との対談。ここから入られては?
「現代人のための瞑想法」「ブッダの瞑想法」「心の中はどうなってるの」は仏教の瞑想実践を知るには善いかも。
論理学に興味があったら「ブッダと竜樹の論理学」。
経典に興味があったら身近なところで「岩波文庫系の中村元さんの本」「一日一話」「一日一悟り」「慈経」「怒りの無条件降伏」経典集として「ブッダの福音」がオススメです。
~生きとし生けるものの願い事が叶えられますように~
「信仰はどうやって決まるのか?」
ふとした気まぐれから
今回この質問をここでして
いろいろ書いたりもしたのですか
やはり仏教は私にとって個人的に
何らかの形で克服しなければならない課題のようです。
(否定ということではないですよ。)
maggaさんもよかったら聖書を開いてみてください。
それも、神に注目するのではなく。
神も神殿も国もなくしても、生き続けた人々。
人間に注目してみてください。
物事をまた違った風に見られるかもしれませんよ。
No.26
- 回答日時:
<<もともと仏教に興味を持ったのは、原始仏教とかの論理性であることは私も否定できません。
そうじゃなかったら今も仏教の話すらしてなかったと思います。>>ぜひ上座仏教学んでみてくださいw
<<仏教を技術や方法論として捉えていませんか。そんな感じに捉えていませんか?>>
はい、心を調御して生き方を清らかにするための実践方法。
だと思っていますよ。
一切の悪を犯さないこと、善に至ること、心を清らかにすること。これが諸仏の教えである。(ダンマパダ183)ですから。
怒らないためには。欲張らないためには。理性的でいるには。どうしたらいいのか。自分のため人のためになることをするにはどうしたらいいか。人間関係で失敗しないためにはどうしたら。
何事にも優れ、しっかりとして、まっすぐしなやかで、賢明で裏表がなく、人の言葉を良く聞き、柔和で傲慢で無い人になるために。どうしたらいいか。
その方法を、生き方を具体的に説いたのが仏教だと思っています。
<<少なくともキリスト教は技術ではないのです。天国への行き方の方法論でもないのです。生き方です。(今の時点での私が考えるに)>>
生き方こそ大事ですよね。善く生きるための実践方法が。
善く生きるためにはどうしたらいいのか、悪を犯さぬためにはどうしたらいいのか、心を清めるにはどうしたらいいか。そしてなぜそうなるのか。
<<だからどんな思想ともやっていけると。>>
人格の向上・精進を否定する考え。論理・道徳・理性を一切認めない考え。慈悲喜捨の否定。これらの思想とは同居できないでしょう。
言ってることも論理的に理解できて、道徳的だと納得して、試したらそのとうりだった、もしくは経験していて確かにそうだと判断する時に受け入れられないならば、かなり厚い我見に執着しているでしょうから。この道には来ない可能性が高いですね。
仏教は信じろ!的なものではありませんし。
「理性があるなら調べてみてはどうだろう。」が基本でしょう。
「脅し、甘やかし」もありませんのでいつも少数派です。
でも僕としては人の理性は曇って見えなくなることがあっても、なくなることはないと思っているので。実践可能な人は多いのではないかと憶測いたします。
科学技術を一部認めたように。
<<そんな風に考える私が思うに多分、お釈迦さんはスジャーターと出会ってなかったら悟れてなかったのではないでしょうか。>>
死んだら次の生で悟ることになったでしょうね。
今この教えを今生で聞けたのは彼女のおかげだといえるかもしれませんね。スジャーターさんには感謝です。
No.25
- 回答日時:
<<私もあまりそういうのには関心がなかったのですがカトリックは黙想とかあるようです。
禅と交流してるようですし。>>上座仏教にも交流があった神父さんがいたと聞いたことがあります。
ということはキリスト教の人でも問題なく実践できるのかな?
キリスト教の鈴木秀子という人もやってるみたいですしね。
スマナサーラ長老と本も出してますね。
「今ここに生きる智慧」
<<なぜ信じたいのか?うまく伝えられるかどうかわかりませんが
仏教的にこう言ってみることにします。それは「スジャーター」に会うためだと。>>
ごめんなさい。
解らないです、、
<<お釈迦さんが出家して6年間、瞑想しても苦行しても、つらいばっかりで駄目でしたよね。>>
ですね、無色界の四禅定までだったそうですね。
<<死にそうになって村娘スジャーターから粥をもらって一命を取り留めますよね。そして、苦行も止めてしまう。仲間がそれに失望していなくなり、苦行という自分がやってきたことも否定するしかなかった。>>
無色界の四禅定までが限界だったんでしょうね。
これでは悟ったことにはならないと。
苦行もやったがこれではだめだと。
<<でも、その後、やっと悟るわけですよね。>>
ありのままを観ることで。
ヴィパッサナー瞑想・正念ですね。
<<私たちは当然悟ってないのでしょうから、こちらのほうが役に立つような気もするのです。みんな悟ろうとするから法話のほうにいく>>
でしょうね。
<<ただの村娘でしかないスジャーターの存在の大きさってどれくらいのものでしょうかね。神はもちろん神で人間ではないですがこれを取り上げたほうがわかりやすいかなと。>>
スジャーターの功徳はすごい事でしょうが…
…解らないです、、
<<それにこれなら、信仰がつらかったりすることの一応の説明になるのではないでしょうか。>>
いろいろ修行・苦行しても駄目だった。●死に掛けにスジャーターに布施してもらった。違う方法で修行したら悟った。その方法を聞き納得し実践する人が増えサンガを作った。在家の人もその方法を聞き納得し実践した。
これと信仰の辛さの説明…解らないです、、
●の時点で「今までの瞑想じゃあせいぜい無色界の四禅定までだ、苦行もしたがただ苦しいだけで悟りの役にたたない無意味だ。少し休もう。」
肉体の維持に役立つ布施をスジャーターから受ける。
…信仰=苦しい=苦行=役に立たない=無意味だ?
多分…違いますよね。
<<余談ですがこれって、いわゆるアートマンとか仏性とかもちださずにもってことですかね?>>
他教のアートマン・ブラフマ(梵我一如)な考え方はお釈迦様自身否定されてるでしょう。仏性のほうは最近の考え方なので2500年前にはないですから。でも上座仏教ではちゃんと言ってるみたいですよ。
憶測するに大乗仏教を学ばれているようですね。
パーリ仏典まで学んでみてください。
僕も齧った程度ですが、かなりスッキリしていていいですよw
いつかパーリ仏典は読もうかな…とは思ってはいますが…。
英訳のダンマパダが本棚にしまいっぱなしです(汗)
もともと仏教に興味を持ったのは、原始仏教とかの論理性であることは
私も否定できません。
そうじゃなかったら今も仏教の話すらしてなかったと思います。
ただ、私の持っている問題意識を考えると
大乗に進まざるを得ないというところがありましたので、まぁ。
>違う方法で修行したら悟った。
>その方法を聞き納得し実践する人が増えサンガを作った。
ここにmaggaさんの考え方が現れていると思いますが
仏教を技術や方法論として捉えていませんか。
だからどんな思想ともやっていけると。
そんな感じに捉えていませんか?
少なくともキリスト教は技術ではないのです。
天国への行き方の方法論でもないのです。
生き方です。(今の時点での私が考えるに)
そんな風に考える私が思うに
多分、お釈迦さんはスジャーターと出会ってなかったら
悟れてなかったのではないでしょうか。
もちろんスジャーターはただの村娘です。
そして、長い苦行生活の末であることはもちろんで。
No.24
- 回答日時:
<<maggaさんが神への信仰を基本的に「甘え」や「縋りたい助けて欲しい」と捉えてるところが面白いというか、なんというか。
>>神の信仰に対しての考えといいますか…、あなたの発言の、信仰したい理由が「その苦しみは実在そのものだから」だったので、考えられる要因はこれかなと憶測したまでですw
<<確かにキリスト教を単純に愛の教えと考える人は、悩まないんですがね。そして、悩むなら苦しみをなくしたら。となってしまいます。それならもっといい方法があるよと。>>
もっと良い方法といいますか…
そちらには心に対する・人格向上に関する体系的な実践・改善方法はあるのでしょうか?あまり詳しくないので解りませんが。
キリスト教徒が認める範囲内で科学技術を駆使するのは問題ないでしょう。それと同じで仏教の実践を試みてもまったく問題ないと思うのです。
<<しかしそれは違うと思うのです。というのも別にキリスト者は苦しみをまるでなかったものにしたいというのではないと思います。なんというか自分から不幸になりにいくところがキリスト教にはあります。>>
そうだとしたらずいぶん辛い信仰ですね…
<<キリスト教のおそらく傍から見ていて一番の不可解な点はなんだって、あんな神を信じるのか?だと思います。もっとマシなのがあるだろうと。>>
また戻ってしまいますが、だったらなんで信じたいのでしょう?「もっとマシ」という言葉から観るに、最高のものの下の下以下のもののようにしているのになぜ?
このような疑問が浮かびます。
<<これに関しては言葉足らずでした。投稿して気づいたのですが人間と神は敵対関係にある。それだからこそ、愛を持って和解しなければ。ということです。>>
神「愛・慈悲喜捨」≠人間「欲怒りに満ち、無知」
これを和解させるということは神「愛・慈悲喜捨」に歩み寄る事とも考えられませんか。
考え方によれば人間がかってに「欲怒りに満ち、無知」によって敵対対象にしているのでしょうから、自己開発して人間の「欲怒りに満ち、無知」を破らねばならないという風に。
「和解=慈悲喜捨そのものになること。目指すこと。」になりませんか?
なるのであれば仏教の人格向上の道とも少しつながる気がするのですが。
いかがでしょう。
~生きとし生けるものの願い事が叶えられますように~
>そちらには心に対する・人格向上に関する体系的な実践・改善方法はあるの>でしょうか?
私もあまりそういうのには関心がなかったのですが
カトリックは黙想とかあるようです。禅と交流してるようですし。
なぜ信じたいのか?
うまく伝えられるかどうかわかりませんが
仏教的にこう言ってみることにします。
それは「スジャーター」に会うためだと。
お釈迦さんが出家した後、6年間、瞑想しても
苦行しても、つらいばっかりで駄目でしたよね。
死にそうになって村娘スジャーターから
粥をもらって一命を取り留めますよね。
そして、苦行も止めてしまう。
仲間がそれに失望していなくなり、苦行という自分がやってきたことも
否定するしかなかった。
でも、その後、やっと悟るわけですよね。
私たちは当然悟ってないのでしょうから、
こちらのほうが役に立つような気もするのです。
みんな悟ろうとするから法話のほうにいくけど
ただの村娘でしかないスジャーターの存在の大きさって
どれくらいのものでしょうかね。
神はもちろん神で人間ではないですが
これを取り上げたほうがわかりやすいかなと。
それにこれなら、信仰がつらかったりすることの
一応の説明になるのではないでしょうか。
>まず、出家でないと悟れないわけではありません。在家でも可能と説きま
>す。他の信仰を持っていても実践すれば可能と。あくまでも説くのは実践
>方法です。
余談ですがこれって、いわゆるアートマンとか仏性とか
もちださずにもってことですかね?
No.23
- 回答日時:
<<その苦しみは実在そのものだから。
でしょうかね。>>ここは同感です。
しかし「苦が実在するから信じたい」がわかりません。しかもなぜその対象が神なのかも…。縋りたい助けてほしいといったところでしょうか。
仏教はそこで苦を減らす実践方法を説きます。
甘えたところで堕落しさらに苦しむことになるよと。
甘えないできちんと現象を観て自分を観なさいと。
そして解決に向けて精進しなさいと。
<<私が自分のことをキリスト教徒でないと否定したら、逆にそれはおかしい、と思わざるを得ないというか?>>
いいえ結構理性的な考え方を持っていると憶測いたします。自分の持つ教えに徹底的に何が何でもしがみついて離れない我見の強い人、といった感じはしません。
<<この世界のどこにも真実の教会なんて存在しないでしょう。あるとすれば移り行く教会だけです。だからといって、この世界にあるものを否定できましょうか?>>
出来るとかんがえます。
論理的道徳的に成り立たないものはねw
「殺すことこそ生きとし生けるものに対しての救済だ!それは善い事だ。」と信じている人たちのこの考えを肯定できましょうか?
<<教会を政府にたとえるならだいぶ私はキリスト教的にはアナーキーな考え方をしています。基本的には教会なんて不要だと思います。現実には政府は必要です。でもどんな政府が理想かなんて知りません。もともと不要だと思っているのですから。>>
教会は不要だが必要です。理想的かはどうでも良い。だって不要だから。
よくわかりませんが、論理的道徳的に反する教えを説く団体があったなら、そこに何の意味があるでしょうか?必要でしょうか?
<<仏教徒に聞くなら。サンガは所詮、幻想ではないですか?なぜ、悟る個人個人が問題とされながら仏門に入ったかはいらないかが問われるのですか。上座部ならなおさら、出家したかどうかが問われるでしょう。しないで悟れたら、出家者の権威を否定することになるでしょう。>>
まず、出家でないと悟れないわけではありません。在家でも可能と説きます。他の信仰を持っていても実践すれば可能と。あくまでも説くのは実践方法です。
出家なら成長が早いのは容易に想像できるでしょう。何かを住み込みでみっちり修行するのと、毎日少しずつ修行するのではもちろん差は出やすいでしょう。もちろん個人個人センスの差異があるでしょうから人それぞれの成長度合いがあるでしょうが。
とにかく、出家を大事にするのは多くの生命にこの実践方法を伝え残すことで、生きとし生けるものの役に立つから。そしてここまで伝えていただけたのもサンガあってこそでしょう。だからサンガを大事にします。サンガのお坊様方も我々の心の成長を促してくれます。
<<逆になぜあなたがたはこのように心を強くするといって、様々な人に言って回れるのですか?>>
苦しみからの解放。誰もが望むことでしょう。その解決法を不完全ながらも実感し、少しでもお役に立てれば幸いという思い。
幸福な人が増えれば楽しいでしょう?笑顔が増えれば楽しいでしょう?
単純なことだと思います。
<<還俗についてどう思います?>>
「お帰りなさい。よく頑張りましたね」
といった感じでしょうか。ずっと出家でいても、死ぬまでに悟らなければそれもまた還俗でしょう。皆それぞれ頑張っている生命ですし。出家して心を清めようとすること自体尊いことでしょうからw
<<「神はあなた方を愛している」「神を愛せ。」「汝の敵を愛せ」よく聞きます。つまり神は人間にとって敵です。人間的に、信仰とは戦いです。神とは敵です。>>
こういった解釈は出来ないでしょうか。
「あなたが今「怒り」感じ嫌ってしまうような人でも、生きるうえで困難な道に導く人・現象・自分も一切を平等に心配し慈しみ、助け合いなすべきことをしなさい。」
敵というのは怒り・不快をもって排除したい対象に使う言葉でしょう。
<<しかしそれが、愛です。だからキリストは勝利です。>>
「敵はあなた方を排除しようとしている」「敵を排除せよ。」「汝の敵を排除せよ」つまり神は人間にとって排除すべきものです。神とは排除対象です。
こんな感じになってしまいそうです。
神を排除し払拭することが目的なのでしょうか。
それが勝利なのでしょうか。
単に「怒り」を排除・滅そうとするなら
仏門に同じ部分もあるのかもしれません。
勝利が、自己の「欲」「怒」に対する勝利ならば。
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
>しかし「苦が実在するから信じたい」がわかりません。しかもなぜその対>象が神なのかも…。縋りたい助けてほしいといったところでしょうか。
>仏教はそこで苦を減らす実践方法を説きます。
甘えたところで堕落しさらに苦しむことになるよと。
maggaさんが神への信仰を基本的に「甘え」や「縋りたい助けて欲しい」
と捉えてるところが面白いというか、なんというか。
確かにキリスト教を
単純に愛の教えと考える人は、悩まないんですがね。
そして、悩むなら苦しみをなくしたら。
となってしまいます。それならもっといい方法があるよと。
しかしそれは違うと思うのです。
というのも別にキリスト者は苦しみをまるでなかったものにしたいと
いうのではないと思います。
なんというか自分から不幸になりにいくところが
キリスト教にはあります。
私自身、教理家ではないので、これが正しいものとは
いえませんが。かといって、事実から目をそらして
そんなことはない、神は世界を愛している。足りないのは
あなたの信仰だ、なんてそんなふざけたこともいえません。
いう必要もないですし。
キリスト教のおそらく傍から見ていて一番の不可解な点は
なんだって、あんな神を信じるのか?
だと思います。もっとマシなのがあるだろうと。
>神を排除し払拭することが目的なのでしょうか。
>それが勝利なのでしょうか。
これに関しては言葉足らずでした。投稿して気づいたのですが
人間と神は敵対関係にある。それだからこそ、
愛を持って和解しなければ。ということです。
ってなぜか私は護教のほうに回りますね。
その気になればキリスト教否定もできるのに
なぜか、こっち側に立つんですよね…。本当に不可解です。
No.22
- 回答日時:
<<やりとりしていると、なぜ知識人に上座部系統の仏教がひろまっていくのかわかるような気もします。
>>倫理的なな整合性。道徳の厳密な解説。段階的かつ実証的な実践方法。
かなり魅力的ですw
<<仏教はいろいろありすぎると思います。全部違う宗教じゃないかと言うくらい。仏教徒同士で話が通じてるんですかね?>>
上座と相性がいいのは禅宗でしょうか。
大乗はほかの宗教といってもいいと思うものも…。仏教と名乗らずに開祖の教えとしたほうが妥当に感じますね。仏陀の教えではないと言ってるものも「仏教」と名乗っているのもあるみたいですしw
<<ア・プリオリに。と言っておくことにしておきます。人間結局、知りえたことしか扱えないんじゃないの?という懐疑に対する一つの抵抗というか。>>
その懐疑を払拭するためにも、どこもまで経験的に体験的に知りえるか、扱えるのか、実践する必要がありますね。
<<私の問題は簡単です。教会へ行けないということです。つまり何を言っても私はキリスト教徒でもなければ神も信じていないということになります。>>
ちょっとした疑問があります。
以前「協会は必要ない。一人一人でやればいい。」といっていた気がしますが、やはりあなたにとって協会は必要なのでしょうか。
そして理性的に冷静に考えて、あなたの行こうとしている協会、そこにいる人たちはあなたの中にあるような懐疑を完璧に払拭しきれていると考えているのでしょうか。
その人たちは論理的実証的な解決策を持っているかもしれませし、「最大限生かすべき理性」を捨てよといわれるかもしれません。
論理的実証的な解決策を持っていないのであれば、何のためになりましょう。
そこにあなたの言う神がいるわけでもないでしょう。
あなたにとって「神」なるものを信じることを
どういう論理をもって必要とするのか、私には解りかねますが。
「俺のこと信じないやつは駄目だ!理性道徳知ったことか!駄目だ!駄目だ!」
といった了見の狭い、他の生命を否定し貶めるような…そんな「神」でなく、「愛・慈悲喜捨そのものである神」であれば。
信じたいという気持ちはひとまず置いておいても。
あなたが理性的道徳的な人間になることは、あなたの言う「神」なるものからしても決して恥ずべきことではないのでは?
<<仏教の文脈で言ったらサンガへの不信ですかね。>>
上座部は疑問があったら速やかに質問するのが基本ですから…。
納得のいく回答が得られないかもしれませんが。お坊さんにもいろんな人がいるでしょうから得意なこともあれば不得意なこともあるでしょう。そのときは得意とする他のお坊さんに質問するだけです。
仏弟子として恥ずべき坊さんがいるなら、説教してあげればいいでしょう。それぞれが一人一人自分なりに頑張っている生命ですから。自分が成長するように、その生命が成長するように働きかけてあげればいいのだと思います。
<<心>>
信じたい心があり、信じるには納得のいく論拠が必要。その論拠がないから苦しい。
このような感じでしょうか?
ここでひとつ。
なぜ信じたいのでしょうか。
「自己責任の放棄。他の責任にしたい。」
このような気持ちがあるならばすぐに「信じたい」を捨てたほうがいいと思います。
あなたの思う神が「愛・慈悲喜捨そのものである神」であれば。
その気持ちを望まないでしょう。
成長の妨げになり、自他共に苦を生み出す原因になります。
その神にとっても望むことではないでしょう。
あなたの思う神が「愛・慈悲喜捨そのものである神」で、その心に対する憧れの感情によって信じたいのであれば。
「信じたい」を横においておき、その心に近づく努力をしたほうが良いと思います。
その神もそれを喜ぶでしょう。
「全ては神の愛・慈悲喜捨を受けた作品」と言うならば、多くの生命が成長し幸福を手にすることを喜ばずにいるでしょうか。助け合うことを喜ばずにいれるでしょうか。
このように思うのですがいかがでしょう。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
>なぜ信じたいのでしょうか。
なぜでしょうね。
信仰など苦痛そのものですが。
でも、その苦しみは実在そのものだから。でしょうかね。
仏教徒も苦は在るといってるようですし。
ところで、あなたは、私がキリスト教徒もしくは神を信じている
人間だと思いますか?
少なくてもこれまでのやり取りの中で。
私が自分のことをキリスト教徒でないと否定したら、
逆にそれはおかしい、と思わざるを得ないというか?
>以前「協会は必要ない。一人一人でやればいい。」といっていた気がしま>すが、やはりあなたにとって協会は必要なのでしょうか。
私の問題の始まりはカルトです。
私の知りえたキリスト教はカルトです。
もし私の知りえたキリスト教が全てであるなら。
懐疑は深いです。
この世界のどこにも真実の教会なんて存在しないでしょう。
あるとすれば移り行く教会だけです。
だからといって、この世界にある
ものを否定できましょうか?
教会を政府にたとえるなら
だいぶ私はキリスト教的にはアナーキーな考え方をしています。
基本的には教会なんて不要だと思います。
でも、アナーキーは問題が多いでしょう。
現実には政府は必要です。でもどんな政府が理想かなんて知りません。
もともと不要だと思っているのですから。
それに私は洗礼などの権威まで否定できません。
客観性の欠如です。そして私は客観的にキリスト教徒ではありません。
仏教徒に聞くなら。
サンガは所詮、幻想ではないですか?
なぜ、悟る個人個人が問題とされながら
仏門に入ったかはいらないかが問われるのですか。
上座部ならなおさら、出家したかどうかが問われるでしょう。
しないで悟れたら、出家者の権威を否定することになるでしょう。
逆になぜあなたがたはこのように
心を強くするといって、様々な人に言って回れるのですか?
還俗についてどう思います?
>あなたの思う神が「愛・慈悲喜捨そのものである神」であれば。
愛の神。なるほど。
「神はあなた方を愛している」
よく聞きます。
「神を愛せ。」
よく聞きます。
「汝の敵を愛せ」
つまり神は人間にとって敵です。
人間的に、信仰とは戦いです。神とは敵です。
しかしそれが、愛です。
だからキリストは勝利です。
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