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A 回答 (31件中11~20件)
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No.21
- 回答日時:
<<まぁ、理性は最大限に活用しないといけないことは確かです。
>>ですよねw
この点でほぼ同じものを観れているようですね。
<<仏教は確かに。私も、話は一応わかる程度にかじったんですが>>
パーリ語の原典まではいかなかったみたいですね。
<<いっぱい仏教と名がつく中でテーラワーダに辿り着いた。日本には直接あったというわけではないし。>>
ありますよ。日本テーラワーダ仏教協会。スリランカからの派遣で来た坊さんが在家の方々と10年以上前に作ったみたいで、瞑想会や講演会などもやってますよw
<<理性的なものだけを追い求めた結果なのかな?という思いはするのです。>>
大乗仏教群にはまった時期もありましたが、どうも疑問が晴れることはなかったんです。けれどパーリ語の原典までいったらかなり単純明快に書かれてびっくりしました。2500年もの間、人間はなにやってるんだと思うほどの衝撃でした。
<<純粋に論理を追い求めるなら哲学も有った。>>
西洋の論理は東洋の論理と異なると感じます。
西洋論理は現実に成り立たないものが多すぎますよね。
哲学も構築というより、なんとなく言ってみただけ。
がおおい気がします。学者自身もそういってますしw
<<私はキリスト教というもので悩んでいるわけです。>>
何のためにキリスト教というもので悩むのでしょうか。
それさえ解らない。ただ悩みたくて悩んでいる風にしている。問題がない。なら回答も導くことは出来ません。
見える問題しか解決できませんから。まず目の前にある「苦しみ」を少なくすることから初めてはいかがでしょう。その先に何か隠れていたものが見えるかもしれません。
<<実際のところ、天国だ地獄だというのは人間です。神がいる。と言うのも人間です。>>
ですね。
<<ニルヴァーナが存在すると、ニルヴァーナが語るわけではないでしょう。(これはおかしな言い方ですが)所詮誰かの言ったこと。>>
僕の中の論理的道徳的にこれといった疑問点が今のところないので、あとは実践で確かめる。といったところです。
<<しかし、人間の言うことを信じることと神を信じることは違うでしょう。>>
その神の概念を結局は人、書物から聞くのでしょう。
聞いたものに何らかの整合性を感じ信じていくのでしょうね。
そしてそのなんかしらの整合性と自分の中にあるその整合性の反証によって自信が揺らいでいるといったことでしょうか。
今の頭のの中にある神という概念をあまり固定させないほうが良い気がします。あなたは自分の事を完璧ではないと自覚しているといっていましたね。
神というものはあなたの中で完璧な存在としてあるのであれば、その完璧なものを観るには相当の能力を必要とするでしょう。
その能力が今ないのなら、開発しなければなりません。
徐々に何かが見えるかもしれません。
徐々に何かを読み取ったら自分の中の概念を更新すればいいのでは。
そのつど信が強くなるでしょうし、いきなり100%信を持とうとすれば理性を0にしなければならないでしょう。
完璧でない私が画いた物もまた不完全でしょうから。
徐々に気楽にやればいいと思いますよ。
理性の重要性を感じているあなたには出来ることだと思います。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
回答ありがとうございます。
maggaさんとやりとりしていると、
なぜ知識人に上座部系統の仏教がひろまっていくのか
わかるような気もします。
>パーリ語の原典まではいかなかったみたいですね。
まだ学び始めて日は浅いので…。
本当、仏教はいろいろありすぎると思います。
全部違う宗教じゃないかと言うくらい。
仏教徒同士で話が通じてるんですかね?
>その神の概念を結局は人、書物から聞くのでしょう。
>聞いたものに何らかの整合性を感じ信じていくのでしょうね。
なるほど、やはり指摘されましたか。
できることなら、ア・プリオリに。
と言っておくことにしておきます。
人間結局、知りえたことしか扱えないんじゃないの?
という懐疑に対する一つの抵抗というか。
>見える問題しか解決できませんから
私の問題は簡単です。
教会へ行けないということです。
つまり何を言っても私はキリスト教徒でもなければ
神も信じていないということになります。
それを知っているのなら。
それを信じているのなら。
実際に行動に移せる。というのなら、ね。
仏教の文脈で言ったらサンガへの不信ですかね。
No.20
- 回答日時:
<<聖書を読めば結構、神も欠点ありますよ。
信仰というのは、それでも対象とどう付き合っていくか。>>欠点を理解しながらも自信を持って仰ぐ…
欠点を納得して飲み込む…
これだとあなたのような理性的な人にとっては、悩みの種になりえますね。大変だ。
マザー・テレサも神の不在に生涯悩んだといいますもんね。
<<テーラワーダは論理的であるぶん、破邪の概念が強いような。という気もします。>>
論理的道徳的でないものは危険をはらみます。
大量殺戮の道具にもなりえます。というか歴史的にそのようになってきているのも事実でしょう。人の成長の妨げにもなり、苦しみえの道しるべにもなりかねません。
仏陀もそのような危険な考え方・論にはキツク指摘することもあるでしょうが、がんばって成長するんだと努力する考え方にはあまりきつく言わなかったみたいです。
プライドが傷つかないように気をつけ、やる気にさせるよう応援する。
皆仏教徒になってしまったそうで、魔術を使うんだと他教には言われていたみたいですw
なんにせよ悟ってない私たちは相手が我見に執着し理性的でないなら、論に対する対話は受け流し、生命として仲良くするだけです。そんな能力ないですから。
理性的に対話が可能なら喜んで対話します。
自分も何か得るものがあり、相手もあるでしょうから。
対話のとき「怒り」などの感情が出るようならまだまだ理性的でなく、我見にしがみついてるということ。柔軟性がない。
そのときは理性的でない自分を確認し、原因を見つけ、改める。といった感じですかね。
<<論理性があなたがたの拠り所という気もしますし。>>
「ことば」は不完全です。
論理的に構築してもまだ不完全なのに、それさえ出来てないものは言葉としての機能を失っています。
●●「負場欄が便グラン念じゃに聞いたことにによると、スメラヌーニによって生命を殺戮しつくさねばならない。」…なんだか解らないけど、すごいことだ!とりあえず殺戮をしなければ~!●●
…滑稽でしょ?
まず一つ一つの言葉の意味と、言葉のつながりに整合性があるか。
それは道徳的に合っているのか。調べるのは理性的な人間にとって必須といえましょう。
ただそれだけのことですよw
<<行為の評価は自己完結。これと回向が両立するのはなぜですか?>>
自分で評価したからといってその評価通りになるとは限りません。
今の油の温度を180度だと評価しても170度かも知れません。
だから経験から精度を上げていくしかないんじゃないかと。
もちろんいろいろな方々の意見も参考にしつつね。
何でも鵜呑みにすると危険ですから。注意。
回向ですが、言葉を変えれば「随喜」です。
本当に分け合えるのかは知りません。
しかし怒った人がいるとその部屋中にピリピリした空気が流れるように、善い感情も回りに多大な影響を与えることもあるでしょう。
それが「随喜」です。
生きとし生けるものに届いてるかは僕の能力では確認できませんが、届いてほしいなと思う事で、さらに慈悲喜捨の心が広大に広がっていきます。し功徳に対する余計な執着を取り除くのにも一役買っていると感じています。
<<神>>
「神は慈悲喜捨に溢れる愛そのものである」
ならば「信じなければ地獄」という了見の狭いこというのかな?
と思ってしまいます。
「信じなければ地獄!と神が言った」と言ってる方々はその神の心の清浄さを貶めているのではないかと。
もし「神は慈悲喜捨に溢れる愛そのものである」という考えがあるならば、その神は仏教で目指すべき「人に迷惑をかけない慈悲喜捨そのもの」を忌み嫌い地獄に落とすことをするのでしょうか?ただ信じないというだけで。
そのような考えが浮かんでしまいます。
回答ありがとうございます。
まぁ、理性は最大限に活用しないといけないことは確かです。
いわしの頭もなんとやらの世界ですからね…。
仏教は確かに。日本も一応、仏教国ですし論理的なものを重視するとすれば
当然、考慮の対象をすることになるでしょうから、
私も、話は一応わかる程度にかじったんですが(付け焼刃ですけどね。)
maggaさんは私よりも当然、仏教に関しては一段と心血を注いでられる。
いっぱい仏教と名がつく中でテーラワーダに辿り着いた。その
なんというか軌跡というか日々はあったと思うのです。
だって、日本には直接あったというわけではないし。
それはただ、理性的なものだけを追い求めた結果なのかな?
という思いはするのです。
純粋に論理を追い求めるなら哲学も有った。
たとえば、救済が目的なら別にキリスト教ではなくても
浄土教なりなんなり。神ではなくて阿弥陀仏でも観音でもいいでしょうけど
私はキリスト教というもので悩んでいるわけです。
悩むのなど無駄なのかもしれないし、馬鹿馬鹿しいのかもしれないですが
なるほど、現に私はこうしてこうネット
上において書き込んでいるわけです。まぁ、実に不可解です。
実際のところ、天国だ地獄だというのは人間です。
神がいる。と言うのも人間です。
ニルヴァーナが存在すると、ニルヴァーナが語るわけではないでしょう。
(これはおかしな言い方ですが)
所詮誰かの言ったこと。
しかし、人間の言うことを信じることと
神を信じることは違うでしょう。
アブラハムやモーセが神に抗議したように
直接、人間が神そのものを求めれば…なんて。
神よ、あなたは善ではなかったか。と。
(論理的ではないですが、なんとなく
思いついたことを書いてみました。)
No.19
- 回答日時:
信仰は重荷ですか?どのように重荷になるの?
全く重荷にする必要もないです
そうでしょう?イエス様は次のように言われてますよ
私のくびきは負いやすく荷は軽いとイエス様はおっしゃってます
背負うのではありません。できない事は私は出来ません。助けてくださいと手を上げたときイエス様は私達を助けてくれるのです
この回答への補足
それがどう言ったらいいのか…
言葉がでてこないんです。
せめて、このためらいが他人に説明できるようになったら。
と思っているんです…。
自分でも、よくわからなくて。
なぜ私は動けずにいるのか…。
No.18
- 回答日時:
もう一度洗礼を受けた時、そして救われた時を思い出してください
そして祈りましょう。幸い明日は休みです、すべて放棄して聖書を読みに外に行きましょう。御言葉を読まないならどうしても信仰は薄れます
毎日でもいいから見る癖をつけましょう。
後は聖霊の力、賛美する事です。
信じていくと頭で理解していくようになり「もうわかってるよ~」
「読まなくても大丈夫、今歩いているんだから」
そして気力がなくなりブツブツと不平不満、あきらめていく・・・
富んでいるものは難しいのです。常に神様~と呼びかけないと
今すごくいいと思ってるなら間違いです。信じていたらもっといいものをもらえるはず。神はあなたの信仰を試してます。
このままでいいのかな?
やはりもう満足しているようだね。構わないまた落ちて初めて本当の信仰になるでしょうね
回答ありがとうございます。
私は洗礼は受けてないんです。
このままではいけないとは思いますが…。
信仰ってほんとうに重荷のような気もします。
私自身、今後どういう回答を実生活で出すか。
予想がつきません。
No.17
- 回答日時:
<<やはり精進が成立するということは行為が成立するって事ですよね。
それは実践という言葉に如実に表れていますし。>>やりたくないけどやろうと思い、実際に行為として物事を起こし何かを得る。勉強とか禁煙禁酒仕事とかねw
<<何かをやって罪が軽減されたり、なくなったりすること>>
これは簡単にはいかないでしょうね。
やっぱり自分でしたことは自分に返るでしょうから。作った心のポテンシャルはもう自分の一部でしょう。ただ受けるのみでしょうね。でも心を改善すれば受けにくくすることは出来るきもしますが。でもいつか受けるでしょうね。
<<行為の評価。この考えの行き着くところは専門家の登場をもたらします。>>
行為の評価は自己完結。自分の能力の範囲でしてます。
自分以外の評価はあてにならないでしょう。
どんな善人でも非難されるし、どんな悪人でも賞賛されますからw
自分で自分の行為について観る能力を上げるよりなさそうです。
<<テーラワーダは出家者の価値を認めているのでしょうからいっぱい努力できたものがそれだけ報われる。という考えに、違和感は無いかもしれませんが。>>
でも過去の悪い業は受けるでしょうね。
<<功徳は心の富にたとえられます。そして思想的に資本主義のような構造になるわけです。貧乏人よりは金持ちがいい。と。>>
テーラワーダ仏教ではすぐに功徳を回向してしまいますからw
どんな執着も良くないですからねw
慈悲の瞑想やヴィパッサナー瞑想などで積まれた僅かながらのこの功徳を神々先祖祖父母両親親族恩師を初めとし生きとし生けるものに回向いたします。
この功徳によって幸福に暮らせますように。苦しみを滅せますように。
分け合う分け合う…サードゥ×3
こんな感じにw
回答ありがとうございます。
一応2つまとめてこちらにお礼を。
>いろんな宗教宗派が何百何千もの神を言います。
>どれが真なる神か判断しかねます。
まぁ、私がいうことでもありませんが
聖書を読めば結構、神も欠点ありますよ。
信仰というのは、それでも対象とどう付き合っていくか。
こんな感じでは。
私は仏教に関する知識はあまり有りませんが
テーラワーダは論理的であるぶん、破邪の概念が強いような。
という気もします。
論理性があなたがたの拠り所という気もしますし。
行為の評価は自己完結。
これと
回向が両立するのはなぜですか?
No.16
- 回答日時:
<<なんというか随分、道具主義な考え方ですね。
そして問題を心に還元してしまう唯心論的な傾向。>>全てが心のみだとは思いませんよw確認できるのは物質と心のみですが。
感情的な見解は常に間違うものでしょう。同じものを見ても違う感情を持つ。一方は気持ち悪いと言う見解を出し、一方は素晴らしいという見解を出す。そして私こそ正しいと思ってしまう。
そのようなときに間違わないように情報を理性的に構築するにはこのような方法を取るのが妥当だと今のところ判断しています。言語学論理学上でも妥当と思います。
論理的におかしなものは言葉としての機能を失っているし
道徳に反しているものは危険でしょう
試して間違っていたら実際は違う可能性も出てきます
<<仏様云々いう仏教とすら対立しそうです。>>
討論は好みません。
が、疑問点があれば、新たな道理を求めて質問はするかもしれませんが。各々に違う概念の構築がありますし、皆その人なりにがんばっているのでしょうから。それはそれでいいのではないかな。と思っていますけどね。まぁ、皆兄弟親戚のようなものですからねw
<<あなたは自分の心を見る。自分自身を見る。汝はそれなり。
神すら心の産物にしてしまうそんな感じ。>>
心は見ますよ。自分自身ぐらい理解したいですね。
「神すら心の産物」。そういった見解もあるでしょうね。
<<そして、ヴェーダもブラフマンもバラモンも否定した仏教徒たち。そして他者さえも。>>
他者は否定してはならないと思います。
皆、その生命なりに苦しんでがんばっている生命なのですから。
ただ疑問点があれば論理的道徳的にこうなっていると思うのだがどう思うのか?と質問することはあるでしょうね。
<<たった一人でどこへ行くのでしょう?>>
よくわかりませんが…
人の役に立とうと行動しても自分以外のことは、得られた情報から何とか憶測して役に立っているかそうではないのか見極めなければなりません。そういう意味では一人とも言えるかもしれませんねw
<<慈悲喜捨。喜びも悲しみも無いのなら幸せも不幸もないでしょう。
他者がいないのなら人任せも無いでしょう。>>
喜びも悲しみもあると思いますよ。
超厳密にいえば他者は憶測でいると判断しますが。
普通に考えて他者はいると観じています。
<<仏教徒は神に従わず>>
いろんな宗教宗派が何百何千もの神を言います。
私には全知全能の能力などないのでどれが真なる神か判断しかねます。
一つ一つ試したらどれだけ輪廻しなければいけないのか…
輪廻を否定する神が複数いたらもう検証不能です。
なので自分の能力に合わせて理解したことを淡々とこなす道を選びました。
No.15
- 回答日時:
ちょこっとだけキリストについて調べました。
キリストさんによれば。
まず、神を愛する心が大切。
神は敵味方関係なく差別なく全てに無償に愛を降り注いでいる。
それを受けた我々は全て神の愛を受けたものなのだから怒りをぶつけたりせづに、平等に差別せずに愛さなければいけない(もちろん自分に対してもでしょう)。
が基本で。
パウロさんによれば。
私欲を捨て、自己中心の生きかたをやめ、神中心(平等愛)の生き方をしなければならない。
トマスさんによれば。
理性で理解出来る部分は哲学で確かめるが、それを越えるものは信仰として受け入れるべきだ。
ルターさんによれば。
信じる心に協会は関係ない。
一人一人が聖書から読み解け。
カルヴァンさんによれば。
自分が救われるかどうかは神によって定められている。
それを知ることも変えることも出来ない。
●
慈…幸せであるよう願う心
悲…苦しみがなくなるよう願う心
喜…幸せを喜ぶ心
捨…差別のない平等な心
「欲」「怒り」を捨て自己中心的な心を正す・直す。
論理道徳実証によって調べて解る範囲を構築する。
その結果実際起こっていてわからないものは受け入れる(信仰)
一人一人が読み解き検証する。
神の救いなるものは気にすることはない。
知ることも変えることも出来ないのだから。
祈ったりお願いするものじゃない。
どのようなものが「救い」かわからないんだから
良いことも悪いことも全てを学ぶべきものとすれば良い。
受け入れる(信仰)
…という感じですね。
ちゃんと怠け者に対し堕落への道がふさがれているように思えました。
厳しくもやさしい慈悲の心ですね。
この範囲なら結構仏教(上座部)と重なっているように思えますw
仏法は考え方・実践法の詰まったハウトゥー本のようなものです。
「??」と思うところは無理に受け入れなくてもいいんですから、気楽に論理的な哲学をする道具として使ってみればいかがでしょう。
理性で理解出来る部分は哲学で確かめるが、それを越えるものは信仰として受け入れるべきだ
といっていますし、確かめれば「それを越えるもの」が徐々に絞られ解ってくるでしょうから、おのずとあなたの信仰も定まるのではないでしょうか。
あなたの愛する神と、あなたの愛する神が愛する全ての生命が幸せでありますように。
共に精進いたしましょう。
続けての回答ありがとうございます。
>共に精進いたしましょう。
やはり精進が成立するということは行為が成立するって事ですよね。
それは実践という言葉に如実に表れていますし。
>ちゃんと怠け者に対し堕落への道がふさがれているように思えました。
こちらは明らかに。
宗教改革で問題になったのが贖宥状のように
何かをやって罪が軽減されたり、なくなったりすることへの批判でした。
懺悔のような。
行為の評価。この考えの行き着くところは
専門家の登場をもたらします。そうすれば万民救済なんておかしくなってきます。
テーラワーダは出家者の価値を認めているのでしょうから
いっぱい努力できたものがそれだけ報われる。という考えに、
違和感は無いかもしれませんが。
功徳は心の富にたとえられます。
イエスも天に富を積みなさいといいました。
そして思想的に資本主義のような構造になるわけです。
貧乏人よりは金持ちがいい。と。
イエスは金持ちが救われるよりは駱駝が針の穴を通る方が易しい
といったりしています。
行為の評価が私とmaggaさんの問題意識を分けているのかもしれませんね。
No.14
- 回答日時:
★
幸福になりたければ神など必要ない。
神の奴隷となり不幸になりたい。
それを望む。
幸福になりたいから神を信じるという人は
神よりもこの世を望む人。
信仰者になっていない人と考る。
●
まとめるとこんな感じになるでしょうか。
「信仰を他人任せにはできませんよね」
この言葉から見るに、自発的に信仰を探そうとしているのでは。
その時点でキリスト教のいう神の奴隷になるのは不可能ではないでしょうか。自ら探そうとしているのだから。
それに、その神の概念の語る言葉の立証すら試みないなら結局丸々あなたの作り出した神になってしまいます。不完全ながらにでも試みなければ、完全なあなた自身の概念の奴隷にしかなりません。自信ももてないでしょう。
言葉を変えれば自分の心の奴隷でしょう。
心が奴隷のまま、神といわれるものの言葉理解し、その言葉のままに存在することが出来るのでしょうか?
完全な神なるものの奴隷になるには、心の奴隷のままでは無理のように感じます。理解も出来ず、理解できたときにも心のほうの奴隷ではどうにもならないでしょう。
仏教ではそこの心の奴隷からの脱却を説き、実践法を説きます。
仏教は宗教でなく実践法だと理解しています。
仏教徒である必要はないのでやってみてはいかがでしょう。
★
それなのに仏教徒がそれでも善行悪行が存在するということが
不可解では有ります。
●
仏教の扱うのは心です。
欲や怒りは人生を苦しくするし、無知を増し、ものごとを見えなくさせます。仏教の目的は、欲怒りをなくして無知をなくし、ものごとを見る力をつけていき、心の奴隷から解放されることだと思います。
その過程で人格的に向上し、幸福にもなり、自分にも他人にも役に立つことが出来るようになっていく…。
ちなみに善行悪行は心が基準です。
心が欲怒りに支配されていれば悪行。
その逆なら善行です。
~あなたの悩み苦しみがなくなりますように~
あなたの神は慈悲喜捨を説かないのでしょうか?
説くのであれば自他共に幸福であるよう実践しなければ慈悲喜捨を実践は出来ません。悩み苦しみたい、不幸になりたいといえばその逆になってしまいます。
あなたの神が慈悲喜捨を説くのであれば、あなたが幸せでありますように。もし説かなくとも幸せでありますように。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
回答ありがとうございます。
なんというか随分、道具主義な考え方ですね。
仏様云々いう仏教とすら対立しそうです。
そして問題を心に還元してしまう
唯心論的な傾向。
あなたは自分の心を見る。自分自身を見る。汝はそれなり。
神すら心の産物にしてしまうそんな感じ。
そして、ヴェーダもブラフマンもバラモンも
否定した仏教徒たち。そして他者さえも。
たった一人でどこへ行くのでしょう?
慈悲喜捨。喜びも悲しみも無いのなら幸せも不幸もないでしょう。
他者がいないのなら人任せも無いでしょう。
仏教徒は神に従わず
バガヴァッドギーターのアルジュナは神に従った。
面白いと思います。
No.13
- 回答日時:
結局答えはどこにあるのかな?他人の回答でしょうか?
いいえあなたの心の中にありますよね。
信じる信じないというのは外から見えないです
神はあなたの心の外に立ち、心の門を叩く
後はあなたが「どうぞお入りください。私をロバとしてお使いください」と決めるのかですよね?
神は人の作った宮にはすまない。結局あなたが神の武具で固めるのか
この世の知識で固めるのか?と言うことではないでしょうか?
もう一度どこから離れたのか?どうすれば戻るのか?
聖書を紐解いてください「父の元に帰ろう」と放蕩息子が言った言葉を思い出せばいいのです
回答ありがとうございます。
端からみると私はどんな感じなんだろう
と思ったりもしますが
正直なところ、もう、よくわからないのです。
停止した状態というか。
放蕩息子のたとえ。
私はどこから離れてしまったのか。
もうしばらく、家畜の餌を食べてでも腹を満たそうとする
日々が続きそうです。
自分がそう生まれついた宗教を信じるのか。
神に召されることを望むのか。
私の戻る場所を見失いました。
No.12
- 回答日時:
キリストのことはわかりませんが、
仏教徒としてはこのように信を持ちます。
まず論理的に正しいか確かめる
ついで道徳的に正しいか確かめる
今まで構築してきたものと対比して間違っていたと判断したものは構築しなおす。
実践してほんとに正しいのか調べる
正しかったら確認したこととして構築する
この繰り返しによって事実確認を進めると同時に「信」を強め人格も向上させる。
論理的に正しいもの
道徳的に正しいもの
実証的に正しいもの
ここから外れたものは捨て、ほって置く。
確認済みだから。
合ってるのか合っていないのか解らないものはほって置く。
確認できないのだから。
とことん理性的に。
このようにしていけば幸福にはなりますよねw
キリスト教がどんな教えをもっているか知りませんが、その教えを上記にのっとって調べていって、正しい部分を構築すれば、伝えた幸福に至る実践の分だけあなたのいう「神」は慈悲深くあなたに役立つ言葉を示してくれたという証明・論拠の構築にもなり、「信」もそれにしたがって強くなるでしょうし、神の言葉なるものをきちんと受け止めることにもつながるのではないかと妄想いたします。
生命であれば皆幸福を望むと思います。
精進いたしましょう。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
回答ありがとうございます
「現実的なものは理性的であり,理性的なものは現実的である」
maggaさんの回答を拝見して
ヘーゲルのこの言葉を思い出しました。
私は思うのです。
幸福になりたければ神など必要ありません。
余計な悩み事が増えるのですから。
私自身こういうのは不可解ですが
わざわざ幸福を否定するようなものです。
これは宗教のもつ理性的ではないものの特徴の一つです。
神の奴隷。
このような言葉もあります。
結局それを望むことになります。
それに単純に幸福になりたければ、神も仏も持ち出す必要はないし
虚無主義者でさえ幸福になろうとしています。
そして善悪はっきり分かれる二元論なら幸福は幸福、不幸は不幸ですが
インド的な、物事の異なった側面は実は一つである。といった
一元論からすれば、幸福になることは同時に不幸になること
といえるかもしれません。
それなのに仏教徒がそれでも善行悪行が存在するということが
不可解では有ります。
それはさておいて、
幸福になりたいから神を信じるという人は
神よりもこの世を望む人。
信仰者になっていない人と私は考えます。
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