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戦国時代全般を通して活躍した、穴太衆とはいったいどのような出自だったのでしょうか?また、誰に仕えていたのでしょうか?知っておられる方がいらっしゃいましたら、どうかご返答くださいますようお願いいたします。

A 回答 (3件)

「穴太衆」、「穴太積み」が戦国時代一般的に言われていたというのは、確かではありませんが、後世にそう称された、集団、技法があったことは確かでしょう。


五輪塔などを作っていた近江穴太の石工が、比叡山の堂、院の石垣作りに従事し習熟した腕を買われて、織田信長の安土城の石垣作りに徴用されたのはいろいろな資料から確かと思われます。
その集団を「穴太衆」と呼ばれた可能性はありますが、戦国時代には技能集団としての名として定着したのには疑問があります。
「穴太積み」も当時いわれていたとは思われません。
石工は非常に身分の低い者で、取り上げられる事はなかった筈です。
ただ技法は優れ堅牢な石垣が出来ましたが、褒められて名の残ったのは差配した武士だけでした。
それでも腕は認められ江戸時代になるとやっと「穴太六家」として各地に散らばり、石垣師として諸大名に仕えました。
前田家も有名ですが、とりわけ高名なのは加藤家(清正)に仕え熊本城の石垣を作った一派です。
江戸城の普請の際、加藤家の担当の石垣の隣を、安芸浅野家が担当していましたが、災害で浅野担当の石垣が全壊したのに、加藤家担当の方はびくともしなかったと云われています。

しかし諸方に散った穴太衆は当地の石工達に技法を伝授するともに、次第にその中に埋没していった事でしょう。
ただ穴太本家はそのまま残り13代粟田万喜三氏から14代へと続いています。

出自は帰化渡来人といわれてますが、当時の身分からして証明するものはないでしょう。
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この回答へのお礼

技能自体は存在していたが、後に穴太衆という言葉が生まれたのですね。織田信長の安土城の石垣作りに徴用されたり、穴太六家として各地に散らばり諸大名に仕えたり、前田家、加藤家など多岐に渡る石垣作りに従事したのですね。
出自はやはり、謎が多いのですね。
参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/18 13:42

「穴太」とは石垣、もしくは石垣を積むことを示す言葉で、全国に地名として存在しました。



学研「戦国の堅城」によると、近年の文献史学や考古学などの学術研究では戦国時代における穴太衆や穴太積みの存在は否定されており、近世になって作られた伝説となっています。(織豊期城郭研究会の木戸氏の見解)
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この回答へのお礼

「穴太」とは日本全国に散見される地名なのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/18 13:34

こんにちは。


戦国の世が終わり、穴太衆が絶滅したわけじゃありません。
今にその伝統を引き継ぐ人達がちゃんと現存しています。

http://www.japan-stone.org/news/
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この回答へのお礼

現代にも、脈々とその伝統を受け継ぐ人々がいらっしゃることに感動いたしました。
穴太衆の歴史がもしかしたら、古代オリエントにまでいたっているかもしれないとは、実に夢のある話ですね。ちょっと感動しました。
素晴らしいご返答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/16 14:22

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