痔になりやすい生活習慣とは?

戦時中の女性について質問です。
戦時中の女性は戦争に、
受動的に参加していったのか、能動的に参加していったのか
どちらだと思いますか??

この質問に関するおススメの書籍を知っている方や答えを知っている方、
是非、返答お願いいたします。

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A 回答 (4件)

難しいご質問です。


このことについて深く突っ込んで書かれた本は、出合ったことはありません。
そもそも男性についても、同様に思います。
東條英機や昭和天皇については山ほど書かれていますが・・・。

私が出会った本では、誰でも求めることができる新書ですが
吉田裕「アジア・太平洋戦争」(岩波新書「シリーズ日本近現代史(6)」)がお勧めです。

物言わぬ人たちの世界に入っていこうとする著者の姿勢が感じられます。
ここでは女性の社会進出や未亡人へのセクハラなどが取り上げられています。
巻末に多くの参考文献が挙げられています。ここからヒントを得られてはいかがでしょうか。
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日本のですか?


外国もまあ、同じかもしれませんが・・・・
アメリカの女性達も軍事工場で働いたりしていたようですが、
実際には軍関係でない仕事の人も多くて、生活を支えるのがまず第一の目的だったとか。
どこの国でも一般人は目先の生活が大事ですものね。

女性に限らず、男性も一般人は同じような気がします。想像ですけれど。
受動的でもあり、能動的でもあり。
戦争が始まったからには、自国に勝って欲しいと思うでしょう。
勝利すればけっこう皆喜んでいたみたいですし。
一方で、「しょうがない」というのもありそうな。
奉仕作業で道を広げる工事があれば行かないわけに行かなかったでしょうし、息子に赤紙がくれば見送るより仕方がなかったでしょう。
道を広げないと、空襲のときに自分達が危ないとか言われればやりますよね。
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 戦時の母娘 ~ 寒い日に生まれた女の子 ~
 
── 言われたくない言葉がありました。母は周囲の猛反対の中、結婚
をせずに22歳で私を出産しました。私には「ててなしっ子」「兵隊さん
を出さなかった非国民の家」という言葉が、子ども同士のたわいのない
けんかの時に、投げつけられていました。
http://osaka.yomiuri.co.jp/mama/tokusyu/kodomo/m …
 落合 恵子(聞き手・近藤 亜矢子)20071009 読売新聞
http://anarchist.seesaa.net/article/54555711.html
 
 経済封鎖による不況が、失業者を生み、とくに農村の貧しい家庭に
とって、厳しい時代でした。そんなときの徴兵制度こそは、まことに
都合よく仕組まれていたのです。
 
 長男が父母を守り、兵隊になった次男・三男の給料が、手つかずで
実家に届きます。死ねば軍神として祀られ、末代まで遺族年金が出る
からです。そのためにも、負けられない戦局に突入したのです。
 
 ミッドウェイ海戦では十四歳の少年兵、大陸では四十歳の二等兵が、
ほとんど戦わずして亡くなっています。
 沢地 久枝の処女作・力作・労作をおすすめします。
 
── 《妻たちの二・二六事件 19750210-19871120 中公文庫》
── 《滄海よ眠れ(六)1984-1985 毎日新聞社 1987 文春文庫》
── 五味川 純平《人間の条件(六)19560810-19580131 三一新書》(資料担当)
 
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どちらでもあったとおもうのですが・・・


活動的な女性は大日本国防婦人会に参集し能動的に戦争に参加していきました。
そうでない女性も緒戦の勝利に酔い半ば能動的に参加していったとおもいます。

既に総力戦の時代ですから銃後もありません。
しかし戦死者の増加、戦況の不利、本土空襲など被害が身近になってくると強制された能動的になっていきました。
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Q太平洋戦争中、男は命を捨てて戦ったが、女はま○こで済んだか?

太平洋戦争中、男は命を捨てて戦ったが、女はま○こで済んだか?

このような間違った妄想が、頭のなかで住み着いてはなれません。
太平洋戦争中、将兵は命がけで戦い、そしてたくさん死んでいきました。女は性器をつかうだけで、なんとかなりましたという、なんともやっかいな考えが、私の頭のなかにあるのです。この間違いを正してください。お願いします。

Aベストアンサー

現代の日本に住んでいると、あまりにも単純で荒唐無稽なお話ですが、戦前の日本人の一部にも質問者同じような考えを持っていた人も沢山いたのかもしれないなあとふと思いました。


どのような回答を行おうか真剣に考えましたが、とりあえず質問者の疑問に回答し、その後に戦争の愚かさと、その戦争を抑止する単純な考え方だが、最も有効な考え方によって起こった悲劇を紹介しましょう。


女性も兵器製造等に携わっています。戦争は兵器の製造、兵器の貯蔵、兵器の移送、兵器の使用を繰り返すことと、戦争に欠かせない情報伝達を行わねば成り立ちません。ここで兵器の使用を行う兵士を再生産する為には、男の赤ちゃんを産むこと、即ち男女の睦事が前提ですから、戦時政府も多産婦を表彰しています。だから質問者の考えは間違いだと決めつける訳にはいきません。


しかし、情報通信、兵器の生産、兵器の貯蔵等には女性や子供や老人も関わっています。当時の日本軍の秘密兵器「風船爆弾」の製造には、記録によると、一部の地域では原料の楮の栽培、抄紙に学徒動員された地方の女子学生が携わっていますし、東京に集められた和紙をこんにゃく糊で貼り付ける作業はほとんど東京の女子学生によって行われました。手の平を傷めるほどの重労働に耐え、国が戦争に勝つ日を思って頑張ったそうです。近代的な戦争は国家の総合力ですから、女性の力無くしては戦えないということです。


ここからは、記事【2008年12月1日 AFP】の引用になります。
パプアニューギニア東部のオカパ(Okapa)地区の女性たちが、1986年から20年来続く部族間戦争を根絶しようと、男の子が生まれたらひそかに殺す習慣を10年前から行っていたことが明らかになった。豪ナショナル(National)紙が報じた。


 同紙によると、同地区のギミ(Gimi)では、長きにわたる部族間戦争で男手が減り、多くの女たちが育児もままならない状況にあるが、前週ゴロカ(Goroka)で行われた平和と和解のための集会で、2人の女性が「赤ちゃん殺し」を告白した。


 女性たちの話では、戦士となる男の子が生まれなければ、戦争に参加する男の数が減り、部族戦争そのものがなくなるとの考えから、村の女たち全員が約10年前、生まれた子が男児だった場合には例外なく殺すことで合意したという。


 具体的に何人の赤ちゃんが殺害されたかは不明だが、女性の1人は、息子を殺した母親は複数いると話した。同紙によると、この女性は「(赤ちゃん殺しは)許されざる犯罪だが、それが女として部族戦争を終わらせるためにできる唯一のことであり、そうするよりほかはなかった」と涙ながらに証言したという。(c)AFP


「日本の戦時政府の多産婦を表彰」と「オカパ(Okapa)地区の女性たちの選択」は、カードの表と裏の関係にあるということなのですね。

参考URL:http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2544473/3573738

現代の日本に住んでいると、あまりにも単純で荒唐無稽なお話ですが、戦前の日本人の一部にも質問者同じような考えを持っていた人も沢山いたのかもしれないなあとふと思いました。


どのような回答を行おうか真剣に考えましたが、とりあえず質問者の疑問に回答し、その後に戦争の愚かさと、その戦争を抑止する単純な考え方だが、最も有効な考え方によって起こった悲劇を紹介しましょう。


女性も兵器製造等に携わっています。戦争は兵器の製造、兵器の貯蔵、兵器の移送、兵器の使用を繰り返すことと、戦争に...続きを読む

Q太平洋戦争中の食生活は?

この時期になると太平洋戦争時のことがとかく問題になります。
今年も靖国参拝問題とか戦争責任とか・・・。とはいえ、現在の日本を見れば、
不況だ不況だといいながらも飽食を貪っている。戦争自体は毎年語られるけど
戦争中に国に残って生活していた人たちについては忘れられがちな気がして。
どのような生活で、どのようなものを食していたのか良くご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、
薩摩芋、干し杏、大麦、等が主食の座を占めたことも有ります。

白米のご飯と梅干は最高のご馳走。肉などお眼にかかることも有りませんでした。
総ての生活物資は国の統制下、一人にどれだけかの割り当てが有りましたが、

戦争末期になるとこの割り当ても有名無実でした。
履物、衣類も総て同じ、年々大きくなる子供は履物には苦労しました。

右左大きさの違う靴を貰って喜んでいましたが最後にはこれも無くなり
草鞋を履いていましたがこれも新しい物は学校で盗まれました。

欲しがりません勝までは、この標語の下に耐乏生活をしていました。

海に魚は多く居たようですがこれを獲りに行く漁船も軍の管理下、
漁をする人も少なくなり、漁船も海に出ると爆撃の標的になりました。

私は戦争終結後、微熱が続きましたが飢餓熱、栄養失調の発熱でした。
私達年代の人が戦争の体験を語るとき最後には食べ物話で終わります。

日本の大中都市に暮らした人々の殆どは爆撃の恐怖を体験し、衣食住総てで
辛酸をなめた筈です。

このような生活が精神的な重荷になり語ることを拒否する人もあると聞きました。
野坂昭之(字が違うかも)のアメリカひじきと言う小説が終戦前後の食生活を書き賞を貰った筈です

確かこれをもとにしたアニメが有りました。
見ていて目頭が熱くなりました。

私の姪がこのような話を聞きたがり話し事が有りますが2時間くらい話しても
終わりませんでした。

このような生活をしてきても人間は生きています。改めて生命力の強さを
実感するときも有ります。

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、...続きを読む

Q日本兵の戦争中の服装

よく映画や漫画などで、迷彩服を着た兵隊が出てきますが、
日本兵も迷彩服を着て、ジャングルの中で戦っていたのでしょうか?
どうしても「迷彩服」と聞くと外人の兵隊が着ているイメージがあるのですが、
それは僕のただの思い込みでしょうか。

「迷彩服を来た日本兵がジャングルで戦っている」という表現(設定)は
無理はないでしょうか?

Aベストアンサー

日本では、「視認性を低くする」という意識は無かったみたいです。
なんせ、「無敵皇軍」ですら。
それに、「5銭の葉書で集められる兵隊」という言葉が残っている位ですので、「擬装」をしたという話も寡聞にして知りません。
「バンザイ突撃」が物語るように、余り気にしなかったのでしょう。
いずれにせよ、日本軍が迷彩戦闘服を使用していたという記録は知りません。旧軍の戦争資料館でも見たことがありません。

Q太平洋戦争時の衣食住について

小学校6年生の息子の夏休みの課題で太平洋戦争についての課題が出ました。それぞれ「衣」・「食」・「住」で振り分けられており、いろいろネット検索しましたが子供には難しすぎてなかなかよい答えが出ません。「衣」に関しては服装や・戦時中どのような配給をされていたのか、「食」に関しては食べていたものや料理など、「住」疎開や住居に関してどのようにすごされていたか。どうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

お子さんの宿題ですし本人にさせるのが一番かと。お身内や身近な方に戦争を体験されてる方がいらっしゃらないなら、他の方もおっしゃってるようにネットより図書館に行かれるのは良いと思います。うちの両親は戦争体験者で当時の知人との手紙などから生活の様子も多少判りますが、まだお子さんなんですからすぐネットと言うのではなく、何から情報を得るか考える事も勉強なのでは?
とは言え、もう夏休みも終わりなんですね。間に合わないようなら諦めるしかないでしょう。恥をかいて人間は成長します。


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