一回も披露したことのない豆知識

どう聞いて、いいものか悩みますが、
プロテスタンティズムはそれまであった教会の権威を否定して
人間一人一人が直接、神と向き合ったといいます。

この関係は何をもって、終わるのか…。
信仰を他人任せにはできませんよね。
でも、自分が信じているかどうかは自分の主観によって決まりますよね。

自分が神を信じている。と思い込めばそれで終わるのですか?
誰かに認めてもらう必要があったとしたら、教会やその類の権威が
復活してしまうような気がするのですが…。

A 回答 (31件中21~30件)

信仰の理論を考えてみました。

どうぞご検討ください。
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   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)

  
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは 外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

たとえば 経験領域における未知のことがらは はっきりと非経験 X ではない。未知は 不可知ではなく 非経験 X ではない。けれども 不可知も 不可知だと分かってしまえば はっきりと 経験 Y であって 非経験 X ではない。可知か不可知かが決められ得ないことが 非経験 X である。(あるいは《不可知》という分類は そもそも 無いと言えるかも知れない)。

人間の精神は 人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在= Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。

したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤーウェー》 X-Zd とも 《アッラー》 X-Ze 等々とも 言い得る。

逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。

  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても 変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提について あらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 

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この回答へのお礼

論文と言ってもいい、信仰の論理について
書いてくださってありがとうございます。

時間がかかりましたが、お礼を述べるにあたって
ふと思ったことを書いてみようかと思います。

私たちは果たして信仰を経験することができるなぁと思いました。
もしかしたら私たちの意識や認識とは別に信仰なるものが
あるのかな…などと。とはいえ、ただの戯言です。

書いていただいた論理と、向き合って考えてみたいと思います。

お礼日時:2007/12/27 17:50

No.9です。



>私と教義や教理問答しても仕方ないかと…

確かに、、、、

イエスの教えがどうしようもない人々をのさばらせる可能性がでてきた としたら、何を持って確実に罪だとするのか。
人間はそれぞれの都合で罪を決定しているだけで、本当にそれが罪に相当するのか知ることはできないですよね。

にもかかわらず、どうしてあなたは<罪人が復活する可能性がでてきた>と思えるのか。
結局、私と同じく、これが罪だと決定することはできない。
集団のルールで、「これが罪」だとされるものに従っているだけ。

ピラトは真理だ 真理だと言うイエスに「真理とはなんぞや」って聞きましたよね。
何故作者はイエスがぐーの音も出ないシーンを入れたのか。
無知が罪だとしたら、イエスも罪人なわけです。

って、また聖書に内容について私とあなたで話しても仕方ないということなので、、、


恐らくあなたはキリスト教徒だと思います。
しかし、教会に属することをやめてしまったのかな?って想像します。
でも、多数の人が支持する人をメジャーとするならマイノリティーになるので、確信がもてずにいるんじゃないかと。

多数者が支持する=正しい とは限らない ということをあなたは知っていますよね。
自分の通っていた(信者じゃなかったらすいません)教会と違う自分の考えも疑わしい。
自分の今の在り方に確信がもてない。


先ほどまで映画マトリックス観ていたんですね。(gyaoで今放映されてますよぉ)
「おいおい 今度はマトリックスかよ」って思わないでね。笑

トリニティーがネオ(つまり the one)に向かって言ったんですね。
I believe と。
字幕が出ていたけど、私はこのシーンを見てI know の意味だと感じました。

I know. この確信というか他に疑うようもない状態が信仰じゃないかと思うんですね。
I believe じゃなく I know.
ダイレクトです。
中間が無いから。

梵我一如、自分を知ることは全てを知ることですよね。
自分を知ったら、全てを知ったことになりませんか?
これは i believeじゃなく i know なわけです。

今に至ることになったキリスト教はグノーシス派を退けましたよね。
グノーシス派といっても多数あって一つじゃないんですが、教師モノイモスはこう言っています。

『神とか、創造とか、これに類似したものを捜し求めるのはやめなさい。
あなたがた自身を出発点にして、彼(究極的存在)を求めなさい。
あなたがたのなかにあって、すべてのことを思う通りになし「わが神よ、わが心よ、わが思いよ、わが魂よ、わが肉体よ」と言う者は誰であるかを知りなさい。
悲しみ、喜び、愛、憎しみの原因を知りなさい。
・・・・あなたがたがこのようなことを注意深く吟味するならば、あなたがた自身のなかに、彼を見出すだろう。』

さて、彼とは誰でしょう。


同じく今に至ることになったキリスト教が古代において異端として退けた書物にこう書いてある。

『イエスは言った。「あなたがたがあなたがたの中にあるものを引き出すならば、それがあなたがたを救うであろう。あなたがたの中にあるものを引き出さなければ、それは、あなたがたを破滅させるであろう」』

あなたがたの中にあるものとはなんでしょう。

i believe は当てはまらない。
i knowが適切な言葉だと思います。


ということは

>自分が神を信じている。と思い込めばそれで終わるのですか?

思い込むことはi knowじゃなく I believeですよね。


>誰かに認めてもらう必要があったとしたら、教会やその類の権威が
復活してしまうような気がするのですが…。

でも、教会はその他類の権威は、その宗派の教義を人に信じさせることは可能だと思いますが、自分を知ることをさせることはで不可能ですよね。
それで、いくら教会に行って祈っても乾くわけです。
だからヨーロッパではキリスト教離れが加速しており、バチカンの長女と言われるフランスにおいても、数パーセントの人しかもう日曜に教会に行かなくなったそうです。
乾きは教会で癒すことができなかったからですよね。

で、キリスト教の権威を復活させるには、信者がひからびないようなサービスをしなければならないわけです。
努力不足。

ただ教会に通わなくても(恐らく)あなたのように、持って生まれた能力のみを使って自分が乾かないように自助努力をしている人もいると思います。

だから、キリスト教が突然明日この世から消えたところで、あなたの泉がこんこんと湧き出ていたら、あなたは乾くことはない。

それを信じるんじゃなく、知ることだと思うんですね。
で、恐らくあなたは既にそれを知っているんじゃないかと思います。
ただ、まだ確信に至っていないだけじゃないかと。

believeとknowの中間にいるんじゃないかと。
knowに至るためにどうすればいいのか、私にはわかりません。
何故ならあなたしかその泉を湧かせることができないから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
本当にそう思います。
あなたは私の真意に近づきました。

私は徹底的に姿を隠すつもりでしたが…。

結局のところ、私はキリスト教を信じることができず、
洗礼も受けず、異教に身を潜めた人間です。

ネットという匿名の世界においては
私は一人のキリスト教徒?として登場しましたが

私の考え方自体はかなりグノーシス主義です。
当然です。自己が自己を救済するわけですから。

あなたが挙げてくれた幾つかは私も考えたことがありました。
だから、わざと、反論もしやすかった。

私は客観的には異教徒です。
誰も私のことを客観的にはキリスト教徒とは思わないように
私自身、仕上げました。

客観と主観の狭間で結構苦しみましたが。

私の希望はただ、聖書の中に幾つか登場する
異教徒が救われる可能性。間接的な希望だけです。

もしくは…そう。

知る。

とはいえ、ご推察の通り
私は信じると知るの中間。黙示録で言えば
甘くも苦くも無い、熱くも冷たくもない生温い、
吐き出される状況にいます。

問いかけの中に既に答えがあるとは、まさに私のことです。

なにせ今更、単純にどこぞの教会にいって
はい、信じますなんていうような者ではなくなってしまいました。

お礼日時:2007/12/25 21:31

No.8です。



>キリスト教は人間が罪人だという。

宣教の目的は福音を世の隅々まで知らしめることですよね。
その福音とはなにか。
「原罪が人間から消えた」というハッピーニュースです。
このハッピーニュースは日本語では<福音>と訳していますよね。

では、キリスト教の目的は、ハッピーニュースを世の中に伝え、ラッキーなことを喜び合おう というのが宣教の目的のはずですよね。

でも実際は「人間はみな罪人 罪人 犯罪者 穢れた存在 自力で救済できない者」などなど、述べ伝えている活動が、宣教になってしまっている。
これが世界の隅々にもたらすハッピーニュース??
どうみても罪人状をばら撒いているようにしか見えません。


>キリスト教は人間が罪人だというのですから。

トーラを捨てたからでしょう。
贖罪について旧約聖書に書いてありますよね。
民衆が過ちを犯しいても、贖罪することで穢れを清められる つまり 罪が消える と書いてある。
そして民族全体の贖罪は、大祭司が贖罪をしていた。
リセット機能なわけで、いつまでも 罪を犯したから永遠に罪人だとはトーラではならない。
犯罪者にも逃れの町を神は供えてくださったと書いてある。
生き延びる場所を備え、自殺するしかない、殺すしかない とならなくて済む様、逃げ場を提供し生きつづける道を残しているってことですよね。


「文字は人を殺す」とパウロは言い その意味は「律法は人を殺す」だとしているが、パウロの間違い。
罪に問われた人も、トーラにより罪なしとされることもあった。
そして、石打の刑が行われても第一投が当たらなければ、あるいはそれで死ななければ、その人は死ぬに値するほどの罪を犯していないと神が決定した となっていた。

それがだんだん おかしいことになって、死ぬまで全員で石を投げて殺すってなると、神の意志に逆らっていることになる。


>ところがあなたが、とにかくキリスト教なるものをどうにかしないと
気がすまない、
>否定するにしろ、肯定するにしろ。
>そうであるならば、少なくとも、キリスト教はあなたにとって
何ものかです。

クムランでは神の存在の立証を、アリーが同じ論法で説明しました。
ヨハネの名を持つ牧師の娘ジェーンが「神は人間が作り出したものなのよ」と説得すると、アリーは「神はいる。君のその反抗心を通して現れている。」と。

うーーん 反抗する何者かがあるから反抗している=神はいる じゃあないと思います。
アリー 甘い。 
彼女が反抗しているのは、宗教団体に対して。
人間は全員罪人だと堕落させようと必死になっている宗教団体の手口に彼女は反抗しているのであって、神に対して反抗しているのではない。
従って、彼女が反抗している対象は、実在している宗教団体であって、神じゃあない。
彼女の反抗心が神の存在を立証したわけじゃあない。


>「汝の敵を愛せ」というのがあります。

クムランの教義の一つだったと思います。
ちなみにクムランはキリスト教より古いです。
では、クムランでは敵を誰としたのか。

ここが問題です。
義の教師が悪の祭司に殺された事件がありましたが、クムランではこの悪の祭司を愛せよと教えていたのか。

新約聖書を読むと、当時の人はサマリア人を見下していたように思えます。
サマリアはかつてイスラエル王国の首都じゃなかったでしたっけ?
神の都市の名前。
彼らもイスラエルの子ら。
そう ヤコブの子孫。
<敵として毛嫌いしているサマリア人を愛せよ 兄弟じゃないか>という意味で使っていたのかもしれない。
つまり汝の敵とはローマ人などではなく、12支族のこと。
と解釈すると、私はクムランの教義である「汝の敵を愛せよ」の意味がわかってきます。


>たった一人です。たった一人で神に立ち向かい、戦い、勝利を。
>ヤコブは神と戦ってイスラエルと呼ばれました。

ここが難しいところです。
情況からして、神と取っ組み合いをして決着がつかず夜明けになったので、神が「もう帰るからやめー」と言ったら、ヤコブは「ただじゃあ 返さない 自分を祝福してくれないと離さない」って言ったので、神はヤコブと契約をし、ヤコブの子孫が増えるように約束したことになってますよね。
で、ヤコブの子孫は増え、イスラエルの12支族を構え、そこにもう一つの支族を加え、そのもう一つの支族が宗教的にイスラエルの子らを導いていってた。

イスラエルの子らは土地を与えられ、それぞれの地域で暮らしていて、そこのプラス1のレビ人が宗教的指導者として、彼らを宗教的に導いていた。

ところで、イスラエルという意味は「神に勝利した人」という人もいますが、話の内容を読むと、ヤコブは神に勝ったわけじゃないですよね。
夜明けになるから神は帰るっていって、ヤコブが食い下がったので、神は帰りたかったから、ヤコブの願いを聞き入れたってなっていますよね。
ヤコブの願いを聞き入れた=神が負けた???

ヤコブの階段ってありますよね。
生命の木って見たことあります?
いや 直接じゃないですが、画像でです。

みたことないなら、、、画像をネットで探しましたが、無いので動画になりますが、、、

http://www.b-ch.com/cgi-bin/contents/ttl/det.cgi …

ここの視聴をクリックすると動画が始まり、最初の方で生命の木が登場します。

この木がヤコブのハシゴ。

動画の途中で二人の女性が、一方は上の、一方は下に移動していきます。
ヤコブのハシゴ。

この生命の木はどっちに伸びているでしょう?
結構勘違いする人が多いのですが、下に生えているんです。

下に移動する人はミサトなのですが、彼女は何度もつまづき、それでもハシゴを上り続けることをやめなかった。

この物語では全人類が一つになります。
でも、その前にミサトは死ぬんです。
彼女は一つになる必要はなかった。
満足な終わりを遂げたから。

彼女に始まり彼女で終わるミサトの人生。
彼女は昇華したので、のぼりきったので、再生しなくていいわけです。


生命の木は階段のようになっており、仏教的だとヨガなどに同じ内容を観ることができます。
ただ、修行をしていれば徐々に昇華するというものではなく、聖書を読んでいさえいれば、信仰していると何かやり続けていただけでは、昇華しないとされている。

蛇の力なくして壁を突破して上昇し到達することは不可能とされています。

さて、蛇の力とはなんでしょう。
旧約聖書に蛇が登場して、アダムとイヴに何をするよう諭したか。

さっきの動画にも最初に登場します。
炎の蛇とされるケルビムが。
ケルビムは智天使。(ケルブの複数形がケルビム)


「迷える仔羊をなにによって導けばいいでしょうか」

「盲目的信仰によって」

と何かの本で読んだことがあります。

盲目は無知。 
無知では壁を突破できない。
ケルビムは見向きもしないわけです。

さて、「聖なるかな 聖なるかな」と神を讃えて回転するとされる炎の蛇へルビムは、神のいいつけられ、人間が生命の木に到達しないようにしていると伝承ではある。

そのためには、人間を無知にしておくのが手っ取り早く、間違えた考えを盲信してもらうのが手っ取り早い。
知恵を持つものは、罠に気づくが、頭を使うことをしない盲信者は。


イエスの古文書って読んだことあるんですね。
イエスの兄弟ヤコブの書いた書物が発見され、長年牧師をしてきた男が息子に「信じて長年やってきてとうとうそれが正しかったことが立証された」と言ったんですね。
息子は彼の言葉に「そうですね」と答えた。
でも、息子は真実を知っている。
その発見されたものは、巧妙に作られた偽物だと。

世の中はその偽書を本物だと認定し、バラバラだったキリスト教の派閥が協力しあうようになり、人々は幸福感に満ちた。
じゃあ それでいいじゃないか。

主人公は、考えて考えて、立ち上がった。
巨人に向かうダビデのように。

彼の恋人は、その書物が本物だと信じ、「どうしてわかってくれないのか」と訴えていたが、たとえ彼が偽物だとする立場を変えないとしても、そんなこと関係なく、彼を愛していると言った。
そのことを主人公はやっと理解し、彼は発見されたヤコブの福音書は偽物だと公表することにしたんですね。

これが人類への愛。
偽書を読み、幸福にひたっている人々への愛。


こういう立場から、私はキリスト教関連に投稿しているんじゃないかと思うのです。
たとえ「悪魔~」と信者に罵られようと。 笑

ええ、もう 集団の方が圧倒的に強く、多勢に無勢で、巨人に一人で挑んでいるようなものです。

私をこれほど駆り立てているのは、神が存在するからじゃあない。
ベタですが、愛? 笑
 
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この回答へのお礼

私と教義や教理問答しても仕方ないかと…

って、…クムラン。キリスト教起源の話するのかとか思いましたが

カバラがでてくるあたり

カバリストか、現代のグノーシス主義者か。
まぁ、広い意味では、どちみち神秘主義者か…。

だから梵我一如とか、神は敵だとか、出てきたんですね。
カバラだと人間は神を知りえるものですからね。
グノーシス主義は創造の神を偽者と呼んでますし。

>「原罪が人間から消えた」というハッピーニュースです。
たしかに「復活は既に起きた」、もしくは「罪がなくなった」
と考える「キリスト教徒」もいました。

しかし、復活を信じるのであれば
死ぬ必要があります。それは何によってか。罪です。

だから
>どうみても罪人状をばら撒いているようにしか見えません
まぁ、言って差し支えなければそのとおりです。

キリストの死によって、どうしようもない罪人が復活する可能性が起きた。
これが福音です。

で、生命の樹に関してですが。
キリストの福音を考慮にいれるということは、
クリスチャン・カバラのほうだと思いますが、

私は特に言うべき意見を持ち合わせていないので
意見を差し控えさせていただきたいと思います。

お礼日時:2007/12/25 14:07

No.3です。




>個人的に人間が一人一人、直接、神と結びついているのなら
>宗教団体なんてものが存在しなくなると思うんです。

人間一人一人、直接神と結びついていないから、宗教団体は補完するため存在するってことですか?


<補完>という言葉は適切じゃないかもしれない。
<代替> <アイドル(偶像)>として かな?


私神話好きなんで、古代の神話とかに触れる機会があるんですね。
天地創造の部分はどこから持ってきたのか、やっと見つけました。
やはり、シュメール文明が残した話の中に入っていた。

それを読むと、ギリシャ人が舞台で演劇をやることで、人々を興奮の渦にまいたように、語り手が聞き手の心を感動させていたと思えるんですね。

で、「誰が自分の過ちを知るでしょうか。私を隠れた咎より解き放ってください」と語り手は民衆に言っていたのではなく、

「たれが己のあやまちを知るや! われを隠れたる咎より解き放ち給え!」と恐らくこんな叫びのように語っていたのだろう と訳者は言っている。

文字を読むために残したのではなく、語るために物語りは作られた。
演劇・娯楽として作られたんじゃないかと私も思います。

ギリシャ人が自分達以外の人々をバルバロイ(野蛮人)と呼び、自分達が優れた民族であると自負したように、ユダヤ人も自分達は選ばれた民族だと自負した。

で、民衆の心を強くひきつけ、感動させるための技法は演劇。
主人公を超越的な何かにして民衆に語りかけ、人々の心を統一していた。


説教もそうですよね。
ただ読み上げているわけではなく、神父・牧師は熱演していますよね。
俳優の素質が必須。
うまく演じて信者の心をひきつけられないと、信者はあくびする。

つまり信仰=演劇鑑賞。

という可能性 無いでしょうか?
つまり、民衆の娯楽。

この技法は娯楽を楽しむときだけではなく、例えばヒトラーの演説のように、支配者が人々を自分の思う通りに誘導するときのも使える。
危険なもの。


私は3年ほど前くらい、初めて聖書に触れたんですね。
読んでもよくわからない。
だって「たれか おのれのあやまちを知るか」って言葉、通常私達は使わないですよね。
聖書はこのような文体ずくし。
「言ってる意味わかんなーい」なので、スタンダードの英訳を買って、やっと聖書の内容がわかった。

すると、内容はなんとなくわかったが、「たれか おのれのあやまちを知るか」って訴えられ心を揺さぶられるということが欠如することになるわけです。

内容を知ったため、催眠術師の発する音に共鳴し、たやすく催眠にかかり、操られて笛の音に踊ってついていく ということは無い。

わたしは説教を聴いても、他の信者のように踊らない。
すると「かわいそうだ」と信者は言う。
私からすると説教を聞いて、床に失神している人の方が「だ だ 大丈夫ですか」といいたくなる。
神父の説教に酔ってエクスタシーを感じ失神しちゃったわけですね。 床の信者さんたち。

となると、集会に行き、説教を聴くという行為は、一種のこれは乱交パーティーに参加し悶絶するという目的があるためと思える。

私がひきづって連れていかれたのは、外国の教会だったんですが、説教を聴き終わって失神はしなかった人でも、顔が高揚していて、ロックコンサートの帰りのような顔をしていた。

私は、残念ながら英語はネイティブじゃないし、「たれか己の~」という技法の英語をダイレクトに理解するほど英語はうまくないので、催眠にかからない。

集団催眠商法で、私だけ何も買わないで、現場を去るようなものですが、果たして買わなかった私は不幸なのか?
信者にしてみれば買わなかった私は不幸だから、早く布団を買え なわけです。


ヒトラーは過去にこの集団催眠ぽい技法を使いましたが、現代ではブッシュが使った。
ブッシュは演説をしてキリスト教徒に自分を再選させた。
ええ、イラク戦争をキリスト教は支持したわけです。 
冤罪だとわかっていたこの殺人戦争をキリスト教徒は一丸となって支持した。
催眠にまんまとひっかかり 笛に踊った。
その彼らに神を恩恵に授かっていないあなたは不幸だと言われてもねぇ・・・・・。
神はブッシュだったのか! 笑 

バチカンはブッシュに苦言を呈しましたが、バチカンもなかなかやります。
信者の寄付した金を、麻薬とポルノの会社の株に投資していたんだから。
つまり、神の恩恵とは、麻薬によりラリってセックスにより恍惚となる これが至上の幸福ってわけですか? って思いません?
麻薬とポルノの蔓延を願うバチカン・・・・・・。

「たれが己のあやまちを知るや! われを隠れたる咎より解き放ち給え!」
と信者に言われても、あなたが望んだから過ちが来たんじゃないの?って思うんですね。


人間は一人一人は小さい力しかありませんが、集団になるとマンモスすら倒せる。

バビロンの神話にありますよね。
バベルの塔。
人々は同じ言語を話し、意志を統一していたので、神をも倒しかねるほどまでになった。
それで、神は人間の言語をバラバラにした と。

しかし人間はこりもせず、一つになろうとして集団を作り上げ、全世界を一つにして神を倒そうとしている。

神 VS 人間の戦争なわけです。

神は人間をバラバラにして、恐ろしいことをしないようにとし、人間は神に近づこうと一つにまとまろうとし。。

ヴェーダだったか忘れましたが梵我一如ってあるんですね。
我=全て って考え。
これだと教会の必要性はなく、建物の必要性も無く、集まる必要もなく、信仰のみで十分だと思えます。


日本に狛犬あるじゃないですか。
一匹は口をあけていて、一匹は口を閉じている。
ア ウン。 始まり 終わり。
梵我一如的な思想だなぁ って思います。
私は始まりであり、私は終わりである。
意味深ですが、なんとなーくわかる気がします。
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この回答へのお礼

><代替> <アイドル(偶像)>として かな?

早い話が無駄だってことです。
あなたが長々書いているように、教会、聖職者、信者。
みんなあなたにとって、なんの価値も無かったでしょう。

当然のことです。
原罪。罪人。キリスト教は人間が罪人だという。
神が人間をとっくに罪人と呼んでいるのですから。

どうして、人間や教会がそれをどうにかできます。
できないわけです。

私もあなたをどうにもできません。

だから、説教が演劇であろうと、別に同意します。

ですが私は、信仰のことはそう呼びませんが…。

さて。
神と人間が結びついている。
とのことに、あなたは梵我一如を持ち出しましたが
これは、適切ではないです。

なぜって。
キリスト教は人間が罪人だというのですから。

一方で、
梵我一如は梵と我が同じものであるから、一つになれるのです。

神と人間の間には断絶があります。これがキリスト教です。

さて、様々な神話をもちだされましたが。
キリスト教も歴史的に見れば、ユダヤ、エジプト、バビロン、ローマ
その他…。様々のものによって生まれたものです。

あなたが、それを別になんとも思わなければ
なんでもないわけです。

ところがあなたが、とにかくキリスト教なるものをどうにかしないと
気がすまない、否定するにしろ、肯定するにしろ。
そうであるならば、少なくとも、キリスト教はあなたにとって
何ものかです。

最後に。

神が人間の敵であることに関して。

私はそれをどこで見たのか忘れたので出典を探しているのですが

「汝の敵を愛せ」というのがあります。
そして、神は愛である。
だからこそ、神は間違いなく、人間の敵だということです。

ですが、人間は神をどうにかできるものと集団になりました。
しかし神はそれを赦さなかった。

たった一人です。たった一人で神に立ち向かい、戦い、勝利を。

ヤコブは神と戦ってイスラエルと呼ばれました。

お礼日時:2007/12/25 10:30

私も教会と言う特定の中に所属してませんが、ただ一人になると自分の意見だけが正しく相手を排除したりする場合もあり基準が神から私になり、あまりお勧めしないです。


ただすべてに時がありますから「これが正しい」という考えはなさらないように、そこで立ち止まり祈り、聞けばいいです。後は神を信頼する事でしょうか?
あのダビデも一人の時がありましたからね。

    

自分が正しくほかの人は間違っていると言う考えはなされずにね。
神様はすべてを愛し、すべての方を救うお方で相手の信仰を否定するのは救い主イエスを否定しますから

>私は一人でクリスチャンになれると思います。
教会も必要ない、と。

これを信仰によって聞いているのあれば問題はないですが・・・
すべての道で主を認めよ、だから否定もしないし肯定もしない
           とりあえずメリークリスマス!


後は貴方の信仰です
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「何事も時あり」
コヘレトの言葉ですね。
私にとっては、今このように考えている時なのでしょう。

行き着くところ、人間にはどうしようもない原罪を背負った
罪びとに自らなりに行くのですから。

他人をどうすることも、自分をどうすることもできません。
直接、個人が一人で向き合ってくれ。というところです。

教会がどうとか儀式がどうとか。
この世のことは、この世のことです。

とはいえ、せっかくのクリスマスですもんね。

あなたに主の祝福がありますように。
メリークリスマス!

お礼日時:2007/12/24 11:14

>個人的に人間が一人一人、直接、神と結びついているのなら


はいその通りですよ。
結びつきの中で教会に行くんだと思います。
>自分が信じているかどうかは自分の主観によって決まりますよね。
主観と言うより召されかたですね。多く救われたなら神を多く愛すると言う感じ、後は神の御心です。

>自分が神を信じている。と思い込めばそれで終わるのですか?

悩みはここにあるのかな~yukiyama20様にとって神様とはどんな存在かな~
クリスチャンすべて違いますからね~何が正しいのか?誰が正しいのか
?そんな感じかな~なんて

時間がかかりますが、よろしく
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
神とはなにか?と聞かれたら
「神は生きている」
「わたしはある」

と聖書を引用してお答えしておきます。

もし正しいとすれば神だけです。
誰も正しくありません。もちろん私も。

「神によって義とされる」という
ことからすれば、個人の主観よりは神の側の。
>召された
が該当するするでしょう。

クリスチャン全て違うと言われるのでしたら、もうそれで全て終わってしまいます。そういうクリスチャンもいると。

私は一人でクリスチャンになれると思います。
教会も必要ない、と。

お礼日時:2007/12/24 09:20

★《信仰はどうやって決まるのか?》


――《なんでもない生活のふつうのことがら》によってです。

1.
わたしは ルツ( Ruth )ともうします。

日本人論として知られた『菊と刀』を書いたルース・ベネディクト女史ですとか あの野球人ベーブ・ルース(ジョージ・H・ルース)など かなりわたしの名を 後世において 使ってもらっていますが 日本のみなさんには あまり馴染みがないかも知れません。でも フォークソングの本田ルツ子さんがいましたね。

わたしは 旧約聖書に 『ルツ記』としてちいさな短い一書をあてて 生涯のことを記してもらっています。その中で やもめのわたしは 落穂拾いをして暮らしていたのですが そのすがたを じつは あのミレーが 描いてくれました。その絵のことは よくご存知ではないかと思います。

聖書といっても わたしは じつは 必ずしもユダヤ人ではないのです。遠く血がつながっていますが 死海の東の地に住んでいたモアブ人です。ユダヤ人と結婚して そしてその夫は 早くに亡くなったのですが かれの母に わたしは 一生ついていって ユダヤの歴史に名を残すこととなりました。

祖先のアブラハムから十代目にあたる者はボアズといいますが その

   ボアズは ルツ――この《ルツ》がわたしです――によって オベド
  を オベドはエッサイを エッサイはダヴィデ王を もうけた。
  (『マタイによる福音書』1:5-6)

と聖書に記してもらっています。そしてダヴィデ王のさらに子孫に イエスを生んだマリアの夫ヨセフがいるのです。わたしは そんな遠い昔に生きた一人の女です。いま生きていれば もう三千歳近くになっています。

2.
《なんでもないふつうのこと》 これは やはり信仰ということかと思います。わたしは ただ生きたというだけで歴史上の人物になっています。ただ生きたというだけです。ですから このことはやはり信仰ということばで翻訳されるのだと思うのです。その点について もう少し自己紹介のようなことをお話ししたいと思います。

というよりも 先ほどの『マタイ福音書』の冒頭の記事の中で イエスの系譜が書かれていましたが そこには わたしのほかに もう二人だけ 女性が記されています。そのかのじょらのことについて 短くご紹介したいと思いました。

一人は ラハブといって わたしの後の夫となったボアズのお母さんです。じつは 何を隠そう ラハブも 異邦人で しかも エリコの街の城壁の上に家を構えていた遊女だったのです。

イスラエルの人たちがエリコの街を攻略したときのこと。かのじょは 先に忍び込んできた斥候(スパイ)を二人かくまいました。そのことが縁で サルマンというユダヤ人とのちに結ばれたのでした。これも 信仰ということです。つまり 生活のなかで・人生のなかで なんでもないふつうのことの問題なのです。

つまり 必ずしも説明のつかない出来事のことです。あるいは ひととおり合理的に説明がつくけれども さらにこの説明の範囲や理解を超えて 話しはどうも広がっていると思えるようなことがらの問題だと思います。

ちなみにラハブは エリコの人びとから見れば 裏切り者です。売国奴です。イエス・キリストは その子孫ということになります。そうなのです。

さらに五代ほどさかのぼると いま一人の女性 タマルがいます。

   ユダはタマルによってペレツとゼラを・・・もうけた。(1:3)

とあります。そしてこのペレツとゼラの双子の誕生について 少し込み入った話が伝えられています。

3. 
アブラハムの子がイサク その子がヤコブで このイスラエルとも呼ばれるヤコブには 十二人の子がいました。四男がユダです。このユダが《タマルによってペレツとゼラを・・・もうけた》のです。このユダも 地元カナンの異邦人を嫁に迎え まづ三人の息子を得ていました。

ユダは タマルを 長男エルの嫁として迎えました。ですから 結果から申せば 先ほどのペレツとゼラの双子は この舅(しゅうと)であるユダとタマルとの間に生まれた子どもです。

この場合は 決してどろどろした関係があるのではなく 必ずしも悪いおこないがあったということでもないと わたしは思います。

夫のエルが結婚後すぐに亡くなると その当時のおきてでは 長男の家系として子孫を残すために タマルは 夫の兄弟によって子をもうける義務を負いました。けれどもそこに生まれる子は 自分の子孫とならないと知っていた次男のオナンは 《兄嫁(タマル)のところに入る度に子種を地面に流した》(創世記38:9)そうです。のちに 自慰行為をあらわすオナニーという言葉は かれの名から来たといいます。このオナンも死にました。

三男のシェラは まだ幼く 成人するまで時を待つことになります。舅のユダは けれども このシェラまで失うのではないかと恐れ 成人しても かれをタマルのもとへ行かせなかったのでした。その結果 ちょっとした策を用いたのですが タマルは けっきょく舅ユダによって 双子の子孫を得ることになったのでした。

4.
ちなみに 弟が兄の妻と結婚し 生まれた子を兄の子にして、父の家を相続させるこの風習は レヴィラート婚と呼ばれるもの(申命記25:5-6)で イスラエルに限らず 広く世界で知られています。

話は飛びますが 新約聖書にこのレヴィラート婚にちなんで 人びとがイエスと問答する場面が記されています。

七人の兄弟が 年上から次つぎに死んでいき 次つぎに年下が初めのひとりの兄嫁と結婚していったという場合 《復活の時 その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです》という問いです。復活はないと言う人びとからの質問でした。

イエスの答えは わたしには まだよくわかりません。

   神は死んだ者の神ではなく 生きている者の神なのだ。あなたたちは
  大変な思い違いをしている。(『マルコ福音書』12:27)

という箇所が 大事ではないかと思うのですが もっと多くのことが記されています。皆さんも その段落全体を読んで考えてみてください。『マタイ』では第22章:第23-33節 『ルカ』では20:27-40です。つまりたとえば次のようにも書かれています。

   復活の時には 娶ることも嫁ぐこともなく 天使のようになるのだ。
  (『マタイ』22:30)

5.
イエスの系譜に挙げられている二人の女性(女性は わたしを容れて三人だけです) すなわち 後夫をつうじてわたしの義母となったラハブ そして遠い祖先タマル この二人を紹介しました。

げんみつには夫の兄弟( levir )ではなかったのですが わたしの場合も このレヴィラート婚( levirate marriage )がからんでいます。後夫となったボアズは 亡夫の父つまり義父 の親戚でしたから。

わたしの義母はナオミと言い わたしたちの地モアブにやって来て けっきょく 夫と二人の息子を次つぎと亡くしました。ですから そのとき もう自分は故郷イスラエルに帰るからと わたしを含めた嫁二人には それぞれの実家へ帰りなさいと説いて聞かせたのです。ですが わたしの方は 聞きいれず とうとうユダヤまでかのじょに付いて来てしまいました。なぜかは わかりません。そうしたかったのです。

義母は あまりにもの不幸に遭って帰ってきたので 故郷のベツレヘムの人たちが ナオミさんではありませんかと声をかけても こう言って歎きました。《どうか ナオミ(快い)などと呼ばないで マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです》と。

その後 大麦の刈り入れのときには 落穂拾いをして暮らしたことを述べましたが 親戚筋のボアズの妻となって 男の子オベドをわたしが生んだときからは ナオミも喜んでくれました。

わたしの人生は これだけのものですというのが あらためての自己紹介になります。

* プロテスタントや近代的自我などについて触れられなくて ごめんなさい。 あと 《終わり》は特にないと思います。特に考えなくともよいと思います。ルツも三千年生きているわけですし。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

見落としていたので、ルツ記の内容をもってきてくださって
感謝します。

シナゴークもエクレシアもない。
ただ神を信じ、生きて、義とされた人。

結局のところ、カトリックだプロテスタントだ異教徒だ
なんだというのは、ただ今の時代の今の法律とその関係によって
いるだけなのかもしれません。

神に関することは永遠に属しているのですから…。

普通の生活。
そして神は生きているものの神。

お礼日時:2007/12/23 19:05

>この関係は何をもって、終わるのか…。



その人の死をもって終わるのでしょう。
今年この板で読んだ質問の中で最も感銘を受けかつ最も
意義のあるものだったのが
http://okwave.jp/qa3595423.html
です。ここに信仰ということ、その関係を終わるということ
おのれの信仰が他者に及ぼすもの、そのすべてが書かれてい
ます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>その人の死をもって終わるのでしょう。
やはり…。

紹介されていた参考先見ました。
とても参考になりました。個人。と他者と…。
ありがとうございます。

お礼日時:2007/12/23 16:56

よく宣伝カーで「アナタハ カミヲ シンジマスカー」ってやってますよね。




信仰って一体なんでしょう?

信じ仰ぐ?
信じ念じる?

前者はキリスト教は神を賛美することで、信仰を実行していますので、信者は信じ仰いでいるわけですよね。

信じ念じる つまり 神の元にいけますようにと念じる これも信者なら信じて実行しているわけですよね。

ところで、「何を」信じて賛美するのか、「何を」信じて念じるのか という問題。

なんせ神は不可知、人間の能力では到底計り知れないものとされて、つかみどころの無いものとされているので、個々が持つ神という概念を信じ賛美し、信じ祈るしか手立ては無いわけです。


でも、いくら聖書の解説を本を読まずに言える神父さんだって、暴言・暴力をふるいますよね。
非暴力と口で言いながら、実際右の頬と打たれたら相手を蹴飛ばし、往復びんたする神父さんもいる。

つまり、結局はどんなに頭の中で念じ祈ったところで、体は自分の感情に従順なので、イザってとき、手や足が出ちゃって本性がむき出しになってしまうわけです。


そういう時のために懺悔ってものがあり、「すいません かっとなって つい少年を殴っちゃいました。だって 不良でどうしようもない連中で、こっちがヒツジになっていることをいいことに、煽ってなじってきたのだから」と言い訳したりして、結局「ああ 悔い改めます もうしません。神の使者として今後は愛をふりまくように努力します」とかリセットできるわけです。

しかし 、やっぱり駄目で、とうとう信者から冷たい視線を送られ、「あれだけ聖書を解説できる熟練者でも無理だったから」って信者に落胆させたりする。

でも、信者の中には「あの人は失敗したけど私は大丈夫」と思っていて、私などと会話して、煽られて(笑)暴言三昧をやっていただき、私に「ほらね」ってニコっと言われたりして、「この悪魔」とか私に言って、「はいはい 私が悪魔だから 悪魔に対しては何やってもいいって自分を正当化して、自分が私となんら変わりに無い人間にすぎないと、認めることができないわけですね。」って言われ、、、、、


そうなると結果がわかっていても、煽ってしまうあたしもあたしなんですが(苦笑)


で、私、信者じゃないし アンチなんですが、ave mariaの歌 好きなんです。

「今も、我らの死の時も。」ってのが、人々の根底にある願いを表しているような気がします。
アンチキリスト教的な歌ですが、、、

死んで天国に行くつもり とか そういう期待じゃなく、死ぬ時ですらその死を見守ってくれる何かの存在を信じている というか。

それが「信じる」= in believe=存在を信じる。

それさえ信じていれば、死すら怖くないわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

煽りというか天国を信じてるなら、
今すぐ逝けよ。とは私もよく使います(笑)

聖職者とか信者とかのことですが私の問題意識とかぶったので
ちょっと紹介します。

個人的に人間が一人一人、直接、神と結びついているのなら
宗教団体なんてものが存在しなくなると思うんです。
信者も聖職者もなくなる。一種のアナーキーな。
もちろん、布教なんてものすらなくなる。

でもかえって、自分たちはプロテスタントだ。自分たちの教会だって
造るようになりました。そこに所属しないと認められなかったり。

せっかく人間が主観的に信仰を決められるようになったのに
どうして客観的なものに支配されなくてはならないのだろうと。

でも、たった一人で自分の選んだ神(選ばれた?)を
信じつづけるというのは一体何が終わりなのだろうと。

そんな問題意識から今回質問させてもらいました。
ご意見参考にします。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/23 16:48

信仰も何も、


これは人と人の間で築かれ育まれてゆくものです。
単に意識で決まるものではありません。
ただ、信仰を持っていると自覚すると決心するのは
その人の主観による影響が大きいでしょう。

近代資本主義に呼応してのプロテスタンティズムであり、
教会が良くないとか、信仰は一人で行うものとかは本質では無い。
本来教会は飽くまで神への信仰を確認する場であったはずです。
神の威光を感じるには自ら神を信じれば良いのですが、
ただ人は一人で神の言葉を聞くことは敵いません。
人と人が集い神の偉大さを言葉を通じて再確認する場が、
教会の意義ではないでしょうか。

私たちは人間であり、
人は何かにすがるように生まれつき作られています。
そしてそれ以上のものを持ち合わせていないので、
神や仏など偉大なものを信じようとするのです。

いかがでしょうか。
聖書で語られるなら
私たちは神の教えを聞くことができなくなった、
神の赦しを得る為に生きる子羊なのでしょう。
イエス=キリストは救済のきっかけを私達に伝えています。
人として正しく神の教えを請い生きるために、
日々教会に通うというのは敬虔な心の在り方だと思います。

この回答への補足

お礼に対する自己レスですが
回答の字を間違えました(汗)

補足日時:2007/12/23 15:16
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この回答へのお礼

解答ありがとうございます。

>ただ人は一人で神の言葉を聞くことは敵いません。
ここに解答者様の宗教観を見ることができました。

神と救済者としてのキリストはさておいて。
少しプロテスタンティズム的な考えとは違うかなぁと思いました。
信仰者も近代的な個人と直面しております。

でも一般的な解答だと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/23 15:09

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