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「生物学」のカテで質問したのですが、回答者様より「歴史」のカテで質問した方が良いとのことで同文を載せます。
現在、双子が生まれても珍しくありませんが、江戸時代や、その前の戦国時代及び平安時代に双子が官・民・武に関わらず生まれた(存在した)という事を私の知る限り聞いた事がありません。
長寿の双子姉妹で有名な、きんさん・ぎんさんも出生年は江戸後期~明治初期の頃と記憶しています。それ以前の双子の記録・文献は存在しているんでしょうか?
歴史上の人物の身内に双子がいたという記録・文献があってもおかしくはないと思うのですが・・・
例えば、徳川吉宗には双子の弟がいたが、幼くして死んだとか、風貌はそっくりだが、兄に似ず凡庸だったとか・・
それとも、双子は忌み嫌われていて(不吉の前兆)片方を抹殺して、記録に残さなかったとか・・・(つのだじろうの漫画にそんな回があった)
はたまた、きんさん・ぎんさんの年代では双子が生まれるのは、極まれでその頃の日本の食文化では、生まれる土壌では無かったとか(女性の子宮が適していない)
以上、あくまでも私の想像ですし、国内に限っての質問です。
外国の双子の記録・文献も含め、ご存知の方がおられましたら教えて下さい。

A 回答 (7件)

海外のことは知りませんが、日本についてだけ少々。



まず、史料から日本の記録を参照するに当たってその誕生日を把握することが困難なことはご存じでしょうか。
瓦解前は所謂「数え年」と言われる方法を採用していたため、1月に生まれようが12月に生まれようが、次の年の正月に2歳(0歳という観念もない)になります。
さらに、父親が同じでも母親が別な場合、同い年の兄弟というのも出てきます。
しかしながら、母親は不明な場合がかなり多いため(天皇の息子であっても、母親がはっきりしない場合さえあります。母親がわからない著名人は多いです)、同母であるか、異母であるかの判断は極めて困難です。

そんな中で、どの兄弟が双子か、というのを判断するのはかなり難しい問題となるため、また、別の回答者様がおっしゃるように、双子というもの自体が前近代にひじょうに忌み嫌われた存在であったことから、史料に残りにくくはなっています。

でも記憶する限り、確か百人一首にも歌のある藤原敦忠は双子じゃなかったかな…?記憶違いかも知れないですが、揃って同日に死亡した、とかなんとか説話で読んだ気がします。
あと、記紀をひもとくと双子はたまに見かけますね。佐保姫・佐保彦も双子じゃなかったですっけ。


まぁ、今と違い、出産の年齢がひじょうに早く、また、医療の進んでなかった時代のことですから、双子は現在よりもずっと出生率が低かったのではないかと思いますよ。なので、食文化の問題以前のことかもしれませんね。医療に詳しくないのでこれは憶測ですが。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
>まず、史料から日本の記録を参照するに当たってその誕生日を把握することが困難なことはご存じでしょうか。
がーん! 思わぬ見落としがありましたね。言われてみれば3~5世代前の戸籍謄本だってあやふやで、書体が解読不能ですもんねぇ・・増してやそれ以前の事なら尚の事。
やはり、他の回答者様がおっしゃる様に、不吉説が有力ですね。
出産時の年齢及び出生率の低さについての視点(意見)は「成程、それもあるな」と気付かされました。

お礼日時:2008/11/27 23:28

No.5 です。


>なんか、後世の人々が後付けで神格化してしまった様な感が否めないのですが・・・
おそらく現代人と古代人の考え方にはかなりの相違点があったのだろうと思います。
現代人にとっては双子なんて珍しくもなんともないですが
古代に双子は忌まれて世間から隠されていたことを考えると
イエスの復活が双子であることを利用したトリックであったとしても
当時の人々は奇跡であると信じ込んだ可能性はあると思います。

また、イエスが双子であるという説があるというだけで、
イエスが双子であったと断定するまでには到っていません。

>青森にキリストの墓があったという説は、兄のイエスなんでしょうか?(何故、日本に墓があるの?)

戸来村のことですね。
ヘブライ語の民謡が残っているとか幼児のおでこに十字を描く習慣があるとかで話題になりましたね。
戸来村のパンフレットには死んだのは双子の弟のイスキリで
イエスは日本で死んだ、十来塚はイエスの墓、十代塚はイエスが渡来するときにもってきたイスキリの髪を埋めてあるという旨が描かれているようです。

ただこの墓が本当にイエスの墓とする説は有力ではないと思います。
一説によれば14世紀頃テンプル騎士団がこの土地に上陸したのではないかともいいますが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%B3% …
テンプル騎士団については上を参照

申し訳ない、これ以上のことは知らないです。
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この回答へのお礼

再度のご回答及び私の愚問にお付き合い頂き有難う御座います。
へぇ 戸来村という所にあったんですか。
>ただこの墓が本当にイエスの墓とする説は有力ではないと思います
私も眉唾モノだと思ってます。しかも青森?(よくカトリックやユダヤ人が怒らないなぁ。嘘だとわかっているのか、それともどうでも良いのか?)
テンプル騎士団ってスゲェな ビジネスセンスがあったんでしょうね(まるでオ○ム真○教みたい・・違うか)
ん? 今完全に自分の頭から双子の謎が抜けてしまいました。

お礼日時:2008/11/28 22:51

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

古くから、双子や三ツ子の記録は、多少、残っていますが、「畜生道(ちくしょうどう)」と呼ばれ、子どもを「ポロポロ」と生むことは、「忌(い)み嫌われて」いました。
歳の離れた兄弟でさえ、争いが絶えない時代でしたので、双子などでは、なおさらのこと。そこで、生まれた時、弱々しいと思われる方を「抹殺」したり、直ちに、「養子」に出したり、仏門に預けたりして、一人だけを擁立しました。

そこで、皆さんも色々書かれていますので、私は、一番身近なところで「徳川家康」を取り上げてみましょう。

徳川家康も双子だった・・・と、言う「記録」が最近になって、随所に現れるようになったてました。
まず、徳川家康は、天文11年(1542)12月26日に生まれましたが、双子で生まれた可能性が大きくなってきました。
そして、弟は「恵最(えさい)」として、仏門に預けられ育てられました。
その後、家康は、ご存知の通り、慶長5年(1600)9月の関が原の戦いで石田三成を破り、慶長8年(1603)2月征夷大将軍に任じられ徳川幕府を開きました。
そして、慶長10年には、早くも将軍職を秀忠に譲り、隠居をし、駿府に移り住んだ。しかし、3代将軍の座を巡り、春日局が乳母となって育てた竹千代(家光)と、秀忠の正室お江与の方が可愛がった国松との間で、次期将軍を争った。そこで、春日局は「お伊勢参り」と称して、密かに駿府の家康を訪ね直訴した。
これにより、慶長16年(1611)に家康が江戸へ来て、竹千代を次期将軍にすることで、決着が付いた・・・と、言われていますよね。

しかし、最近の調査で、本物の「家康」は、慶長19(1614)10月の大阪冬の陣で死亡した、とされる記録が見つかったそうです。
では、その後の家康は・・・?
将軍が徳川氏に移ったとはいえ、まだまだ、豊臣方の存在は大きく徳川幕府の権力も弱く見られることを恐れ、そこで、家康の死を隠すために、弟「恵最」が直ちに「影武者」として登場。
翌年の元和元年(1615)5月の大阪夏の陣では、影武者の恵最が家康の身代わりとなって参戦。しかし、総指揮は、秀忠に全てを任せた。
そして、いまだに、
「家康は鯛の天ぷらを食べ過ぎて(食中毒で)死んだ」
と、言われていますが、
研究の結果?
(1)スペインのアビラという町にある「聖トマス修道院」に、その当時、日本で活動をしていた宣教師が、
「家康は、狩猟に出て、突然、失神をし、数日後に死んだ」
との記録が見つかりました。
(2)影武者であった家康(=恵最)も、暇をもてあまし、たびたび「鷹狩り」に出かけたようです。
(3)その際、道案内をしたのは、静岡市に、今も残る「良知惣右衛門家(らちそうえもん)」で、現在の良知家の当主も、代々、
「家康は鉄砲に撃たれて死んだ」
との言い伝えがあり、実際に、その鉄砲を所持する子孫も現存する。
(4)では、誰が「暗殺」を企てたのか。
春日局である。
(5)春日局は、影武者の家康のところへも、たびたび、訪ねており、家康の行動が分かっていた。
(6)そして、最大の原因は、慶長16年(1611)に本物の家康が次期将軍を竹千代に決定したが、どうやら、国松の方が頭脳明晰だったらしく、影武者の家康は、竹千代ではなく国松を将軍にしようと、これまでの決定を覆そうとしていた。
(7)そこで、春日局の指図で、鷹狩りに出た家康(影武者)を、元和2年(1616)鉄砲で「暗殺」した。4月17日に死亡した。

これは、2008.10.14 TV東京「日本ミステリー」で、放映され、「証拠品」も数々映像として見られました。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
なんか、予想以上に私の質問に色んな回答があるので驚いてます。
つまり、抹殺は間引きみたいなもんですね。
徳川家康が双子って、あの原哲夫・画の「影武者・徳川家康」じゃないんですか!
確か、影武者の名は世良田二郎三郎でしたっけ?その人ではないんですか?
やはり双子は過過しい物だったんですね。

お礼日時:2008/11/28 18:52

イエスキリストが双子であったという説があります。



十字架にかけられて死亡し、埋葬されたイエスは数日後に復活しました。
これは精神論などではなく、生身のイエスが復活したとされ、奇跡が起こったとされています。

これに対してイエスキリストが双子であったという説があります。

キリストには双子の弟がおり、ゴルゴダの丘で十字架に架けられて殺されたのは、兄のイエスではなく、弟のイスキリだったというのです。

十字架上のイエスは死ぬ直前、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(もしくはエロイ、エロイ、レマ、サバクタニ)」と叫んでいます。
これは「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と訳されています。

イエスは、父なる全能の神に召されて、喜んで死んでいったとされていますが、とてもそんな風には聞こえません。

エリ(ヘブル語)もしくはエロイ(アラム語)は「高い」あるいは「より上にある」の意で、そこから「神」をさす言葉であると解釈されたようです。

イエスキリスト双子説ではエリまたはエロイを「より上にある=兄」の意味であると解釈しています。
つまり十字架に架けられた男はイエスではなく双子の弟のイスキリで「兄さん、兄さん。どうして私を見捨てたのか」という意味であるというのです。

「マルコ」には、「ある一人の青年が、素肌に亜麻布を一枚まとったままで、逮捕されたイエスについて行ったところ、彼もまた逮捕されそうになったため、亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた」
と記されているそうです。

イエスは逮捕されそうになった時、身近に居たイスキリと入れ代わり
キリストは、弟を心配してイスキリの後をついて行ったが、自分も逮捕されそうになったので目に付きやすい白い亜麻布を脱ぎ捨て、はだかで逃げた、というのです。

仏教には弥勒菩薩という神(仏)がいますが
弥勒菩薩とはミトラ教におけるマイトレーヤのことで、キリスト教におけるイエス・キリストのことであるという説もあります。

東西はシルクロードを通じて融合し、唐代の中国にはネストリウス派キリスト教(景教)も伝わっていました。

中国に釈契此(しゃくかいし)という人物がおり、日本では七福神の一、布袋として信仰されていますが、
布袋は弥勒の生まれ変わりであると考えられていたようです。

布袋が死んで葬られた後に、別の州で姿を見かけたという話が伝わっており、布袋もまた双子だったのではないかと想像が膨らみます。

以上の説については反論のある人もあるかと思いますが
そういう説もあるのだ、程度に聞き流してください。
絶対これが正しい、という意味で書いているのではありません。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3007657.html
にあるように双子というのは忌まれた存在であったと思われます。
その結果、多くの双子の片割れが歴史から抹殺されているのではないかと考えています。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
三大聖人の一人、キリストが双子だったとは知りませんでした。
なんか、後世の人々が後付けで神格化してしまった様な感が否めないのですが・・・
じゃあ、青森にキリストの墓があったという説は、兄のイエスなんでしょうか?(何故、日本に墓があるの?)
やはり、不吉により抹殺説が有力ですね。

お礼日時:2008/11/28 18:39

戦国時代になると思いますが、後に信長さんの家来になる中川瀬兵衛清秀という武将がおり、弟の淵兵衛重継と共に剛勇を謳われたは有名で、当時、


・摂州にて中川清秀兄弟同じ出立にて武勇に優劣なく、働きたるを諸人見分けぬとて歌を詠じて知分る其歌に、
「戦場の真先駈ける日の丸は、赤は瀬兵衛、白は淵兵衝」
とはやされました。
この二人元服前の名前からすると双子だったのではないでしょうか。
死んだのも「天正11年四月賤ヶ岳の戦で清秀は弟淵兵衛重継と共に、柴田勝家方の佐久間玄蕃盛政と大岩山で戦い、兄弟共討ち死した。」とあります。
歴史的には兄の方が有名なようですがそれは一族の長だったからだと思われます。弟は家老でした(中川石見守)。
「中川資料集」というものがあるとの事、歴史に詳しい方にお任せします。↓
http://www.1134.com/ibaraki/siro/saguru.html
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
へぇ こんな具体的な細かい記録が残っていたんですね。
大名だったら、影武者になっていたでしょうね。

お礼日時:2008/11/27 23:11

れっきとした事実とは言い難いのですが、日本書紀の景行天皇二年条に以下の記述があります。


 
 其大碓皇子小碓皇子 一日同胞而雙生

現代語に訳すると「(景行天皇の皇子である)大碓皇子と小碓皇子は、
一日で同じ胎盤から双子として生まれた」と言うような意味になります。

小碓皇子とは熊襲平定や草薙剣、弟橘媛の入水などで有名な のちの日本武尊のことです。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
うーん・・正直古すぎて、信憑性無さそうですね(ごめんなさい)
この時代まで遡ると、殆ど神話化されてしまうのではないのでしょうか?

お礼日時:2008/11/27 23:08

古くは、『古事記』『日本書紀』に登場する、あのヤマトタケルノミコト(ヲウスノミコト)が双子で、兄のオオウスノミコトを殺害してます。



あと、徳川家康の次男・結城秀康が双子だったと言われていて、確か・・・里見浩太郎さん主演の時代劇の「長七郎 天下御免」の松平長七郎が、その双子の弟の子供って設定だったような気が・・・ドラマのほうは、うろ覚えで自信ないですが・・・

双子の話は、他にも、けっこうあったと思いますが、今すぐ回答できるぶんだけ・・・

とりあえず、昔は、双子は縁起の悪いものとされていたので、結城秀康のように、一人は子供として、もう一人は養子に出したり、寺に預けたりして、その過去を抹消する事が多いので記録に残らない事が多々あるようです。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
え!結城秀康が双子だったんですか?戦国物は好きで、たまに雑学本は読むのですが・・初耳です。
「長七郎 天下御免」は知りませんが、江戸日記は知っています。(続編?)
やはり、他の回答者様がおっしゃる様に、双子は不吉な物だったようですね。
 

お礼日時:2008/11/27 23:04

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