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どの時代の天皇には子供がたくさんいました2~30人居たケースも多々有りますね。
皇太子や宮家などになればいいですがそういった以外の皇族は王となり後に臣籍降下したと思います、そういった子孫はどうなったのでしょうか?
仏門に入るとは聞いた事があるのですが武士や公家になったのはごく一部だと思います。それ以外、記録の残らなかったような皇族は時代が下がるにつれ農民や町人になって行ったのでしょうか?
農民や町民になったなどという記録が残っていますか?
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

源氏や平氏にならなかった皇族子孫はどうなったの?



どの時代の天皇には子供がたくさんいました2~30人居たケースも多々有りますね。
皇太子や宮家などになればいいですがそういった以外の皇族は王となり後に臣籍降下したと思います、そういった子孫はどうなったのでしょうか?
仏門に入るとは聞いた事があるのですが武士や公家になったのはごく一部だと思います。それ以外、記録の残らなかったような皇族は時代が下がるにつれ農民や町人になって行ったのでしょうか?
農民や町民になったなどという記録が残っていますか?
よろしくお願いします。


時代にもよりますが、奈良時代は政争が激しく、多くの皇族が非業のうちに命を落としました。光仁天皇が即位したときに、天武天皇の系統はほとんど残っていなかったほどです。その中で、天武天皇の子孫から、清原・高階・氷上・文屋氏が臣籍に移っていきます。臣籍降下の最初は源氏や平氏ではなかったわけです。
平安時代の初期も同じように在原・良峯氏が臣籍降下し、平氏・源氏も臣籍降下します。嵯峨天皇の皇子が源氏で臣籍降下して以降、臣籍降下は源氏であることが原則のようになっています。桓武天皇、嵯峨天皇を中心に子女の人数も多く、養い切れなかったり、臣籍降下させて皇室の藩屏を強固にする目的もあったといわれています。臣籍降下させて、上級貴族に任命することも多く見られます。特に、平安時代中期の村上天皇の皇子、具平親王の子孫は村上源氏として上級貴族の半数を占めるほどの繁栄ぶりをみせますが、多くの臣籍降下組は2代、3代と中央貴族にとどまる例は少なく、ほとんどは受領階級となり、地方に縁故をつくって土着する例が多く見受けられます。清和源氏でも、後世の華やかな活躍とは裏腹に、一部のものは受領階級として中央貴族の中に残り、武家の棟梁といわれるようになりますが、多くは受領時代に荘園を開いたり、地方の有力者の婿となったりして土着する傾向が強く現れます。土着した土地の名前を取って苗字とするようになります。源氏の家系図などを見ると良く分かります。
平安時代の特色は女子の賀茂斎院、伊勢斎宮の任命が見られることです。この制度は鎌倉時代まで続きます。さらに、嵯峨天皇の娘である潔姫が藤原良房に降嫁したのをはじめとして、上級貴族-摂関家の子弟に内親王の降嫁が見られることです。
さらに、男子の場合、出家させる例が増えてきます。院政期になると親王が出家した場合の入道親王、出家後の親王宣下のあった法親王の別も明確になってきます。男女を問わず皇族を出家させる傾向が強いのは、寺院には荘園等があり、経済的に恵まれていることや、一族の中から出家者を出すと九属が天に昇るとの考えがあったことも影響していると思います。また、子孫も残さないことも理由の一つだったといわれています。
院政期や鎌倉時代では内親王の降嫁は見られなくなり、女院号を持ったり、天皇の后や准母になる例が増えます。これは、院政期から天皇家に荘園が蓄積し、最大の荘園領主となったことにも関連します。鳥羽天皇の皇女八条女院は莫大な荘園を所有し、それは八条女院領と呼ばれ、後世大覚寺系統の基盤にもなった荘園群の所有者でした。天皇家に蓄積した莫大な荘園群を安全に伝えるためには、男子が所有者であるより女子の方が適切と考えられたためといわれています。そのため、降嫁は見られなくなり、逆に天皇家から外に出さないために、天皇の后や准母になる例が増えたと考えられています。
あと、鎌倉時代の特色は、将軍になった親王が出たことでしょうか。
室町時代になると天皇の后妃の人数が少なくなり、子女の人数も少なくなります。称光天皇には子がなく、伏見宮家から、後花園天皇を養子としているほどです。この時代、皇位を継がせる男子以外は出家させるのが原則になりますし、男女ともに出家させることが多くなります。女子は内親王宣下がなくなり、女王を称することが原則になります。
江戸時代は、初期に摂関家への養子があったことが最大の特色でしょうか。傾向的には室町時代と同じようなものですが、違いは、宮家の創設が室町時代に比べて増えたこと。女子の内親王宣下が復活したこと。摂関家及び将軍家へ降嫁があったことなどです。男女ともに出家させることが多いのは変わりません。この時代の中では後水尾天皇の子供に関して、政治的意図での間引きの話が伝わるなど、悲しい話もあります。時代が近いので記録が残りやすい面もあるのでしょうが、他の時代でもあったのかもしれません。
以上長く書いてしまいましたが、記録に残らない天皇の子孫も多かったことでしょう。里子に出されてそのまま里親の養子になったなどの話や、中には商家の跡取りになったという話も残っていますが、真偽のほどは不明です。

以上、参考までに。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/18 07:55

 よほどの理由がなければ、家系図などは存在しないでしょう。

また家系図などはいくらでも改ざん可能なものなので、そんざいしたところで疑わしいものであることも考えられます。はっきりしている例でいえば、戦後に皇籍離脱をした家系のかたなどははっきりとしているのではないでしょうか。
 源氏や平氏はもとは皇族から派生した家系なわけなので、源氏や平氏の子孫はみんな皇族子孫と言えなくもないわけですよね。がしかし源氏や平氏の子孫は無数にあり、その出自など怪しいものではっきりしている家系など、数は限られてきますよね。私の家など、もと源氏の名のある家の子孫だという伝承がありますが、はっきりした証拠は何もありません。このような状況が、源氏や平氏にならなかった皇族子孫にも当てはまると考えればよいでしょう。
 圧倒的多数の家は、代を追うごとに市井にまぎれ、先祖が誰なのかは分からなくなるものです。丹念に調査をすれば、我が家のように伝承のような形で「○★宮家が先祖である」というものが残っている家や、家系図か何かの形で記録が残っている場合もあるやもしれませんが、以上のようなことを考えるとみつけるのは困難だと思われます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/18 07:55

庶民でも戦前くらいまでは子だくさんで、一人の女性が6~8人くらいの子供を産むのも珍しくありませんでした。

しかし、乳幼児の死亡率も高く、成人したのは半分以下です。
天皇家を含め上流階級の子だくさんは側室がいる為です。その側室とは、最初からお妾さんとして天皇や殿に侍る女性もいますが、過半数は使用人である家女房(お女中)にお手がついたものです。で、当然、使用人の数は経済力に比例します。
皇族も、2世3世と代を経るごとに経済的に困窮し、使用人のお女中を雇えなくなって、正室の子も産まれないか育たなければそれでお家断絶、といった場合も多かったのではないかと。
あと、公家や武家の系譜を見ていると、分家の当主が跡継ぎの絶えた本家を継承し、分家の方を断絶させるといった例も結構あります。ですから、男子の数だけどんどん子孫の家が増えるという訳ではありません。

なお、皇族の子孫が最終的に農民や町人になるのは、当然あったと思われますが、何か特別な事情でもない限り、公的記録には残らないと思います。以下は、お家騒動という事情から記録に残った珍しい実例です。

伏見宮邦輔親王の王子邦茂王は、母方の実家である現在の京都府亀岡市に隠遁。その子の代からは母方の安藤氏を称した。その後、邦茂王のひ孫の女子が再び伏見宮家に奉公に上がり、時の親王の王子を産んだが、お家騒動の巻き添えを恐れて実家に戻る。しかし、最終的に王子はご落胤と認められて親王家の当主として迎えられる。

参考URL:http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/seuden/ …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/18 07:54

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