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 大政奉還後の王政復古の大号令により、
摂関・幕府が廃され、総裁、議定、参与の三職が設けられましたが、
三職が一同に会する小御所会議がすぐに廃止され、
参与が公卿層と藩士層に分けられ、藩士が意志決定に参加しにくい仕組みができたと聞きました。
倒幕に大きく貢献した藩士が、何故そのような措置を容認したのでしょうか?

A 回答 (1件)

私たちは、明治になってからの西郷や大久保あるいは伊藤博文・山県有朋の目線で作られた明治維新をみているのかもしれません。



たとえば薩長同盟。
慶応2年(1866年)1月21日に小松帯刀邸で、西郷と木戸孝允が結んだと言われています。ちょっと待ってください。小松帯刀は薩摩藩の家老ですよ。木戸孝允は生家が藩医で、養子に入った桂家は150石。小松帯刀も上級武士です。
当時の感覚から言えば、薩摩藩の家老 小松と 長州藩の家老 木戸の会見に 西郷もいたというのが真っ当な理解ではないでしょうか。

ちなみに、明治政府のトップは有栖川宮で、副総裁が三条実美と岩倉具視。1868年
その後内閣制ができる1885年まで、実は ずっと 建前上は 三条実美が政府のトップでした。けどだれも三条実美が明治維新の政策を企画・実施していったとは思っていません。

この辺から考えると、「容認」というよりは、こんなもんだと思いつつ実権を握りそれを拡大していったのが、西郷や大久保などの下士出身者だったのではないでしょうか。
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